工藤様
拝読させていただきました。
これは新しい試みですね。大変感銘を受けました。
男性的エロティシズムと死を、少女の不安定な自我を媒介して読者に同一視させる。またこの時、物語全体に流れる不安感は、初め得も言われぬ異物感を我々に覚えさせますが、次第に、二つの相反する性質(エロティシズムと死)が一つの男の肉体の中では容易に同居し得るというバタイユ的撞着と、少女期特有の不安定な精神が共振していくに従い、これら「不安感、撞着、少女の心理」が互いに相乗しあって一つの骨太な創作意図が我々の前に現れる。(ここで我々は一度安心するのであります)
と、もしここで終わっていれば、このお話はアクロバチックな技法を駆使して繊細な少女の心理を描いた非常にテクニカルなお見事な小説、と言うことになりますが、しかし、この小説はここでは終わらない。最後の最後で我々を突き放すのであります。
このとき、我々の中にできかかっていた作品解釈は瞬時に裏返り、解釈により一度安心していた我々の心は再び不安に突き落とされる。そして、不安の底に落とされた我々は、裏返しになった解釈が、恰もいままでもずっと”表”の解釈と結託していたかのようにして、強固に、無矛盾にそこに聳えているのを仰ぎ見るのであります。
ここでお話はパッタリ終わる……残された我々は一体どうすれば良いのでしょうか?
決まりの悪さ、不気味さ、不安感……こういった感情が、論理的に明徹に完成しているようなホラー作品は、今まであまり無かったのでは無いかと思います。(通常作家は、ホラーを書くという場合、不確定性や謎にのみ無闇に縋るものです)
これはあくまでも、私個人の小説の読み方を基にした感想でありますので、かなり勝手なことを言ってしまっているのだろうな、とは自覚しております。しかし、工藤様の御作が私には大変新鮮に感じられましたので、その感じたところを素直に書いてみた次第です。
なかなか要点が纏まらず下手な感想にはなってしまいましたが、どうかご容赦いただけましたら幸いです。
以上になります。
今後とも工藤様の作品を読んで学ばさせていただきたく存じます。
作者からの返信
坂本樣
週末が思うように動けず、お返事が遅くなってしまい大変失礼致しました。
さて、コメント拝読しまして、坂本さんが拙文に対してどのような「読み」を施して下さったのかがよく解り、のみならず著者たる私自身、必ずしも執筆中は意識していなかった、気付けていなかった要素まで抽出してその効果にも触れて下さったことには「脱帽」(!)するより外ありません。かくまでも叮嚀に読み解いて下さったことにまずは御礼を申し上げます。有り難うございました。
そうでしたか、最後の最後で「裏返り」ましたか……! 何よりもこれが一等嬉しいお言葉、大きな目論見の部分は成功していたのだと安堵致しました。そしてまた、特にバタイユの「撞着」を想起して下さったこと畏れ入っております。
拙文は朧気に〈反対物の一致〉と〈反転〉をテーマとして設定しておりましたから、そのように舞台、人物の属性、暗喩など工夫した積もりでおりました。恐らくバタイユの意図するところと概ね通底していると思うのですが、中世キリスト教神学の中でクザーヌスが〈聖なるもの(=神)〉の本質として提示した"coincidentia oppositorum"〈反対物の一致〉という概念、思想が当拙文に限らず常に私の念頭にあるのです(他の拙文の一部も大いにこれの影響を受けているはずですし、折々に章句そのものを引用することがあるくらいです)。
例えば舞台となる「学校」という時空間は日中と夜間とで全く別の「顔」を見せるものですけれど、その「顔」が切り替わる瞬間、昼と夜という〈反対物の一致〉、光と闇の溶け合った「あわい」の僅かな時の中で、別の何かが溶け合い繋がる、そこに魔が入り込む隙間が生まれたり、魔と通じる回路が開けるのではないか……「逢魔が時」とは良く言ったものですよね。「学校」という舞台装置は物語全体を貫く不安感や不気味さの通奏低音、ファンデーションとなっておりましたでしょうか。
坂本さんが「男性的エロティシズム」と表して下さったものもそうです。恐らく理科教師梶川の「がっしりとした体躯」に宿る「高めの声」、つまり「成人男性」の有つ「少年性(若しくは少女性)」が、オトナでありコドモである彼の「若さ」(嫩さ)という土壌の中に混和している状態――「ギャップ萌え」に近似?――だと思われますが、これも〈反対物の一致〉の効果を狙っております。ただ、それは結果的に聖性としてではなく魔嬈となって少女を搦め取るための好適な装置という位置づけの積もりです。
