おさらい編:後鳥羽上皇

 ここで一度、休憩がてらと言っては無礼ですが、後鳥羽上皇についてみてみましょう。

 今回をお読みいただけているということは、これまで数回、承久の乱が登場していることもお忘れでないと思います。

 後醍醐天皇という個性的な天皇の引力によって、どうもそれ以外の天皇は薄れがちですが、後鳥羽上皇もまた、個人的には非常に興味深いお方だと思います。


 ちなみに、どうして私は後鳥羽天皇ではなく、後鳥羽上皇と表記しているのか、実はそれは正否まではいかずとも、個人的に納得できる理由に基づいてのことなのです。


 先に述べさせていただくと、高倉天皇の第四皇子・後鳥羽上皇のいみなは『尊成たかひら』親王。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たります。


 現在の上皇陛下を「平成天皇」と呼んではならないと言われますが、それは、上皇陛下への名称は、崩御(≒死亡)後、その時代の天皇が送るからです(追号)。

 したがって、「今上天皇」「今上上皇」「当今とうきん之帝」といった具合に、本来、存命中に名称がつくことはありません。


 では承久の乱で流罪となったとき、天皇と上皇(院)が新たに即位したため、区別するために、後鳥羽はなんと呼ばれたか、答えは「隠岐おきの院」です。

 文字通り、隠岐島にいる院ということですね。


 さて、先ほど紹介した、追号・諡号しごうシステムで、「隠岐院」が崩御した際、なんと呼び直されたか、それは「顕徳けんとく院」です。言わば顕徳上皇といった感じでしょうか。

 では「後鳥羽」という名称は?


 これはなるほど、公家らしい理由なのですが、後鳥羽以前に、「徳」のついた先例が良くないというのです。

 徳字諡号は、文字通り、4代・懿徳いとく天皇、16代・仁徳にんとく天皇のように、本当に徳があった(と考えられた)天皇に贈られました。


 ですが、飛鳥時代末期から鎌倉時代初期にかけて、皇太子に実権を握られ都に置き去りにされ崩御した36代・孝徳、その子孫が断絶した48代・称徳、藤原良房と対立したために内裏に住むことができなかった55代・文徳、流刑先で崩御し、怨霊となったとも言われる75代・崇徳。

 そして、平家滅亡の際に入水した81代・安徳と『承久の乱を起こした82代・顕徳』。


 怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、逆に「徳の字を贈られた天皇は、怨霊となる可能性のある悪天皇だ」という認識となったのです。面倒なことです(笑)

 「顕徳」の諡号を贈られた天皇後鳥羽の霊が立腹し祟りをなした(と考えられた)事件が起きたため、改めて「後鳥羽」と号を贈り直す事となったのでした。


 ですので、「後鳥羽院」という訳でして、あえて「後鳥羽天皇」と言い換えるのはどうだろうか、というロジックです。


 ☆ポイント【いみな

 ○生前の実名。生前には口にすることをはばかった。忌み名。

 ○人の死後にその人を尊んで贈る称号。おくりな


 ******


 平家が都落ちする際、平家は時の帝・安徳天皇と三種の神器を擁していました。

 都から天皇が消失したため、後白河法皇は新たに天皇を即位させる必要ができました。

 新帝の候補者として(源/木曾きそ義仲よしなかは後白河天皇の第三皇子・以仁もちひと王の第一王子とされる北陸ほくろくのみやを推挙しました。

 ですが結局、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めました。どうも、後白河法皇に呼ばれた4歳の後鳥羽が、快く膝に座ってきたという愛嬌によって、選ばれたとか。


 ですが、壇ノ浦の戦いで思わぬ事件が起きたのです。

 安徳天皇が入水するのですが、三種の神器も一緒に沈むことに。

 勾玉と鏡は回収できたそうですが、剣は海に沈んでしまいます。


 これによって、後鳥羽は前・天皇(先帝/安徳天皇)から譲国されることが不可能になったうえに神器の欠けた天皇となってしまいました。

 後鳥羽は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚・即位することとなりましたが、伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごしたという点はコンプレックスとなりました。


