第2話:「星の徴のもとにある運命」
校門を出ると、雨が降り始めた。けっこう降りが激しい。家を出るとき迷ったけど、折りたたみ傘、持ってきてよかった。
〈すっぽかされたであるよ〉
バス停に向かって歩きながら、ナギちゃんにラインする。
〈まじ? ありえん〉
秒でレスついた。
〈気を取り直して、なんか食べ行く? 同人誌の相談しようぜ〉
〈今どこ?〉
〈駅前の本屋。新刊物色中。『チェリ
うん、そうだろうな。
〈すっごく行きたいけど、気持ち切り替えて、仕切り直すよ。雨降ってきたし、バスで帰る〉
〈心得た。気をつけて帰られよ〉
〈絶対に、ネタバレとか、なしな〉
〈そんな無粋なこと、しねーよ〉
ユウト先輩にすっぽかされたのはちょっとガッカリだったけど、そこまで腹は立ってない。ただ、不思議だった。アニ同の集まりで、約束の時間に遅れたりしたことないのに。
〈会室にいます。今日、来ますよね?〉
さっき送ったライン、まだ既読ついてない。もうすぐ一時間になる。電源ずっと切ったままなのか。はたまた親戚にご不幸でもあったか。
〈ごめんなさい。今日は先に帰ります〉
ひとまずこれだけ送って、目を上げると、もうバスが来てるのが見えた。
目標:距離三十メートル。どうする? 間に合うか? とりあえず、走った。
幸い「乗降中」のサインはついたままだ。時間調整なのか、待っててくれるなんて珍しいな。
「ありがとうございます」
カードリーダーにタッチすると、すぐにドアが閉まって出発した。
◇
車内は私だけ。窓の外はさっきより暗く、雨も強まってる。なんか、無駄に疲れたな。
こんなことなら最初からナギちゃんと一緒に帰ればよかった。今日は、結城幻都先生の『チェリゴの
『チェリ占』を知ったのは、第一巻が出た直後だ。小学五年生が読むにはいろいろアレな内容だったけど、従姉のユミちゃんが「すっごく面白いよ」って教えてくれたのがきっかけ。面白いを余裕で通り越し、人生を変える一冊になった。
十六世紀のヨーロッパを舞台に繰り広げられる、権力と欲望と秘術の物語。主人公のペトルス・リプシウス様は、私の初恋にして、最愛の人だ。矢嶋ミウ先生の耽美的なイラストが尊すぎて、中学時代は、ほとんど寝る間も惜しんで模写に明け暮れた。
自分でもヘタクソなのはわかってたけど、描かずにいられない。中二のとき、渋る両親を拝みたおし、誕生日プレゼントに買ってもらったのが、今も愛用するペンタブレット。
でも、だんだんと矢嶋先生のイラストを真似するだけではもの足らなくなり、私が見たいペト様を描き始めた。自分でも驚くほど上達し始めたのは、このころからだ。
ほどなく自作のイラストを投稿サイトに載せるようになった。まったく知らない人から「よかった」という反応をもらうと嬉しいし、もっともっと描きたくなる。自分が描いたイラストというのはわりとどうでもよかった。一番大きいのは、推しの尊い姿を少しでも多くの人と分かち合いたいという強烈な想いだった。
◇
「これ、
奇跡的に進学できた高校の入学三日目。よし、今日も家帰って描くぞ! と席を立った瞬間、一人のクラスメートが私の投稿イラストをスマホに写して、眼の前に突き出した。
「えっ! ええ~!?」
ナギちゃんとの最初の会話だ。
このころまでに、私の描くイラストは、『チェリ占』オタの妄想をふんだんに盛り込んだものになっていた。一番の変化は、ずっとペト様しか描かないできたのに、他のキャラも描くようになったこと。このころレパートリーはかなり広がり、描いたことのない主要キャラはほとんどいなくなった。
もちろん、本当に描きたいのはペト様だけだ。でも、ひとえにペト様の美しさ、凛凛しさ、尊さを引き立てることが目的で、そこへ魅力的なサブキャラたちを絡ませることに快感を覚えはじめた。
「まさか! 何言ってるの! 知らないよ!」
こんな絵を、学校の教室で予告なしにクラスメートから突きつけられても、はい、私の絵ですなんて、そうやすやすと認めるわけにはいかない。
「隠さなくていいよ。けっこう前から奥菜さんの絵、見てるんだ。私、ファンなの」
「え、『チェリゴの占星医術師』の?」
「ううん、奥菜さんの」
心臓が止まりそうになった。
「ちょっと待って!