そしてその「エロティシズム」を体現する梶川の中に「死」が同居している。なべて「若さ」と縁遠いはずの「死」ですが、彼の飼っていたハツカネズミを「死」と「欠落」のモチーフとして解すると、ここに新たな回路が繋がって「二つの相反する性質(エロティシズムと死)が一つの男の肉体の中では容易に同居し得る」と慥かに読めますね。人がエロスとタナトス、リビドーとデストルドーを具有するとは、定めしご案内のようにフロイトの夙に指摘するところですけれども、小説という手法の中でこれを主張や説明のような「叙述」ではなく飽くまでも「描写」によって読者に気取らせることは技術的にも中々に難しいことのように思われておりまして、拙文でも十全に表せてはいないだろうと思うのですが、そこは「優れた読者」としての坂本さんのご見識によって、拙文の「身の丈」を超える価値を付与して戴いたものと推測しております。
心残りなのは「少女の心理」というフィルターを通して見た「世界」解釈が決定的に〈反転〉することを予示する装置として「窓」から「鏡」への〈反転〉を仕掛けた積もりだったのですが、改めて読み直してみてもやはり余り奏功していないようです。透徹して外へと視界を開けさする窓が、その外の闇に〈反転〉して今度は部屋の内を映し出す別のベクトルで跳ね返ってくる、という仕掛けをもう少し何とか出来なかったか。最後の「覗き窓」で辛うじて回収した積もりではあるのですが、結末としてはどうにも尻切れトンボ、当然にも「決まりの悪さ」は否めません。ただ、坂本さんが「残された我々は一体どうすれば良いのでしょうか?」と仰って下さったように、結果的にその「決まりの悪さ」が「不気味さ、不安感」に繋がり、ホラーとして一定度の形を成すに関与し得ていたのでしたら、これはまさしく「怪我の功名」ということになりましょう。
また、この「決まりの悪さ」につきましては恥ずかし乍ら次のような事情もあります。実は紹介文にもありますように、当拙文は数年前に「即興小説バトル」というイベントに参加した際(※調べてみましたら、2015/5/30でした)に成稿したものでした(カクヨムでの再掲に当たっては誤字訂正と一部表現に若干の補正を加えておりますが、ほぼそのままです)。
「バトル」は、当日に発表される「お題」に沿って、別途指定される「必須要素」を盛り込んだ短篇を1時間で完成させ、読者投票によって優勝者を決めるという、楽しくもスリリングなものなのですが、他の参加者との「バトル」である以上に、何よりこの「1時間」という制約、そして他でもない自分自身との「バトル」でもありました。時間切れによって生じた「決まりの悪さ」はここに起因してもいるようです。
なお、当拙文は私の二つの記憶を合わせて偶成したものを下地としております。弥生と梶川には実在のモデルがいるのです。一人は高校時代に教師との交際経験がある友人、いま一人は私の中学時代の副担任で、若くして亡くなってしまった理科教師(しかも同名の)です……ああ、ゆえにこそ「死」は私の意図した以上に作中に滲み出てしまったのでしょうか。
最後に、坂本さんが拙文に充てて下さった「新しい試み」「新鮮に感じられた」との御評、仰るように「通常作家は、ホラーを書くという場合、不確定性や謎にのみ無闇に縋るもの」であるとして、恐らく拙文が「そうではなかった」という意味であると拝察しておりますが、それは当拙文がホラーとして起筆されたものではなかったことにも因るのではないかと思われます。有り体に申し上げますと、私は「ホラー」というものがどういったものか突き詰めて考えることなしに、カクヨムでの再掲に際してジャンル選択の便宜から、ある程度の無理を承知でそのように設定してしまったという事情があるからです。要しますに「後付け」だったのです……。
如上、縷述して参りました「怪我の功名」と「優れた読者」に助けられて、当拙文に対して私自身が持っていた印象も少しく変化を余儀なくされたようで、こういった体験は実に得難く、また有り難いことと改めて喜びを噛み締めております。
作品は著者の手を離れた段階で読者のものですから、僭越にお伝えしない方が良かったこともあろうかと存じますが、「ネタばらし」「種明かし」という野暮が私の宿痾であり、愉しみでもありますので、何とぞご海容を賜りますと幸いです。
物語の始まりから細部に至るまで美しい文章と漢字が巧みに使われていて心を奪われました。鮮やかさと、暗い部分が丁寧に描かれており、ゾクリとするホラーでした。
梶川先生がとても魅力的ですね。続編がありましたら読みたいと思いました!
