第75話:聖クレメンス

「プラハの学校に、 ぺー……リプシウスさんが、訪ねてきたんですよね」


 ペト様とアル様の出会いは、『チェリせん』第一巻で描かれるエピソードだ。


「はい。あの日、私が校内を案内しているとき、ちょうど生徒たちが芝居の練習をしていたんです」

「聞きました。彼、飛び入りで参加して、セリフもすぐ覚えちゃったんでしょう?」

「ええ、まあ……。ジャコモさん、ほんとにおしゃべりだなぁ」


 アル様は、ちょっとあきれた顔をしている。


 いいえ、ほぼ全部『チェリ占』情報なんです。ジャコちゃんばかり、余計なことしゃべったみたいになってて、悪いな。


 でも、私はただ、あいまいに笑ってごまかした。


「チェコ語のセリフができちゃうなんて、すごいですよね」

「すごいことはすごいんですが」


 素っ気ない口調で、アル様が応じる。


「彼の故郷は、ボヘミアからそう遠くないんですよ――すくなくとも、彼が言うにはね。それに、記憶違いでなければ、彼の母上は、もともとチェコ人ととても似た言葉を話したので、リプシウスさんにはさほど難しくないのです」

「え、そうなの?」

「本人が言うんだから、そうなんでしょう」


 それは初耳。てことは、ペト様、もともとバイリンガルなのか。


「チェコ語のことより、私が驚いたのは、リプシウスさんがすぐに劇の内容を言い当てたことです。劇の途中からほんの数分、稽古を眺めていただけなのに」

「海に沈められる聖人のお話、でしたっけ?」

「……」


 アル様が黙ってしまった。また変なこと言ったかな。


「あれ? ちがいました?」

「いえ、そのとおりです。そのとおりなんですけど」

「?」

「ペトルス・リプシウスも変わった男ですが、カナさんも、ひけをとりませんね」

「いや、それほどでも……」

「ほめてないですから、別に」


 ため息をついたアル様は、コップの水を飲みほすと、チラリと私の顔を見て、また作業を再開した。今度は、なにを彫ってるんだろう?


「聖クレメンス」

「はい?」


 アル様のつぶやきに、思わず聞き返す。


「体にいかりをくくりつけられて、海に沈められる聖人の名前ですよ」

「ああ!」


 そう、たしかにそんな名前だった!


「その聖人の話って、有名なんですか?」

「いいえ」


 アル様が、首を振る。その間も、不思議な形の彫り物を作り続けていた。


「でも、何年も前のことなのに、よく内容まで覚えてますね」

「当然ですよ。私が書いたので」

「え? 書いたって、芝居の台本を?」

「はい。おかしいですか?」

「い、いえ! まったく!」


 アル様と学校劇のかかわりは深くて、『チェリ占』でも何度か出てくる。彼の演出した劇を、大司教みたいな偉い人が見学に来たこともあったはず。にしても、あの台本を書いたのが、アル様だったとは。


「プラハの学校は、聖クレメンスにちなんで『クレメンティヌム』と呼ばれていました。だから、劇のことを任されたとき、真っ先にその題材を思いついたのです」

「なるほど。ところで、その……聖クレメンスさん? どうして海に沈められちゃうんですか?」

「危険視されたのでしょう。ローマ人古来の信仰にしたがわず、多くの人をしゅの教えに改宗させたのでね。皇帝トラヤヌスが、彼を捕らえさせたのです」


 信仰がちがうだけで殺されちゃうなんて、怖いな。


 自分の守りたいもののために命をかける、か。私には――。


「カナさんは、芝居を観るの、お好きなんですか?」


 なんか唐突な質問、来た。


「うーん、好きというほどでは……。2.5次元くらいしか、観たことないなあ」

「ニイテンゴジゲン? なんです、それは?」

「あ、なんでもないです! 忘れてください!」


 中学のとき、仲のいい子に誘われて行ったやつ。あんまり原作を知らなかったから、正直、その友達ほどには感激しなかった。


 でも、もしあれが、ペト様だったら……。役を演じるそのお姿、稽古だけでも見てみたかった! プラハ時代のペト様は、まだティーンエージャー。そのころから、神々こうごうしかったにちがいない。


「なにをニヤニヤしているんですか?」

「いや、その……リプシウスさんが演じているところ、見てみたかったなって」

「ああ、妄想してたんですね。たしかに、あれは見ものでしたよ」


 その情景を想像しながら、私はコップの水をひと口飲んだ。もっと詳しく聞かせて、なんて言ったら、また呆れられちゃうかもな。


「神に仕える身ではありますが」


 アル様が口を開く。


「聖人に列せられるような人を、この目で見たことはありません」


 まあ、そうそういないよね、聖人。ていうか、聖人って、どうしたらなれるんだ?


「でも、リプシウスさんがセリフを語りはじめたとき、不思議な感覚を覚えたのです」

「不思議な感覚?」

「はい。なんと説明したらいいんでしょうね……」


 いつのまにか、アル様の手が止まっていた。


「ほんの数分のことでした。目の前にいるのは、私とほぼ同年齢の少年。ただ、彼の口にするセリフを聞いていると……」

「……いると?」


 続きを聞こうと、思わず身を乗り出す。アル様は、きまり悪そうな顔で、ボソリと言った。


「なんか、カナさんにからかわれそうだなあ……」

「絶対、そんなことしないから!」


 もー、いろいろ面倒くさい人だな!


「しょうがない……」


 アル様が、諦めた口調で話しはじめる。そして、彫刻刀と木づちをテーブルの上に置くと、私の目の前まで近づいてきた。


「たとえばですよ。もし私がその聖人の生まれ変わりだと言ったら、カナさんは信じますか?」

「え! そうだったんですか!?」

「いや、だから! たとえばって言ってるでしょう!」

「ああ……。いいえ、信じないと思います」

「そういうことです」

「え? どういうこと?」

「神は、しばしば奇跡を起こされます。でも、人は奇跡に気づかないことがありうる。私は、セリフをそらんじる目の前の少年が、もしほんとうに聖人の生まれ変わりだったら、などと考えてしまったのです。ほんの一瞬ですが」


 そう言うとアル様は、反応を探るかのように、じっと私の顔をのぞきこんだ。


 つまり、それは……ということでは!?


「わかります! それ、めっちゃよくわかる!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る