南北朝時代

4:南北朝・シーズン1

 南北朝時代の始期は、建武の新政の崩壊を受けて、足利尊氏が京都で新たに光明こうみょう天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野よしの行宮あんぐうに遷った1337年1月23日(延元元年/建武3年12月21日)です。

 ※始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合も。


 終期は、南朝・第4代の後亀山天皇が北朝・第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した1392年11月19日(元中9年/明徳3年閏10月5日)。


 したがって、皇統が南朝と北朝に分裂抗争した1336年から、両朝が合一した1392年までの 57年間、これが今回から本格的に解説することとなる<南北朝時代>です。


 ところで、尊氏が擁立した光明天皇は、その即位によって北朝が成立したので北朝初代天皇ということになりますが、鎌倉末期に在位した兄・光厳こうごん天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇126代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされています。



 さて、57年の南北朝の動乱ですが、概ね三期に分けて語る事が可能です。

 今回は第一期・シーズン1を解説いたします。


 第一期は、南北両朝が並立してから、南朝の東国経営の拠点たる常陸関・大宝両城が足利軍(幕府軍)の攻撃のまえに陥落した1343年までです。

 吉野行宮が陥落した1348年とみる意見もありますが、いずれにせよ、この時期に早くも南朝側は大打撃をうけ、劣勢に陥っています。


 ちなみに行宮あんぐうというのは、「かりみや」とも呼び、天皇の行幸ぎょうこう時あるいは、政変などの理由で御所ごしょを失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事です。



 中先代の乱の際の、尊氏の恩賞給付行為を、新政からの離反と見なした後醍醐天皇は、建武2年11月19日(1336年1月2日)、新田にった義貞よしさだ北畠きたばたけ顕家あきいえに尊氏討伐を命じ、建武の乱が開始されます。


 新田軍は箱根・竹ノ下の戦いで敗北。さらに、新田軍は京都で迎撃し(=第一次京都合戦)、結城ゆうき親光ちかみつ(三木一草の一人)が戦死するが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり尊氏軍を駆逐。


 尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳こうごん上皇の院宣いんぜんを掲げて東征。

 ここまでが以前に解説した部分にあたります。


 さて、迎え撃つ後醍醐(建武政権)側は新田義貞・楠木くすのき正成まさしげ湊川みなとがわの戦いで敗れ(正成は戦死)、比叡山に篭ります。


 第二次京都合戦で数ヶ月に渡る戦いの末、建武政権側は京都と名和なわ長年ながとし千種ちぐさ忠顕ただあきら重臣(三木一草)を喪失し、続く近江の戦いでも敗北。


 それ故に、延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)、後醍醐は尊氏に投降し、建武政権は崩壊。

 尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)します。


 その上で、『建武式目』を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開いたのですが、後醍醐天皇は京都を脱出して奈良・吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣したのです。


 延元2年/建武4年(1337年)、南朝・鎮守府大将軍・北畠顕家は、後醍醐天皇や父の北畠親房の救援要請に応じ、12月、鎌倉を征服。

 次いで、京都奪還を目指し、翌年1月に美濃国で青野原の戦いで幕将・土岐とき頼遠よりとおを破るも、北陸の新田義貞との連携に失敗し、京への直進を諦めることに。


 顕家は伊勢経由で迂回を試みましたが、長引く遠征によって兵の勢いは衰えており、次の戦が生死をかけた戦いになることを覚悟した顕家は、後醍醐天皇への諫奏文『北畠顕家上奏文』をしたためます。

 そして、延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)、石津の戦いで幕府執事・こうの師直もろなおに敗れ、ついに戦死。


 さてさて、南朝総大将・新田義貞は、建武の乱の末期(金ヶ崎の戦い)から引き続き北陸方面で孤軍奮闘を続けていましたが、延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)、藤島の戦いで斯波しば高経たかつねに敗れ、戦死します。


 既に重臣「三木一草」を失い、北畠顕家・新田義貞という南朝を代表する名将が相次いで戦死するなど、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つこととなったのでした。



 そして、延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)、後醍醐天皇がなんと崩御します。その際、このような言葉を遺しました。


