2:二度の討幕計画

 後宇多天皇は邦良親王へのつなぎとして、尊治親王を皇太子にし、後醍醐天皇として即位しました。

 治天の君としての大覚寺統の本線・本流は、後二条天皇から邦良親王で、後醍醐天皇は一代主になる、というのが約束事でした。


 したがって、後醍醐天皇が直系に皇位を継承するためには、持明院統だけでなく、自身の所属する大覚寺統も含めた両統と、そして文保の和談という幕府とのコンセンサスをも一挙に破壊する必要があるということです。


 そこで、1324年10月7日に発覚したのが、後醍醐天皇とその腹心の日野ひの資朝すけとも日野ひの俊基としもとが、鎌倉幕府に対して討幕を計画したという疑いであり、その事件を『正中しょうちゅうの変』といいます。


 現在でも様々な説がありますが、実際の運びとしては、4か月に及ぶ幕府の調査の結果、後醍醐と俊基は冤罪とされ、公式に無罪判決を受けました。


 しかし、資朝は有罪ともいえないが疑惑が完全には晴れないので無罪ともいえない、として曖昧な理由のまま佐渡国へ遠流となりました。


 本当に後醍醐天皇が「安産祈願と称して討幕祈願をしていた」のか、本当に「無礼講ぶれいこう」と称して身分関係なく、だらしないことを行っていたのか、そこが今も分からないのは、黒幕が後醍醐なのか、それとも持明院統の罠なのか、いずれにしても幕府としては追求しづらいものがあったのでしょう。


 しかし、後醍醐天皇が「延喜・天暦の治」、つまり醍醐天皇・村上天皇が行ったという理想的な治世の伝説を再現しようとしていたのは事実なようです。

 天皇に口出しをする幕府・院政・摂政・関白などは不要であり、自身に専制的な権力が集まる政治体制(天皇親政)こそ、日本のあるべき姿であると考えた。


 それが二度目の討幕計画ないし運動へと発展します。これを『元弘げんこうの乱』と呼びます。


「どうもこりずに後醍醐天皇が討幕計画してるらしいぞ」という雰囲気が漂うなか、なんと後醍醐天皇の側近であり「後の三房」の一人である吉田定房が密告したというのです。


 それを受け幕府は関係各所の取り調べを進める中、ついに後醍醐天皇は「元弘」への改元を詔し(幕府・持明院統は認めず)、、尊良親王と元・天台座主てんだいざす(=天台宗徒の長官職)の尊雲法親王(→護良もりよし親王)の二皇子と共に、笠置山かさぎやまの戦いを起こしました。


 今となっては有名な武将ですが、当時は「悪党」という家柄のはっきりしない武士?であった楠木くすのき正成まさしげなどもこれに呼応して、赤坂城の戦いを開始・挙兵しました。


 しかし、後醍醐と尊良は間もなく捕縛されるのです。護良と正成は逃げ延びました。

 後醍醐天皇は退位を強制され、後醍醐の大覚寺統と対立する持明院統の皇統(両統迭立)から光厳こうごん天皇が即位し、後醍醐天皇は隠岐島へ、尊良親王は土佐国に流され、腹心・日野資朝は処刑されることに。


 天皇(君主)が、武士(臣下)に罰せられる!?

 当時も今もそういう考えはありましたが、それについてもしっかりとがあったのです。

 それが、あの有名な『承久の乱』と後鳥羽上皇のケース。


 後醍醐どころか、両統迭立する必要性を生んだ後嵯峨上皇よりも数代以前ですが、歴史学的には同じく中世の人です。

 分かりやすく比較すれば、後鳥羽上皇の時代は、源頼朝から始まり、源頼家、そして源実朝と続いた頃で、承久の乱の頃は丁度、実朝が死亡し、北条政子が演説によって、御家人に後鳥羽軍と戦わせたような時代です。


