建武の新政

3:結果は悲惨さ(133)世(4)は建武の新政

 1333年、鎌倉幕府倒幕とともに、後醍醐天皇が京都に戻り天皇親政が始まりました。それがいわゆる建武の新政です。


 新政権は、後醍醐天皇の皇子にして元・天台てんだい座主ざす護良もりよし親王や、有力御家人出身の足利氏、そして上級貴族である北畠きたばたけ親房ちかふさといった上層の人々と、

 僧侶・文観もんかんや、楠木くすのき正成まさしげのように『悪党』と呼ばれた新興の人々で構成されていました。


 さて、傍点で示したように、元々、足利氏と表記していました。

 しかし、討幕の功が認められ、後醍醐天皇のいみなである尊治たかはる親王の『尊』を授けられ、以降、所説ありますが、「足利氏」と変更する事となりました。


 ちなみに、北畠氏は源氏中院家の庶流にあたる上流公家で、後醍醐天皇に仕え、南北朝の動乱では、南朝軍の主力でした。


『後の三房』の一人として吉田定房を挙げましたが、万里小路宣房の他に、親房も後醍醐の側近として知られていました。

 後に書くことになるかもしれませんが、親房は南北朝時代では、後醍醐天皇やその皇子に次ぐ、南朝のシンボルであるのみならず、実質的な指揮官とも言うべき存在なのです。

 それは人員不足などの見方も可能かもしれませんが、やがて『准后じゅごう』という称号を得ます。これは文字通り、皇后に準ずるものと捉えて良いでしょう。


 親房は、後醍醐天皇に奥州駐屯を命じられた長男の顕家あきいえに随行し、義良親王(→後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴くことに。

 この政策には諸説あるのですが、その一つをご紹介します。


 京都という天皇親政のお膝元から遠く離れ、むしろ旧幕府の影響の強い武士にとっての京である東国。

 全国津々浦々を天皇の手中に収めるには、天皇の神聖さとお飾りではない実力を東国に置こうというのです。

 すなわち、『陸奥むつ将軍府しょうぐんふ』の設置です。


 北畠きたばたけ顕家あきいえが陸奥守鎮守大将軍であり、その権威の権化として義良親王が、そして親房はまさに将軍を支えるというシステムです。

 顕家に与えられた権限は非常に強く、後醍醐に一元化されていた恩賞充行の権限も陸奥国については顕家に一任され、天皇が宛行する例外は他ならぬ顕家自身と顕家と同じく建武政権の重鎮であった結城宗広のみとされました。


 ちなみに、『後の三房』のようなもので、建武の新政時代でも後醍醐の側近を表す言葉に『三木さんぼく一草いっそう』というものがあります。


 これは、結親光・名和長年(名和は伯耆ほうきのかみであった)・楠正成・千忠顕の総称で、「ユウキ」・「ホウキ」・「クスノキ」・「チクサ」と4人の姓や官職の読みにちなみます。


 また、顕家は陸奥守として国宣こくせんと呼ばれる奉書形式の言わば命令書を発給し、政所などの役所をはじめ、公卿や在地の武将からなる『式評しきひょう定衆じょうしゅう』という、鎌倉幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた評定衆を置いて、鎌倉幕府の職制を模した<小幕府>としての支配基盤を築いたとされます。


 都では後醍醐天皇の綸旨りんじと呼ばれる命令書が文字通り全てを定め(綸旨万能主義とも呼ばれる)、東国では親房・顕家らによって政治を行うという公家社会が始まりました。


 ですがある日、都には二条河原の落書らくしょと呼ばれるものが出回りました。ちなみに落書とは、時事または人物を風刺・批判・あざけりを含んで書かれた匿名の文書のことです。


 有名な部分を抜粋すると、


 『此頃このごろ 都ニハヤル物

 夜討ようち 強盗 にせ綸旨りんじ

 召人めしうど 早馬 そら騒動さわぎ

 生頸なまくび 還俗げんぞく 自由まま出家

 にわか大名だいみょう 迷者

 安堵 恩賞 虚軍そらいくさ


(訳:この頃都に流行るものといえば、夜討ち、強盗、ニセ文書。使用人の早馬によるそら騒ぎ。生首、僧の還俗、一般人の自由出家。急に羽振りがよくなるにわか大名、落ちぶれて路頭に迷う者。所領の保証、恩賞目的のでっちあげいくさ


