5:南北朝シーズン2・幕府支配の矛盾

 さて、南北朝の動乱・第二期は、反幕府の立場をとっていた山陰地方の山名やまな時氏ときうじが幕府に帰順した正平18年・貞治2年(1363)までです。


 ※二代将軍・足利あしかが義詮よしあきらが没した正平22年・貞治6年(1367)までとする意見も。


 この時期は、幕府支配の矛盾が顕在化し、幕府内部に熾烈な抗争が巻き起こりました。

 尊氏が政務を任せていた弟・直義ただよしと足利家の執事・こうの師直もろなおとの対立が表面化し、観応年間には「観応の擾乱じょうらん」とよばれる幕府の内紛が起きます。


 将軍・尊氏の弟で幕府の実権を握る直義の派閥と、幕府執事・高師直&将軍・尊氏の派閥が争い、最終的に師直も直義も死亡したことから、生き残った尊氏が擾乱に勝利ということに。

 なお、実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家同士の確執なども背景としていますが、それをめぐって、南朝との関係は興味深いものに変化していきます。


 政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦います。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことに。


 南朝武将として台頭した直義は、正平6年・観応2年(1351)1月の第三次京都合戦、次いで2月の打出浜の戦いで高師直に勝利。

 師直・師泰もろやす兄弟とその一族郎党は、護送中に上杉うえすぎ能憲よしのりらに暗殺され、 鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきたこう氏は没落します。

 護良親王もそうでしたが、敵方に護送されている最中は、もはや命がないと思った方がいいかもしれませんね。


 さて、正平6年・観応2年(1351)には、今度は尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏します。

 そこで年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任されます。


 尊氏は正平6年・観応2年(1351)12月薩埵峠の戦いで弟の直義を破り、足利党を統一。直義は翌年の2月26日、ちょうど師直の一周忌に急死します。

 直義の養子・後継者で、尊氏の非認知子でもある直冬ただふゆは、この後も南朝と連携して、室町幕府・北朝への抵抗を続けました。


 前回、申し上げたように、南朝は初期段階から既に劣勢であり、後醍醐天皇が崩御してからは、文字通り、執念のみで存続してきたかにみえましたが、この頃から、南朝は<反幕府勢力の大義名分>へと変容してきたのです。

 それは足利幕府の二頭である尊氏・直義兄弟が引き起こした観応の擾乱によってはじまるなど、やはり動乱の原因の大きな一因である彼らの所業らしいと言えるかもしれません。


 観応の擾乱後、南北は泥沼の戦いを続け、四度に渡る京都合戦を繰り広げますが、勝敗は付きません。


 直義が死んだ後、正平統一政権(旧南朝)は、足利方の影響を完全に払拭しようと、この機に乗じて京都へ進攻して、尊氏の嫡子の宰相中将・足利義詮を逐い、京都を占拠して神器も接収します(第四次京都合戦・八幡の戦い)。


 義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還しますが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光すこう上皇(光厳の皇子)を奈良・賀名生かのうへ連れ去ります。

 つまり、天皇の綸旨・宣旨、もしくは上皇の院宣という幕府側の大義名分を削ごうとしたわけです。


 ですが北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰します。南朝の作戦は失敗した訳です。


 ここで一つ気になるのは、建武の新政が終わることとなった、後醍醐が尊氏に降伏した一件です。

 このとき、実は後醍醐の皇子に「神器A」を渡し、偽物である「神器B」を降伏したために北朝・足利幕府へ渡したのですが、後醍醐は脱出すると、「AもBも偽物で、本物は私が持っている神器Cだ。だから正統は私、後醍醐天皇である」といった理屈を提示したのですが、後醍醐が崩御してしばらくして、北朝と合体し(正平の一統)、それが再び別れる事となる際に、改めて神器を回収しているのです。


 もちろん、再び北朝がこの「神器B」によって成立しないように、という意図なのでしょうが、今の私たちの感覚で言えば、偽物なら放っておけば?と思ってしまいますよね。

 もしかすると、後醍醐の正統理論は、やはり屁理屈だったのでしょうか……?


 それは置いておくとして、幕府側の内紛がなるほど南朝を利したのですが、幕府はそれを克服。それまで二分化されていた将軍権力がようやく一元化され、将軍の親裁権は拡充・教化の方向へ。


 正平9年・文和3年(1354)、南朝の実質的指導者・北畠親房がなんと死去。南朝はブレーンを失ったのです。

 ですが、足利直冬が南朝に合流したことから再び武力を回復し、正平10年・文和4年(1355)2月、直冬と楠木くすのき正儀まさのりは、第六次京都合戦(神南の戦い)で京都の一時的占拠に成功しますが、東国から尊氏が迫ったため、南朝は京都を再び放棄。