玉骨ぎょっこつ縦令たとい南山の苔に埋もるとも、魂魄こんぱくは常に北闕ほっけつの天を望まんと思ふ』


 ふつう、天皇陵は「天子南面」という理念に基づいて、南側に面してつくられるものですが、後醍醐天皇陵はこの言葉を受けて、北面、つまり京都に向かってつくられています。


 また、後鳥羽上皇の回でも語りましたが、天皇・上皇の号は崩御の後に贈られるものです。

 ですが後醍醐天皇は、生前自ら後醍醐の号を定めていたのです。

 通説では、これまた先に述べた、天皇親政の理想とされる醍醐天皇に「後」をつけたものという事。


 しかし北朝では、治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」とするか、もしくは徳の字を入れて院号を奉る案もあったのですが、平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られており、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」としたといいます。



 寵姫・阿野あの廉子れんしとの子である義良親王が後村上天皇として南朝天皇に践祚せんそします(践祚日は前帝崩御の前日)。


 立場上敵でありながら後醍醐天皇を崇敬する室町幕府初代将軍・足利尊氏は、その菩提を弔うため、臨済りんざい宗の禅僧・夢窓むそう疎石そせきを開山として天龍寺を開基し、『京都きょうと五山ござん』という臨済宗の寺院の寺格において、第一位としています。


 この頃、南朝公卿・北畠きたばたけ親房ちかふさ(顕家の父)は、関東地方で南朝勢力の結集を図り、常陸国小田城にて篭城していました。

 同年秋、新帝に道を表すため、南朝の正統性を示す『神皇じんのう正統しょうとう』を執筆し、儒学を導入して、帝王には血筋と神器だけではなく、徳(=政治能力)も求められるという特徴的な思想を展開しました。


 親房は興国4年/康永2年(1343年)ごろに吉野に帰還し、後村上天皇の頭脳として、南朝を実質的に指導し、のち、准三宮として皇后らに准じる地位を得ます。

 親房に与えられたのを契機として、天皇の外戚以外の臣下にも准后宣下の道が開かれるなど、文字通り、異例の出世ですね。



 父・楠木くすのき正成まさしげの後を継ぎ楠木氏棟梁となった南朝の武将・楠木くすのき正行まさつらは、正平2年/貞和3年(1347年)、藤井寺の戦いや天王寺・住吉の戦いで、幕府の有力武将・細川ほそかわ顕氏あきうじ山名やまな時氏ときうじに勝利します。


 流石は三木一草・楠木家の棟梁だといった具合に、南朝は喜んだでしょうが、事態を重く見た幕府執事・高師直は、大軍を編成し、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、四條しじょうなわての戦いで正行とその弟・楠木正時兄弟らを討ち、敗死させました。


 四條畷の戦いで南朝に完勝した高師直はその勢いで、吉野へと兵を進め、ついに、吉野行宮を焼き払うという成果を残します。

 吉野が陥落して後村上天皇ら南朝一行はより奥まった、賀名生あのう(奈良・五條市)へと逃れ、衰勢は覆い隠せなくなります。


 もともと「穴生あなふ」と書いたのですが、後村上天皇が行宮を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生かなうと改めたそうです。

 

 それがどうして「賀名生あのう」となるのか。

 その歴史は、南北朝・シーズン2にて明らかになります!

 元号が両朝別々なので読みずらかったかもしれませんが、良くも悪くも、南朝の歴史はもうすぐ尽きます…………



 ☆キーワード【天子てんし南面なんめん

 ○天から統治を許された人物(天子)は北極を背にして、南を向く、という意味であり、天皇が南を向くと、左が東に。

 東から日が昇るので、日本では左が優位になっており、北極星を背にするということは、天皇は「天」側になる。


 ☆キーワード【北畠きたばたけ顕家あきいえ上奏じょうそう文】

 ○南朝公卿・鎮守府大将軍の北畠顕家が後醍醐天皇に上奏した文。『顕家あきいえ諫奏かんそう』とも。


 ○延元3年/暦応元年5月15日(1338年6月3日)跋で、顕家が石津の戦いで室町幕府執事・高師直に敗れ戦死する一週間前に当たる。


 ○建武政権・南朝の政治における問題点を諫めたもので、文章の悲壮美と父・北畠親房を彷彿とさせる鋭敏な議論を併せ持つことから、南北朝時代を代表する政治思想文とされる。


 ○内容は、特に人事政策(例えば恩賞として官位を与える政策)に対する批判が現存箇所の半分近くを占め、その他では首都一極集中を批判し地方分権制を勧める条項が重要。

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