孤独についてのこと

島尾

孤独に関する思考

 真の孤独とは、どういう状況なのだろうか。

 

 大概、人間は外と内で構成されていると思う。外には身体的に離散した自分以外の人間、内には精神的に離散した自分以外の人間がいて、皮膚やら臓器やら脳やらといったパーツは、それらの境界だと思う。物理的には自分以外の人間は外にしかいないように見えるが、それはあくまで物理的な目で見たときの視点だと思う。人間的に見た場合、外にも内にも自分以外の人間がいて、真に自分と言い切れるのもは自分の皮膚やら臓器やら脳といったパーツだと思う。そう思う一方で、そんなものを人間として定義すると、人間はただの原子の集まりでしかなくなって、にわかに先の思いを否定したくなる。


 私は、内に存在する自分以外の人間を認識できる人が少ないと思う。怪しげな考えであり、即座に理解できるものでもないからだ。

 

 私の内に私以外の人間が生まれたのは、小説を書こうと思ったときだった。プロでもなんでもない素人だから、キャラクターは自分の経験に基づいた、自分の分身だった。それは最初の話である。

 しかし、ずっと小説のキャラクターをイメージしていると、様相が変わってきた。主人公やヒロインは自分の考えに近いが、一方でサブキャラは自分の考えとも自分の性格ともかけ離れた存在が多い。

 きっと、自分がこれまで見てきた他人や、自分がこれまで見てきた作品のキャラクターに影響されているのだろう。ただ、そのサブキャラを操っているのはどうしても自分以外にいない。他方、サブキャラたちは自分の考えに反するような動き、または自分が不愉快に思うような動きをすることがある。そういう者たちを、どうして自分自身が操っているのか、分からない。

 確かに面白くなるように書こうとするから、自分が嫌だと思う動きもさせねばならない。面白くなるようにサブキャラを操作するということは、自分の満足感を得るための行動である。そう考えれば、サブキャラは自分自身を満足するための道具だ。

 

 しかし、ある夜中に、サブキャラの一人を想像して喋らせてみた。そのキャラは私が思い描いた通りの言葉を発し、当然私もキャラが何を言うのか事前に把握していた。

 にも関わらず、キャラは私が想像していなかった癒しをもたらしたのである。その癒しはまるで、極めて親しい人に慰められ、元気づけられた感覚だった。その癒しは、久しぶりに心に響くものだった。歪んでいた顔がほころぶほどに。

 自分自身が最も都合よく作った分身であるからだろう、という考え方もできる(むしろこれが一般的なのだろう)が、自分自身が最も分かり切ったことを言われて(言って)、どうして心が響かされるのだろうか。しかもその後、キャラは自分が想像していないことを言い始めた。それは単なる自分の考えだとも考えられる。他方、その考えを発言している人は、キャラ自身である。


 これは、私がキャラをよくよくイメージし、キャラを喋らせることによって可能となる。キャラの顔は私のとは似ても似つかないし、声も全く似てないし、性別が違うことのほうが多い。


 先に、自分自身とは臓器云々と書いたが、それでは人間としての精神が存在しないことになってしまう。外を探しても自分の精神を見つけることはできないと思う。ということは自分の精神はやっぱり内にあるのだろう。確かに自分自身を見ても、内にある。

 内に自分自身(精神)がある中で、サブキャラのような他人も共存している。

 その環境は、孤独といえるのだろうか。

 サブキャラのような、自分自身の分身と捉えることのできる存在を、まっすぐに自分自身と定義すれば、その環境は孤独なのだろう。

 しかし、私は彼らを他人だと思う。厳密に言えば、自分自身の筐体に暮らしている、自分の生み出した他人である。そう考えた場合、その環境は孤独と言い難いのではないか。

 

 自分の内に暮らす他人は、外に出たように見えた場合でも、実際には外に出ていないと思う。表現という手法によって外部に排出された他人は、実際には、その他人の像に過ぎない。鏡の中の人に似ている。像といっても、物理的な意味ではない。表現とは文章や音によって行うことも可能なので、必ずしも目口鼻が実際に見えるとは限らない。もっと言えば、イラストというのは人ではない。インクの配置だ。映像は、光に(声優という他人が)声をあてたものだ。これから技術が発展し、3Dの喋るタンパク質が生まれるかもしれない。だがそれとて、像であるという前提の上にある。

 つまり、内に暮らす他人は、真の意味で外に出ることが不可能なのだ。


 一生孤独と仮定したときに、その仮定は、内に暮らす他人によって否定される場合がある。それを言いたい。


 これは私が小説の為にキャラクターをイメージしたから生まれたのであって、何も考えずに生まれたわけでばない。何も考えないということは、内なる世界に他人をお産しないことと等価だと思う。その場合は内なる世界はがらんどうで、誰もいない。この場合が一生続くならば、一生孤独という仮定は成立する。なんせ、外にも誰もいない(=人間として心から関わる人がいない)のだから。

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孤独についてのこと 島尾 @shimaoshimao

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