 僕は南朝や北朝というより、実は北畠氏びいきなところが無くはないのですが、あくまでも公平に、その遺物を述べると、親房は『神皇じんのう正統記しょうとうき』を著し、また伊勢に拠点を育みました。


 伊勢には「神宮」があり、鎌倉時代以前は、皇族女性の一人を送り、「斎宮さいぐう」という、言わば特別な巫女のような役職を担っていたのですが、いつしかその文化が廃れます。

 しかし両統迭立時代に、やがて南朝となる大覚寺統から再び斎宮が派遣されているなど、動乱より前からコネクションが形成されていたため、親房らが伊勢で拠点を構えることが可能となったのです。

 親房の三男・顕能は、伊勢国司として南伊勢を支配し、その後も北畠氏は戦国大名として、織田氏に消滅させられるまでその地に関わり続けます。


 ちなみに『神皇正統記』は、①後村上天皇への帝王学の書説、②東国武士への勧誘書説、③自己との対話(哲学書)説などの他、日本史概説書説・神国思想書説など、誰に向けて書かれたものか、よく分かっていません。


 ともかく、武士はこの頃、不満があれば反幕府となって南朝に降伏し、また解決すれば北朝・幕府軍に戻る、などの行動をよく取りました。



 南朝の筆頭武将でありながら南朝内の和平派を主宰する楠木正儀(楠木正成の三男)は、これまでにたびたび北朝・室町幕府へ和平を打診してきたのですが、内外からの妨害により不首尾に終わっていました。


 第七次京都合戦後、両朝は既に疲弊しており、今度は和平の機運が高まってきました。

 かつて主戦派だった南朝の後村上天皇は、和平派の正儀を天皇の最大の側近である綸旨奉者に選ぶなど和平も一考するようになり、また将軍足利義詮も文治派の斯波しば高経たかつねを実質的な執事に起用するなど、互いに融和路線を取るようになってきたのです。

 正平21年・貞治5年(1366)8月には、貞治の変で、斯波高経・義将が失脚しますが、将軍・義詮は斯波派の融和路線をそのまま継続。


 ところが、翌、正平22年・貞治6年(1367年)、南朝側の和平交渉代表・洞院とういん実守は「北朝が南朝に投降する」という形式に固執し、これに義詮が激怒して一旦交渉が決裂、戦争の再開寸前にまでなってしまいます。

 まさに南北朝の動乱とは、後醍醐の理想と現実からの乖離、そして北朝の成立は幕府承認・南朝追討の院宣欲しさなど、大義名分のいざこざと言えるかもしれませんね。


 これに対し、後村上天皇は急遽、楠木正儀を正式な南朝代表に起用します。

 正儀の和平交渉によって、義詮も態度を和らげたことから、初めは上手くいくかに見えました。

 しかし結局、正平22年・貞治6年(1367)12月7日に二代将軍・義詮が薨去こうきょ、翌、正平23年・応安元年(1368年)3月11日に南朝・後村上天皇が崩御、と相次いで両朝首脳が世を去ったことから、この和平交渉もまた、自然消滅してしまったのです。


 これ以降、「明徳の和約」による南北朝合一まで、25年もの間、南北間の和平交渉は再開されませんでした。

 また正儀は明徳の和約の下準備をした可能性はあるものの、本人は正式な合一を見る前に死去しているのです。

 三木一草や後醍醐天皇、そして親房など、初期メンバーがこの世を去ったが故に、かえってこうも動乱は長引いたのかもしれません。



 ☆キーワード【正平しょうへいの一統】

 ○南北朝期の正平年間(1346~70)に一時的に南北朝が合体したこと。


 ○幕府・北朝と南朝との対立抗争のさなか、直義と尊氏の執事・高師直との対立に端を発した観応の擾乱じょうらんによって天下は三分された形となったが、尊氏は背後を固めて東国の直義追討にあたるため1351年10月、南朝と和議を結び、翌月には北朝年号〈観応かんのう〉を廃し、南朝年号〈正平〉を用いて恭順の意を表し、北朝の崇光天皇、皇太子・直仁親王は廃された。


 ☆キーワード【観応の擾乱】

 ○幕府開創期の足利尊氏とその弟直義が対立し、各々にくみする武将が各地に転戦した政争。


 ○1349年7月、先に直義と不和になった高師直は、直義討伐を企てて尊氏邸を囲み上杉重能らを罪した。

 次いで翌、観応元年10月、尊氏と不和になった直義は、大和に走って南朝方に降り、挙兵して尊氏と戦った。

 翌年2月、尊氏と直義はいったん和睦、師直・同師泰は直義方に殺害された。

 同8月、直義は再び尊氏と争って北国に走り、鎌倉に逃亡。

 11月、尊氏は直義討伐の軍を率いて東下し、直義の軍をうち破った。翌3年1月、鎌倉にはいった尊氏は、2月直義を殺害。

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