 後鳥羽はそのコンプレックスを克服するため、公家と武家の上に君臨するをより積極的に目指すことになったのです。

 それは刀を打つことを好んだ点や、『新古今和歌集』編纂・改訂をライフワークとしたこと、先例の典拠となる公家の日記を研究し、貴族に抜き打ちテストを行ったなども、よく表しているでしょう。


 ちなみに、刀に関してですが、備前一文字派の則宗のりむねをはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられ、自らも焼刃を入れそれに十六弁の菊紋を毛彫りしたといいます。これを「御所焼」「菊御作」などと呼び、なんと皇室の菊紋のはじまりともされています。


 さて、三代将軍となるみなもとの千幡せんまんを、『実朝さねとも』と後鳥羽は名付け、和歌などによって取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図り、幕府側も子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる「宮将軍(親王将軍)」の構想を打ち出し、それに基づいて、後鳥羽と北条政子は頼仁親王を次期将軍にすることで合意。

 後鳥羽は公武を支配する王者を実現します。


 と思ったのも束の間、実朝が暗殺されたことによって、後鳥羽の戦略は修正を余儀なくされ、その結果が、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗という歴史を生みだしたのです。


 父の計画に協力した順上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った(ここは個人的にちょっと面白い。自主的な配流って何w)。


 これら三上皇のほかに、院の皇子・雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流。さらに、在位わずか3か月足らずの仲恭天皇(当時4歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に就き、その父で皇位を践んでいない後高倉院が院政をみることになるという皇族の大幅人事異動。


 ちなみに、後鳥羽は隠岐に流される直前に出家して法皇となったので、後鳥羽法皇と覚えている方もいらっしゃるかもしれませんね。


 配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は、

「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(≒魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。

 我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。

 もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記したとのこと。


 後鳥羽の系統は、84代・順徳や85代・仲恭の他、83代・土御門つちみかど天皇があり、土御門の皇子として、既に皆さんご存知の『両統迭立』の原因となった88代・後嵯峨へと紆余曲折を経て、継承されています。



 ☆キーワード『新古今和歌集』

 ○鎌倉初期に後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集。

 勅撰集を編纂するための部局「和歌所」が後鳥羽院の御所に置かれ、後鳥羽自身も歌を親撰するなど深く関わった。


 ○編纂方針は「先ず万葉集の中を抽き、更に七代集の外を拾ふ」(真名序/『万葉集』とそれまでの勅撰和歌集に採られなかった和歌より撰ぶ)。


 ○撰者は『古今和歌集』や『後撰和歌集』にならい複数人とし、 源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6人が後鳥羽院の院宣により定められた。


 <工程>

 ①建仁元年(1201年)の下命時から、撰者たちが歌を集めてくる。

 ②後鳥羽自ら歌の吟味・選別。

 ③歌の部類、配列。元久元年までにいったん完成し、奏覧された。

 ④歌の修正、切り継ぎ。承元4年(1210年)~建保4年の間に完成。

 ◇後鳥羽は承久の乱(1221年)により隠岐に流され、19年の月日を過ごしたが、晩年に『新古今和歌集』から400首ほどを除き彫琢を加え、これこそが正統な『新古今和歌集』であると主張(「隠岐本」と呼ぶ)。


 ★和歌「百人一首・99番・後鳥羽院」


 人も惜し 人も恨めし あぢきなく 

 世を思ふゆゑに もの思ふ身は


(訳:人間がいとおしくも、また人間が恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うために、悩んでしまうこの私には)


 ★和歌


 我こそは 新じまもりよ 沖の海の

 あらき浪かぜ 心してふけ


(訳:我こそはこの島の新たなる島守、神であるぞ。沖の――隠岐の海の荒き波風よ、我が意に逆らうことなく心して吹けよ)

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