作者からの返信
華 樣
初めまして。工藤行人です。
この度は拙文に★やフォロー、コメント頂戴しまして有り難うございます。
物語ることよりも語彙や修辞に強い興味・関心を寄せ乍ら書いておりましたので、その点をご評価下さいましたこと大変嬉しいです。拙文が「ホラー」を自称することには躊躇いもないではなかったのですが、「ゾクリ」として下さったとのこと些か安堵致しました(「ゾクリ」とさせたことに「安堵」というのも可笑しな表現ですが……)。
梶川先生の造型、拙文では描写が足りない乍らも、華さんのイマジネーションで補って下さったのだと思います。恐縮です。
似た造型の先生が登場する短編の書きかけが幾つかあるのですが、そう仰って下さいますと、お目に掛けられるように手入れをしたくなってしまいますね……私は必ずしも勤勉な書き手ではございませんが、余り期待なさらず、それでも時折、思い出された折にちらと覘いてみて下さいますと幸甚です。
行人さま
「煮詰まった濃い光に満ち乍(なが)らも已(すで)に夜の気配を潜ませた廊下」の先の教室が妖しげな光を点らせて本当に存在するような、魔の美しさに充ちたホラー短篇でございました。梶川先生の嫩(わか)さ、可愛らしいですね。可愛い者(嫩者)は時として無邪気なまでに残酷ですけれど、その可能性に目を瞑り、いつもと違う声音と白衣の皺にくすぐられる母性本能。齢上の青年を恋愛の対象とする少女の裡には、たしかに強く働く感情であると思われます。
黄昏の季(とき)、それは少女の人生の黄昏でしょうか。「腐敗と今際(いまは)の匂い」を此処にも感じます。否、腐敗ではなく欠落して生きた様相で凝り固まった生きものの匂い、白衣に沁み込んだ人間の匂いと云うべきかもしれません。少なくとも少女は先生の「魔」に遭遇し、その「美」に充てられ、準備された「円環」に閉じ込められてしまうのでは、と慮ります。
衒語学研究室が「鷗外的」であるならば、生物準備室は「お茉莉的」でしょうか。「言葉の楽園」……磨きのかかる語彙世界も、より一層素敵です。片頭痛持ちの天然理科少女(笑)の偏った見解を失礼致しました。
どうか有意義な夏期休暇をお過ごしくださいませ。
追伸:昨日は、お心づくしの「贈りもの」をありがとうございました。冷房で冷えすぎた室内で感銘を受けて、不完全な私が固まってしまうぐらい素晴らしい言の葉の「贈りもの」でした。大切に、大切にします。私からは……黄昏時に間に合うよう言葉を約めたいと思っております!
作者からの返信
ひいな樣
ひいなさんの大好きな「夕」の時間帯を凶々しい「逢魔が時」にしてしまった拙文にもコメント下さいまして有り難うございます。そしてご免なさい(小声)
「準備された」「円環」に弥生が「閉じ込められてしまうのでは」とのご推理、著者乍らに成る程と唸らされました。それは準備室という空間的なものなのか、あるいは梶川の魔嬈による精神的なものなのか……想像は尽きません。
ところで、ハツカネズミの話は、流石に科白こそ大きく異なりますものの、私が中学二年生の時に理科の梶川先生(実名!)に実際に伺った内容を下敷きとしております。アマチュアボクシングの選手で、農学部を出ておられた先生は別の機会にも、落雷で丸焦げになった豚や鶏の話をなさるなど、我々だけでなく保護者の間でも「やばい先生」と定評がありました。若くして亡くなられましたが、今でも懐かしく思い出されます。
例によって何時になるかは解りませんが、私が影響を受けずにはいられなかった先生達の思い出も随想録でご披露しようと企図しておりますのでお楽しみに(その前に「Tおじ」です……)。
因みに弥生の思考や言動も、実は今もよく私と「遊んで」くれる大学時代の友人の体験談から拝借しております。嫩者の残影を遺す先生との「恋愛」経験のある元女子生徒と実際に初めて会い、「まさか花袋の『蒲団』の世界がこんな身近に……」などと仰天と昂揚とを覚えたものでした。才色財いずれの点でも私が容易に「逆らえない」(というと怒られそうな)、得難い友人の一人です(笑)
「いつもと違う声音」「白衣の皺」に「母性本能」(と友人は表しておりましたが)をくすぐられるという件、「少女のエキスパート」ひいなさんにも「齢上の青年を恋愛の対象とする少女の裡には、たしかに強く働く感情」とのお言葉頂戴し安堵しております。
いずれにしましても当拙文は、私の中の二つの記憶のmélangeでありました。
