第69話:斜め上四十度
目が覚めると、いい匂いがした。焼きたてのパンの香が、私の寝室までほんのりただよってくる。マテ君、今日も早起きしてくれたんだな。感謝、感謝!
一階に降りていくと、ジャコちゃんがもう起きていた。庭に出したテーブルでくつろいでいる。この時間だとまだ日陰になっているから、涼しくて気持ちいい。
「おはよう、ジャコモ!」
「ああ、カナ。おはよう! よく眠れた?」
そう言いながら立ち上がったジャコちゃんと、互いの両頬に軽くキスするあいさつ。イタリアだと普通らしいんだけど、どうも慣れない。
「うん。でも、なんか変な夢を見たかも」
「デ・トレド神父も、似たようなことを言ってたよ」
「ああ、もう起きてたんだ?」
「気の毒に、よく眠れなかったらしい。まあ、私の顔を見るなり、ため息つくのは、やめてほしかったけどね」
ジャコちゃんは、ペト様の代理人だ。アル様も、あれだけペト様のことを嫌っていたら、関係者の姿を見るだけでイヤな気分になるんだろう。
「アルフォンソさんは、どこ?」
私は、あたりを見回しながら尋ねた。
「散歩に行ったよ。あまり遠くに行くと家が見えなくなるって、注意だけしておいた」
「ありがとう」
たしかに、光学迷彩のせいで、下手に家から離れると帰ってこられなくなる。
「で、神父様は、
「うーん。ひとまず、保留中」
「そいつは残念。まあ、わがグアルティエーリ商会は、あの人たちにけっしてよく思われてないからね」
そう言いながら、ジャコちゃんはやれやれという感じで、肩をすくめた。
「ああ、そう、なんだ?」
もちろん、その話はよく知っている。
教会からにらまれている人々を高額で診療する(という名目のもと当局からかくまい、場合によっては、逃亡の手助けまでする)一方、世間で蔑まれ、差別される人たちには、ほぼ無償で医療を提供している。権威ある人たちにとって、ペト様は目ざわりな存在なのかもしれない。
「ピエーロに言わせれば、隣人愛の実践だそうだけど、誰が『隣人』なのかを決めるのは、結局あの人たちだからね……おっと!」
ジャコちゃんの視線の先を追うと、散歩帰りのアル様がこちらへ歩いてくる。
「オオカミの話をすれば、と」
いたずらっぽくウィンクしながら、ジャコちゃんが言った。
「誰がオオカミですって、グアルティエーリさん?」
えー。この距離で聞こえてるのかよ。
「いや、ほら人間は、その……たがいにオオカミだと言いますから!」
「おはようございます、アルフォンソさん!」
ジャコちゃんの苦しい返答にかぶせる感じで、あいさつした。
「ああ、カナさん! おはようございます!」
昨晩と同一人物とは思えないほどの営業スマイルで、アル様が近づいてくる。またイタリア式あいさつ? と思って身がまえていると、ひざまずいて手の甲にキスされた。
これはこれで、ドキッとする。アル様、名門貴族の出なんだっけ。やっぱり身のこなしも、どこかエレガントだ。
「お散歩に行かれてたんですって?」
私は、気恥ずかしさをごまかすように、話題を替えた。
「はい! じっとしているのは、もったいなかったので。いや、ここは実にすばらしい場所ですね!」
「気に入ってもらえて、うれしいです」
「ほんとうに! もし人探しの用事などなく、休暇を過ごすだけだったならば、申し分ないのですけど」
お、ひょっとして私、ディスられてる?
「ということは、神父様」
すかさずジャコちゃんが、尋ねた。
「うちの先生を探すのに、力を貸していただけるのかな?」
「さあ。どうせ私など、なんの役にも立ちませんよ」
「いえ、そんなことありません!」
ここは、強く否定しておこう。召喚した順番は、一番最後でしたけど。
「どちらにしても、私はまだ、カナさんから詳しい状況の……」
「状況の?」
「あの、つかぬことをうかがいますが」
「はい」
「あれはなんでしょう?」
アル様は、私の背後、斜め上四十度あたりを指している。そんな場所にあるものといえば、あれしかない。
ふり向くと、案の定、ミチャが浮かんでいた。屋根よりずっと上の空中で、なぜか枕を両腕に抱えたまま、呼吸に合わせるようにゆっくりと上下している。
どうやら寝ている間に、浮遊しながら外に出てしまったらしい。つくづく器用なヤツよ。
「あれは、この世界の住人です」
「住人?」
「はい。ちょっと待っててくださいね。ミチャー!」
ミチャの体は、ベッドの上で「寝がえりをうつ」みたいに、ゆっくりと回転した。下を向いた顔は、まだ熟睡している。
「ミチャー! 起きろー!」
目を覚ましたのか、私の声に反応するミチャ。なんで空中を漂っているのか、自分でもわからないらしく、あたりをキョロキョロと見回した。
「ミチャ! 目が覚めたなら、降りておいで!」
隣のアル様を見ると、やっぱりドン引きしてる。
「すみませんね。あの子、寝相が悪くて」
「いや、寝相がどうとかいう問題では……」
そう言いかけたアル様が、次の瞬間、私を突き飛ばすほどの勢いで、猛ダッシュした。ジャコちゃんも、その後を追う。
「!?」
二人の駆けていく先には、真っ逆さまに落下するミチャの姿が見えた。
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