第70話:デタラメな世界
アル様、速い!
でも、ミチャの落ちるほうが、ずっと早かった。そのまま行けば、地面に激突していただろう――もしミチャの体が、ありえない角度で方向転換しなかったなら。
ミチャは、寝そべったまま低速水平飛行に移り、アル様たちの横を素通りすると、私の目の前まで来てようやく着地した。さっきまで両腕で抱えていた枕が、まるではぐれた飼い主を探すイヌのように、後からフラフラと追いかけてくる。
「オッハヨー!」
「お、おはよう……」
て、アンタね。朝っぱらから、人騒がせなやつ。髪の毛クッシャクシャのくせして、なんなの、このカワイさは?
ジャコちゃんとアル様が、戻ってくる。
「驚いた! ほんとうに空を飛べるんだね、ミチャは!」
「ジャコモさん、感心してる場合じゃないでしょう!」
アル様は、私にまで文句を言いはじめた。
「まったく非常識きわまりない! 空を飛ぶのは、まあいいとして、眠ったまま外に出るなんて、いったいどうなってるんですか!?」
空飛ぶのは、いいんだ? 非常識なのはたしかだけど、相手は異世界人、ていうか、ミチャだしなあ。
「ええと――」
私が答えようとすると、なぜか突然、ミチャがアル様に猛反撃(?)をはじめた。ものすごい勢いでしゃべっているけど、まったく意味はわからない。
ところどころ「カナ」って聞こえるから、たぶんアル様が私を責めていると思って、かばってくれてるんだろう。いや、もとはと言えば、アンタのせいなんだけど。
「なにを言っているんでしょう? ひとことも理解できません」
ミチャの話を聞いているアル様が、冷静な表情を取り戻す。
「私もわからないんです。この世界の言葉だとは思うんですが……」
「覚えたこともない日本語がいきなり話せるようになるなら、この世界の言葉だって、すこしは理解できてよさそうなものですけど」
それ、どういう理論よ? まあ、いろいろデタラメな世界で、すいません。
ミチャも気が済んだのか、黙ってしまった。さすがに目も覚めたし、そろそろ「オナカすいてにょ」がはじまるタイミングか。
「ひょっとして、アルフォンソさんなら」
いい機会なので、尋ねてみる。
「ミチャの言葉も、わかるようになりますか?」
「ハア!? ムリ言わないでください!」
やっぱり、アル様でもダメ?
「未知の言葉が、突然わかるようになってたまるもんですか!」
「さっきと言っていることが、逆なんですけど?」
「というより、どうして私に、そんなことできるなんて思ったんです?」
……えっと、どうしてだったっけ? あ、そうだ。
「以前、プラハにおられたことが、ありますよね? 昨日、ジャコモに聞いたんですけど」
隣にいたジャコちゃんが、ビックリして私を見た。
「ええ、いましたね。もう何年も前の話ですが」
「プラハのイエズス会の学校で、生徒たちの劇を手伝っていたとき――」
「グアルティエーリさん、そんな話までしたんですか!?」
気まずそうに肩をすくめるジャコちゃんのかわりに、私が答える。
「はい。で、その劇、ボヘミアの言葉で上演されたと聞きました」
「?」
アル様が、きょとんとした顔をしている。
「……ああ! もうすっかり忘れてましたよ。いいえ、上演はラテン語でした」
「えっ! そうなんですか?」
私より先に、ジャコちゃんが聞き返した。
「ええ。教師たちの許可がおりなかったのでね」
当時のことを思い出すように、空を見上げるアル様。苦笑した横顔は、たしかにカッコいい。こういう穏やかな表情のほうが、若く――というか、年相応に見えるかも……。
「懐かしいな。ああ、チェコ語でやろうとしたのは、ほんとうです。今から思えば、自分の仕事ぶりを誇示したかったのでしょうね。でも、なぜ今、その話を?」
「そのチェコ語なんですけど、プラハに来て、すぐだったんでしょう?」
「どうでしょう。半年くらいは経っていたはずです」
「そんなに短い期間で、どうやって学んだのかなって」
「……ああ、なるほど。そういうことですか」
アル様は、軽く咳ばらいをした。
「簡単な話ですよ。プラハの学校には、いくらでも教えてくれる人がいたからです。私にもわかる言葉でね。町に出れば、いつでも練習する機会がありましたし、言葉を学ぶには理想的な条件ですよ」
いやいや、誰にでもできることじゃないと思います!
「だから、ええと……ミチャさん、でしたっけ?」
アル様は、チラリとミチャのほうを見た。
「はい」
「ミチャさんの場合とは、全然ちがうんです」
「と言いますと?」
「だって、この世界の人々で、ほかに言葉の通じる人はいないのでしょう?」
「はい。というか、この世界の住人で、私たちが知っているのは、ミチャだけです」
「ほう。だとすると、ますます難しい。その言葉を耳にする機会は、ミチャさんのひとりごとしかないわけですから」
「なるほど……」
語学の才能さえあれば、何語でもってわけにはいかないんだな。
退屈したらしいミチャが、小脇に枕をかかえて、家のなかに戻っていく。
「もしミチャさんと話ができたら、どうしたいのですか?」
「聞いてみたいことがあるんです。いろいろと」
「ペトルス・リプシウスを探すために?」
「はい」
「たとえば、どんなことを?」
「ええと、この世界のほかの住人がどこにいるのか、とか、ミチャはどこからやって来たのか、とか……」
そこまで言いかけたとき、家のなかからマテ君が出てきた。
「みなさん、こちらにおられたのですね! 探しましたよ!」
「すみませんね、マッテオさん。すこし散歩に出ていたものですから」
アル様が答える。
「いえいえ! 朝食の準備ができたので、お入りください」
「ありがとう、テオ」
家のほうへ戻る途中、ふと私のほうを向いて、アル様が言った。
「ミチャさんに質問する方法、なくもないですね」
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