「鷗外的」も「お茉莉的」も拙文には過分な御褒辞、「あつまれ ことのはの森」ご一家に叱られてしまいそうですが、今後も私なりに「言葉の楽園」を少しずつ押し延べて参りたいと存じます。とはいえ、一昨年と昨年の投稿数を較べて明らかなのですが、やはり巣籠もり許りですと新たな刺戟に乏しく、偶成するイメージも貧しくなるようです。文学以外の、音楽や美術やお芝居やが恋しくなってもおりますが、その反面、過去への沈潜が愈々と深度を増すようですから、そういう好時節だと思い定めてもおります。
この一両日で遣り取りさせて戴いた文字数、あるいは過去最大ではないでしょうか? 私は夏休みなので大事ないのですが、ひいなさんは御睛のこともあります。呉々もご無理なさいませんように。「少年の夏の飲み物」の一つ、今日はディアボロマントを飲む元少年より。それぢや。
追伸:
何時も「贈り物」を頂戴して許りでしたから、お返しをと思いつつ、二度目も要約無しの独り善がりな形のものを差し上げてしまい恐縮です。ただ、真実そう思っておりますから、ご海容を請う次第です。
首なしとか吸血鬼を想像しましたが、弥生がこの場をどう切り抜けるかは謎ですよね……。
作者からの返信
中澤樣
ここ数日来、多くの★やフォロー、コメント頂戴しまして有り難うございます。
当拙文は一時間という制約の中で、振られたお題と必須要素を盛り込んだ短篇を競い合う「即興小説バトル」という企画に参加した際の一作を改稿したものです。この後に弥生は如何なるのか、著者たる私もその時分は、そして今以て実は確とは考えてはおりません。如何なるのでしょう。
私は首なしも吸血鬼も、なべて幽霊・おばけの類はへっちゃらなものですから、寧ろ早く私の眼前に現れはしないか、すれば屹度、遠慮無くドロップキックをお見舞いしてやる(出来もしない)のに……などと威勢の良いことを考えるのみならず、そう周囲に言いふらして何時も呆れられております。私はやはり、如何なる異形異類よりも、夕闇の窓に鏡を拵えて此方を凝視する人間の方に実際的なホラーを感じてしまう質のようです。
編集済
こんばんは。拝読いたしました。
工藤さんの情景描写の美しさには、いつも心が持っていかれます。選び抜かれた語彙と、美しく流れるような読みやすい文章が、情景を鮮やかに引き立てています。放課後の学校のエモさの中に不気味な予感があって、最初から惹きこまれてしまいました。私事ですが、中学の頃に部活で理科室や準備室に出入りしていたので、放課後の理科室の特別感が懐かしく思い出されました。
弥生ちゃんはオマセで、梶川先生を性的な目で見てますよね。梶川先生はセクシーで、どこか死や退廃の匂いが漂っています。ただのエロより、死や退廃の香りがするエロの方がずっとエロいのですが、梶川先生のそんな性質が、弥生ちゃんの心を揺らがせているようです。
怪異は「境界」に出現するそうですが、梶川先生は存在そのものが境界みたいな人物ですね。「かっこいい」と「かわいい」の境界であり、エロと死の境界。そして、この小説の舞台もまた、境界そのものです。夕方は昼と夜の境界だし、準備室は生物室と隣の教室の境界と言えそうです。怪異が出現する条件が揃いすぎていますから、読みながら期待が高まりました。
ハツカネズミの遺体を恍惚した様子で語る梶川先生に狂気を感じ、不穏な前触れを感じました。そこへ来て、こちらに背を向けているはずの先生が、じつは窓に映った弥生ちゃんを凝視していたとわかるシーン。不気味すぎてギョッとしました。
さらに読者と弥生ちゃんを恐怖に追い詰めるのが、クッキー缶の音……! ハツカネズミを飼っていたクッキー缶を思い起こさせ、それがなぜここに?? と慄かせます。
ラストの絶望感はやばいですね。鍵が開かないのもそうですし、外に助けを求めることができたかもしれない最後の綱である窓が、まさかのマジックミラーだった……。ドアという希望をスマートに絶望へと裏返してしまう発想が、ほんと凄いです。
ラストのショッキングな映像は言うまでもありませんが、「弥生は背後に厭な翳りと気配とを感じた」という一文が、ゾッとするほど恐ろしいです。
ホラーを書く上で、恐怖映像を重視してしまいがちですが、恐怖を予感させる表現を的確に置くことが大切だと、改めて気付かされました。
あと、本作には「不完全なものの美」が至る所に散りばめられていて、そういった芸術的な視点でも楽しむことができました。
有意義な読書時間をありがとうございました。