 建武の新政が開始されて間もなく、武家政権の伝統と特権を無視し、大内裏だいだいり(承久の乱で天皇の生活する内裏だいりを含めた大内裏が焼失)の造営費用を武士に負担させようとし、天皇側近によるえこひいきや賄賂などが朝廷からの恩賞に影響するなど、武家への不公平さのために、幕府政治の再興をのぞむ者がしだいに増えてきたのです。


 さて、尊氏の弟・直義が相模守に任命され、親房よろしく成良親王を奉じて鎌倉へ赴き、鎌倉将軍府が成立します。


 鎌倉将軍府は建武政権の一機関としての性格を持ちながらも、新政から距離を置いていた尊氏にとって、関東における足利氏の勢力基盤を敷く大義名分となり、さらに1334年11月には、尊氏の政敵でもあった護良もりよし親王が失脚して鎌倉に幽閉され、尊氏の地位が優位となります。


 ※護良親王は足利氏を第二の北条氏として敵視。議論の結果、建武の新政における征夷大将軍は護良親王に。


 そんな折も折、信濃国で北条氏の残党が蜂起して、鎌倉を奪還する『中先代の乱』が起きたのです。


 尊氏は討伐&救援に向かったのですが、後に鎌倉に留まり、帰京を拒否します。

 やがて足利尊氏らは後醍醐天皇の命令に背いた『朝敵ちょうてき』とされ、官軍が足利討伐のために編成・挙兵することに。


 ですが足利勢が追討に派遣された新田義貞らを撃破して京都へ進軍すると、北畠顕家は義良親王とともに陸奥を出立し、義貞と連携して足利勢を駆逐し、1336年3月には陸奥へ帰還します。

 その後も一進一退を行うのですが、私たちは、足利氏が滅亡しないこと知っていますよね。


 そう、第一回で紹介した北朝(持明院統)を擁立したのは、朝敵・賊軍の汚名を晴らすための策略として、尊氏が九州落ちした後に東上し、持明院統の光厳上皇を治天に擁立することによって、皇統が再び二分化されることになったのです。


 すなわち尊氏のロジックはこうです。

 後醍醐天皇(君主)VS.足利氏(臣下)は不敬。自分が数年前、北条氏(主君)と戦うことが可能となったのも、それを超える君主の存在があったから。

 であれば、天皇と戦うには天皇の綸旨、もしくは上皇の院宣いんぜんを貰えればいい!そうすればこちらも官軍だ!


 いよいよタイトルにある『南北朝の動乱』がはじまろうとしていますね。是非ともお楽しみに(';')



 ☆キーワード【中先代なかせんだいの乱】

 ○1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府・第14代執権)の遺児・時行ときゆきが、御内人の諏訪すわ頼重よりしげらに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。

 ※御内人みうちびと:執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者。


 ○先代『北条氏』と当代(後代)『足利氏』との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。


 ○鎌倉幕府滅亡の直後から北条氏与党の反乱が各地で頻発。

 そのようななかで33年(元弘3・正慶2)6月、後醍醐天皇を暗殺しようとする北条高時の弟・泰家やすいえ(改名→時興ときおき)、西園寺さいおんじ公宗きんむねの陰謀が発覚。

 この計画に呼応するはずであった時行は、翌月、諏訪頼重らとともに信濃で挙兵。


 ○守護・小笠原おがさわら貞宗さだむねの軍を破り、足利軍と戦い、井出沢いでのさわ(→東京都町田市)においては、尊氏の弟・直義ただよしの軍を撃破。

 25日、故地鎌倉を奪還、公文所くもんじょを設置。

 ※公文所:公文書管理のみならず指揮・命令・政務・財政・徴収・訴訟などの実務機関としても運用。


 ○しかし直義軍の援助のため京都から下ってきた尊氏に敗れ、8月19日、わずか20日ばかりで鎌倉を奪われた。このことから、「廿日はつか(二十日)先代の乱」ともよぶ。

 諏訪頼重は自刃。時行は逃れた。

 これにより鎌倉入りした尊氏は、たび重なる後醍醐天皇の上洛じょうらく(≒上京)命令に従わず、征夷大将軍を自称し、建武政権に謀反、足利政権樹立の第一歩を踏み出した。

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