両統迭立
1:討幕前夜・両統迭立
そもそも南北朝とは、文字通り、南(奈良・吉野)と北(京都)の二つに朝廷があることを意味しますが、その二つの朝廷とはいかなるものなのか。
そのルーツは、南北朝の動乱より以前、それも建武の新政を始めるきっかけとなった、鎌倉時代末期までさかのぼる必要があります。物語はそこから始まるのです。
その時代、皆さんもご存じの通り、『院政』というものがありました。
現在も上皇陛下がいらっしゃるため、一時期、ニュースや書店などで目にしたので、比較的記憶が新しいかもしれませんが、簡単に言えば、天皇ではなく、上皇(院)が実際の政治などを行うことを、院政と言うのです。
さて、時の院政は、日本の第88代天皇として知られる
現在の天皇制から見れば、一見、「上皇がどうして二人もいるんだよ。てか、上皇が次の院政したらいいんじゃね?」と感じてしまいますが、事がややこしくなり、後に内乱へと繋がるのは、院政できる条件が単に『上皇である』からではないのです。
『
この治天の君こそ、院政を行っていい人であり、治天の君が朝廷で一番偉いのですが、上皇が多くいるその時代、繰り返しますが単に上皇であっても治天の君にはなれないのです。
ではどうなるか。
それは、天皇の直系の父である上皇であればいいのです。
つまりですよ、後深草上皇と、亀山天皇が争ったのは、自身が治天の君になるべく、自身の子(系統・皇統)から次の後継者を出したかったからなのです。
相続で争いが生じるのは何も犬神家だけではないのです。
そしてこの時できた二つの派閥、これが後に南北朝へと繋がることとなる皇統で、この時代は後深草サイドを『
さて、後継者の決定権を委ねられた幕府としては「朝廷のことは朝廷で決めてくれよ」と感じつつも、両者から反感を抑えるために、話し合いの結果、『
これは、治天と天皇の継承を交代しあう、というもので、具体的に示してみましょう。
まず、亡くなった後嵯峨上皇の次に、治天の君になったのは、亀山天皇です。
亀山はしばらく在位のまま政務を執り、1274年には皇太子・
これで亀山は上皇+今の天皇が自分の皇統=治天の君になった、ということです。
ここで、後宇多天皇がそのうち上皇になって、自分の子を天皇にすると、亀山サイド(大覚寺統)の天下が続くとして不平等ということで、亀山→後宇多と来て、次は後深草サイド(持明院統)に政権が移る、これが両統迭立というものなのです。
後深草サイドに移ったので、天皇は
大覚寺統からは
そこで、大覚寺統は「普通であれば、後二条天皇の子どもが次の天皇になれたはずなのだから、花園天皇の次は、二回、
(さあさあ、皆さんお待ちかね)
後宇多天皇は邦良親王を次の天皇にしたかったのですが、まだ幼い。そこで、上記の特例を持ちかけたのです。
後宇多→邦良、で本来は政権交代ですが、後宇多→中継ぎ(一代主)→成長した邦良、という構想を抱いたのです。
ではその中継ぎ、すなわち本来であれば、生涯、親王として過ごすのみで、まさか天皇になれるとは思ってもみなかった人物、実はその人こそ、鎌倉幕府の討幕や南北朝の動乱という事態の中心人物・
中継ぎ天皇の運命はこうです。
自分が天皇になっても、息子ではなく、邦良親王に譲位しなければならない。
となると、上皇になっても、治天の君にはなれない(=院政できない)。
運命の歯車はこのように動き出したのでした。
☆キーワード【
○鎌倉時代後期の文保元年(1317年)に、後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する(両統迭立)ことを定めたとされる合意。
○文保元年(1317年)、伏見天皇が崩御すると、次の皇太子を巡り両統の争いが激しくなり、仲裁を期待された幕府は、以後の皇位継承に一定の基準を定めることを目的に、
①花園が皇太子・尊治親王(→後醍醐天皇)に譲位すること
②今後、在位年数を十年として両統交替すること
③次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見の皇子・
の3点を両統に示し、以降は両統迭立することで和解が成立したといわれている。
※近年の研究では、合意に達しない、単なる話し合いの場であったとする見解が有力。
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