(ちなみに、こちらはXの釣舟草のアカウントでご紹介させていただいてもよろしいでしょうか……? 工藤さんは鍵垢でいらっしゃるので、不都合であれば遠慮なく仰ってくださいませ)
作者からの返信
釣舟草 樣
投稿してより随分と月日の経ってしまって、今や訪うて下さる方々も愈々と少なくなっておりました“山間の孤家”に等しき当拙文に得難いお客様をお迎えすること出来まして欣喜雀躍しております。此度はご高覧下さいまして誠に有り難うございました。
頂戴しましたコメントを幾度も読み返しております。拙文の構成要素を叮嚀に析出して下さった上でそれぞれ鋲打ちするように註して下さる釣舟草さんの「読み」の一つ一つに改めて畏れ入る次第です。
取り分きても唸らずにはいられなかったのは、釣舟草さんが「恐怖を予感させる表現」という名指しで以て拙文を解釈して下さったことです。恐怖そのものでなしに「恐怖を予感させる表現」……そうか予感、拙文の大半はこれに費やされていた訳ですね。それは著者たる私として必ずしも瞭然と認識し得ていたものではありませんで、成る程そうかと得心致しました。
元々ホラーと自認して稿を起こした訳ではなかった拙文が、けれども読みようによってはホラーのようにも読めるのではないか、結局のところ当拙文はホラーたりうるのか、永らく宙ぶらりんで居心地の悪いまま自ら判じ兼ねていたその理由をご教示戴いたようです。
慥かに仰るように、釣舟草さんの表現をお借りすれば、厳密な意味での「恐怖映像」はラストのみということになるのかも知れず、これが拙文をホラーとして自称することを辛うじて聴してくれるようで、それまでの不穏や不安、不気味さ(或いは嫌悪感としても良いかも知れません)や猟奇性を伴う描写は皆、ラストに至るまでの「予感」に捧げられているように読めますね。貴重なご示唆を賜りました。御礼申し上げます。
にしましても、放課後の学校という時空間の「エモさの中」の「不気味な予感」……昼間の明るさと喧噪の余韻を引き摺りつつも漸う昏がり人気も疎らになっていくその様子は、矢張り人生の時間における老後と相似形にあるようで、必然的に避けがたい「死」へと傾斜して行くように思われます。
弥生と梶川の人物造型は、モデルとなった二人の実在する人物に負うところが大きいようです。当拙文は、已にサービスを停止してしまったのが惜しまれるのですけれども、「即興小説バトル」という毎週土曜22時に催されていたイベントに参加した際に書き上げた一作でしたので、細部を作り込むことの叶わない状況下で、ある意味では私の記憶・イメージを原液のままキャラクターの器に注ぎ込んだと云って過言ではありません。実年齢よりも大人びてオマセな弥生も「かっこいい」と「かわいい」を併せ持つ梶川も、〈オトナ/コドモ〉の境界に棲まうキャラクターとして、今一度、私の中に甦って参りました。そして短い裡にも「境界」の設定を多用し過ぎることへの誡めも再認識致しました。
釣舟草さんの思い出の中にも理科室や準備室に対する「特別感」、おありでしたか。私も同じなのです。特に、弥頻く頻く人の出入りする理科室の時空間には「流れ」と新陳代謝があって、名実ともにパブリックスペースであること疑いないように思われるのとは対照的に、隣の準備室はその「流れ」に乏しく、何かが滞留して澱んでいるような不思議な感覚があったのを覚えております。準備室は先生方にとっては職場空間の一部であり乍らも、専用の机があり、壁に掛けられたカレンダーや、恐らく先生の趣味の小物、私物の書籍類などによって彩り設われた、先生を主人とする私室的な性質をも帯びたようで、そこに招かれることへの特別感といったものも私には懐かしく思い出されます。教室や職員室で振る舞う姿とは異なる、半プライヴェートな空間で魅せる大人の姿……その特別感にエロティシズムへの感受性の高まる素地も見出されるようです。
メインテーマではないものの「不完全なものの美」「欠落の美」を見つけて下さったことも嬉しうございました。ミロのヴィーナスにせよサモトラケのニケにせよ、それこそヘルメス像でも良いのですけれども、不完全なもの、その欠落、不在を補ってそれを美として昇華させる、人間の想像力の邃さを思います。
最後に、鍵アカのことお心遣い下さいまして恐縮です。釣舟草さんがご紹介下さるのは私にとっては大変有り難いことですから宜しくお願い申し上げます。
また遊びに来て戴けるような新たな書き物をお目に掛けられればと存じます。今後とも宜しくご交誼の程お願い申し上げます。