中学では『チェリ占』のこともイラストのことも、あまりクラスメートに話さないようにしてた。今でこそ世間の認知度も上がったけど、私のまわりには当時、ファンはおろか、知ってる人も少なかったと思う。
だから、面と向かって自分のファンだなんて言われたのは、本当にこれが初めてだった。
「ええと、
「大河内
そこから、私たちが打ち解けるのは早かった。ナギちゃんは、結城先生のラノベ原作でなく、雪森F先生のコミカライズ版が入口だったらしい。私はもちろんどちらも大好きだし、ゲーム版も好きだ。
自称「全方位型オタ」ナギちゃんの影響で、私は少しずつ、いろんなジャンルの作品を教えてもらうようになった。逆に、ナギちゃんは私から絵を描くためのコツを聞いて練習し始めた。
「カナちゃん、一緒にアニ同入ろうよ」
「アニ同?」
「アニメーション同好会」
「アニメかぁ」
『チェリ占』がアニメ化されるというウワサは、ずいぶん前から耳にしていた。一説には、作中にたびたび登場する
◇
外の雨はどんどん強くなってるみたいだ。道路脇の排水溝は、ところどころ水びたしになっている。家に着くまでに、靴とかビチャビチャになっちゃいそうだな。
帰ったら、マンガの続き、描かないと。
ふと去年の夏休み前を思い出す。
「カナ、文化祭で出す同人誌、一緒にマンガ描かない?」
ナギちゃんは、アニ同の会室で、まるでふと思いついたかのように、こう尋ねた。
「描かない」
「即答かよ」
「私、『チェリ占』しか描けないもん」
「もちろん、『チェリ占』描くんだよ!」
「だから、その『チェリ占』がダメなんだって!」
この話には前振りがある。ナギちゃんが描きたいのは、正確に言うと、「アル様×ペト様」というカップリングのBLマンガなのだった。アル様とは、イエズス会修道士アルフォンソ・デ・トレド、『チェリ占』ファンの間でペト様と人気を二分するほどのキャラのこと。
BLはナギちゃんの得意分野で、本人いわく「ライフワーク」だそうだ。私にも、いろんなBL本を「課題図書」と称して、山ほど貸してくれた。
六月のある日、突然の出会いはやってきた。課題図書五冊の間に忍び込ませるかのように、一冊の同人誌が潜んでいた。
『修道士アルフォンソ・デ・トレドの秘密報告』と題された薄い冊子。
そこには、アルフォンソが「攻め」となり、『チェリ占』の主要男性キャラ六人が一人また一人と
それは、私が心のどこかでずっと思い描き、見たいと思っていた世界だったのかもしれない。パズルの最後のピースがはまったときみたいに、何かがやっとハッキリと姿を見せたような、と同時に、何かがガラガラと音を立てて崩れていくような、不思議な感覚だった。
アルフォンソというキャラがどうしても好きになれなかった理由を、私はようやく理解した。
「どう? 気に入ってくれた?」
ナギちゃんは満面の笑顔で尋ねる。前日に『秘密報告』を読んだばかりの頭の中は、まだ嵐が過ぎた後のように混乱していた。
「……はめられた」
「え~! 人聞きの悪い! でも、読んだんでしょ。最後まで?」
「それは、そう、だけどさ……」
すると、なだめるような口調で、ナギちゃんが言った。
「『星の
それは、第一巻に出てくる、ペト様の有名なセリフの引用だった。
「あのさ、なんか今、うまいこと言った気になってる?」
「ほら! 課題図書の続き、持ってきたよ」
そう言うとナギちゃんは、もっとディープそうな『チェリ占』BL本を十冊ほどカバンから取り出した。
「どんだけ貯めこんでんだよ!」
「遠慮はいらんよ。まだまだおかわりあるから!」
◇
結局、文化祭の同人誌では、ナギちゃんにうまいこと言いくるめられ、BL企画に参加することになってしまった。まさか自分が、ペト様のあんなお姿やこんなお姿を描くことになるなんて……。
マンガ描くのは初めてだったし、最後まで戸惑いは残ったけど、それまでになかったくらいワクワクしたのもたしかだ。完成した作品には、それなりの反響もあった。
文化祭のすぐ後、マンガの一部が無断でネットに転載されてるのをアニ同会員が見つけ、ちょっとした騒ぎになった。アル×ペトで絡む、かなり気合を入れて描いたカットだ。
描いた当人としては複雑な気持ちだったけど、逆に、これがきっかけになって、同人誌の在庫問い合わせが殺到した。文化祭の期間中、刷った部数の三割も売れなかったけど、一週間足らずで残りを売り切った。
BL、おそるべし。
ナギちゃんは、自分の妄想がマンガになっただけで満足だったから、最初からあまり売れ行きは気にしてなかったらしい。でも、この反響を見て、次の年の――つまり今年の――文化祭では、『チェリ占』BLだけで一冊作ろうと意気込んでいた。
「いいんじゃない?」
アニ同会長兼同人誌編集長だったユウトさんも、乗り気だった。
「一つだけ不安なのは、
いや、まだ来年描くとは一言も言ってませんが?
「ですよね~。画力はあるんだけど、致命的に遅い」
ナギちゃんに言われると、なんだかなぁ。まあ、そのとおりだけどね。
去年のBL企画が決まったとき、好きなことになるとめっちゃ行動が速いナギちゃんは、二日後にネームを上げてきた。四十五ページの超大作。
さすがに素人二人でそれは無謀だと納得させ、私的に描けそうにない場面なんかを削りに削ってようやく十五ページまで圧縮してもらったけど、私の絵が全然間に合わなくて、結局九ページの超短編になってしまった。
それまで、楽しいから描いてただけで、描くのが遅いなんて、気にしたこともなかった。ひとつひとつの絵を描くのが楽しすぎて、いくら時間をかけても苦にならなかったんだろう。
でも、そのせいで編集長のユウト先輩には、相当な迷惑をかけたのも事実だ。次の企画では、春からスケジュールを考えて動くことになった。
「でも、奥菜の絵、いいと思う」
ユウトさんは言った。
「オレ、自分では描けないから、ウマいとかヘタとか、よくわからないけど。絵の世界っていうか、リアリティが伝わってくる感じがする」
『ギルボア』の話になると人が変わる先輩も、その他のジャンルにはこだわりのない人だ。BLでもなんでも、人から勧められた作品はとりあえず何でも読んでみるらしい。
「あ、あざーす」
男の人に自分のBLマンガが褒められることになるなんて、夢にも思ってなかった。
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