 下って、後醍醐天皇の時代は、ネタバレすると最後の鎌倉幕府・北条得宗家時代ですので、北条高時と御家人が相手となります。


 ちなみに、両統迭立は10年を在位期間として約束しますが、結果として後醍醐は13年、天皇として親政したのですから、譲位させるために、幕府に噂を持ちかけた皇族・公家がいてもおかしくはありません。


 とにかく、後醍醐天皇は隠岐島へ流罪となり、これで名実ともに、北条氏の天下が訪れる、と思いきや、これも一つの天運なのでしょうか、隠岐島に後醍醐派となる人物・名和なわ長年ながとしが助けに来たのです。


 ちなみにこの間、再び楠木と護良親王はそれぞれ戦いをはじめており、また赤松あかまつ円心えんしんという人物も後醍醐派として戦っていたのですが、名和長年も赤松氏と同じく、村上源氏雅兼流を自称していたようですが、長年は大海運業者だったとする説や、楠木同様、悪党と呼ばれた武士であったとする説もあります。


 ともかく後醍醐は隠岐島から名和の援助によって脱出してみせます。


 こうなれば民衆もいよいよ盛り上がってきて、悪党たちや農民も、北条得宗・御家人の専制に苦しんだ思い出を振り返って、後醍醐を支持しはじめます。


 その勢いはやがて、御家人にも影響を及ぼしたのです。

 それが北条氏とも縁が深く、幕府でも有力御家人であった足利あしかが氏です。

 北条氏は家系では平氏、足利氏は源氏であったため、平氏が誤った政治を行った際は、源氏が正す、といったような大義名分もあったのでしょうが、ともかく足利氏と同じ源氏にして御家人であった新田にった義貞よしさだも後醍醐派として挙兵しました。


 足利あしかが高氏たかうじ』は、京都で赤松あかまつ則村のりむらや公家でありながらも武術に長けた千種ちぐさ忠顕ただあきらと六波羅探題を滅ぼした後、新田義貞は鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして、ついに鎌倉幕府は滅亡することとなりました。

 隠岐を脱出して、伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げていた後醍醐は、赤松氏や楠木氏に迎えられて京都へ帰還したのです。


 1185年に開かれた鎌倉幕府。

 1333年、元弘の乱によって滅亡。


 幕府が滅亡したということは何を意味するか、皆さんも思い出してください。

 そう、文保の和談が破壊されたということであり、もはや後醍醐は『先帝せんてい(≒前の天皇)』でもなくなり、隠岐にいた際に即位していた光厳天皇は廃位されました。

 一切がなかったことになり、後醍醐天皇は一代主(中継ぎ天皇)から、院政を排し、天皇親政を行う本物の最高権力者となったのでした。


 大覚寺統の正統も、<後宇多→後二条→邦良親王→(康仁親王)>ではなく、

 <後宇多→後二条→後醍醐→後醍醐の皇子>と強制変更を可能としたのです。

 

 これらをふまえ、建武けんむの新政が幕開けします。


 


 ☆キーワード【延喜えんぎ天暦てんりゃくの治】

 ○平安中期の第60代天皇・醍醐だいご天皇は、摂関を置かず、また延喜えんぎ格式きゃくしきが編纂されるなど、後世の人々から天皇親政による理想の政治が行われた治世と評価。

 同じく平安中期に天皇親政が行われたとする第62代天皇・村上天皇の治世(天暦の治)も評価され、それらを併せたもの。


 ※きゃくは律令の修正・補足のための法令(副法)と詔勅を指し、しきは律令の施行細則を指した。


 ☆【承久じょうきゅうの乱】

 ○後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して、討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。

 

 ○上皇の院宣いんぜんで討伐対象として挙げていたのは義時よしときであったが、北条家は鎌倉幕府全体への攻撃であるとして東国御家人たちを動員することに成功。京都に攻め上って勝利。

 

 ○乱後、後鳥羽上皇は隠岐に配流され、鎌倉幕府は朝廷を監視する六波羅ろくはら探題たんだいを京都に置いた。

 以降、明治維新まで600年以上に及ぶ、朝廷に対する武家政権の優位を決定づけた画期となった。


 ※院宣とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨せんじに相当。

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