第30話 変貌

 月曜日。


 昇降口で上履きに履き替えて教室へと歩き出す。


 昨日の今日で、なんだって俺は、こんなところへ来ているのだろうか。もっと打ち

ひしがれて動けなくなってしまうほどに、悔しくないのか、俺は。


 教室を開けると、戸崎と目が合った。


 昨日のあいつの言葉が嫌でも思い出されて、反射的に目を逸らしてしまう。寝落ち

して運んでくれたのはあいつだけど、それ以上にあいつが言ったことを俺は許せな

い。


 さすがのあいつも察しがついているのか、いつものように陽気な顔で声を掛けてこ

ない。


 結月には、同じようなことを言ったのだろうか。


 そして結月は、なんて答えただろうか。


 即答で、交換日記を止めると宣言しただろうか。


 「よっ」


 後ろから肩を叩かれる。


 戸崎とは対照的に、日輪は堂々とした顔で俺に声を掛けた。


 「ああ、おはよ」


 俺もしぶしぶ応じる。


 こいつも、結月に何か話したのだろうか。俺の時は戸崎に任せていてずっと黙って

いた。


 「ねえ」


 いつものように俺をからかう様子のない彼女は、神妙な顔つきで俺に言った。


 「今日、あんたの家に行っていい?」





 島へと帰り着き、港から家まで歩く。


 その間は、二人とも無言だった。


 一体どういう風の吹き回しなんだろうか。高校受験の時みたいに俺に勉強を教えに

来たのだろうか。


 そうではないことを直感した。


 勉強なんかよりももっと重大なこと。


 玄関に入ると早足のような足音が床を鳴らす。それがだんだん大きくなっていく

と、母さんが姿を現した。


 「茜ちゃん、いらっしゃい」


 突然の来客にも驚くことのない母。


 いや、突然なんかじゃない。


 「遅くなってすいません」


 「いいのよ。さあ、こっち来て」


 光も、と圧のある声を受けて俺もいやいや付いて行った。


 客間として使っている和室には、父さんがあぐらをかいて座っていた。


 結月を見ると、むくりと立ち上がり、


 「いらっしゃい。さあ、座って」


 と座布団の上を促す。


 畳に直に腰を降ろす父を見て日輪は遠慮しながらも言葉に甘えて座布団の上に座っ

た。


 父さんの隣に座る母さん。それと向かい合うようにして結月が座り…。


 必然的に、俺は日輪の隣に座り、自分の両親とまるで他人のように向かい合い、言

葉を待った。


 口火を切ったのは父さんだった。


 「まずは、今日、この場に来てくれてありがとう」


 言葉を皮切りに、母さんと二人して深々と頭を下げる。大の大人が一人の若者にこ

うべを垂れるのは何とも不自然な光景だった。


 これもまた、俺や結月のような家庭で行う『儀式』のようなものなのか。もしそう

だったら、これは一体、何の『儀式』なんだろうか。


 分かっていた。


 薄々気付いていた。


 父は、とうとう核心に触れた。


 「ここに来てくれた、ということは、本当にいいのかい?」


 「はい」


 全くたじろぎも躊躇いもない日輪は、即答する。


 「君はまだ若いし、この先、他にもいい人が現れるかもしれな…」


 「構いません」


 言葉を遮り、日輪が答えた。


 そして、一切照れることなく、とんでもないことを言い放った。


 「私は、青野が…、いや、光さんが好きです」


 首が素早く真横を見た。


 その時の俺はどんな顔をしていただろうか。口はしばらく開いたままだったのは分

かった。


 そうだったのか。


 ずっと、そうだったのか。


 俺たちは、もっと軽い関係じゃなかったのか。


 昔からの腐れ縁のように、それでいてなんだかんだで『良い友達』で。


 大人になっても、気安く軽口を叩き合いながら、酒でも酌み交わすような関係では

ないのか。


 急に、隣にいる友達が、見知らぬ存在に変貌していくように感じた。


 女として見えた。初めて。


 対する彼女は、俺の方を見ない。


 「こんな、私のような未熟者でよろしければ、よろしくお願いします」


 優美な顔をしていた彼女は、深々と頭を下げた。


 堂々としていた。


 いつもの騒がしくて、余計なことばっかり言う日輪茜が、消えてしまったようだっ

た。


 いや、そうじゃなくて…。


 「ちょっと待ってよ!」


 俺はようやく口を挟むことができた。


 「俺、こいつにはすっげえ感謝してる。今の学校だってこいつが付きっきりで勉強

を教えてくれたから通えてるわけだし…。でもっ!」


 「結月ちゃんのことは諦めなさい」


 母さんが俺の言葉を遮った。


 日輪もいるのに、明け透けに結月の名前を出す。


 「でも、俺は、あいつのこと…」


 「約束したよな?」


 父さんが発した言葉に、俺は再び黙り込んでしまった。


 そして、例のごとく呪いの言葉をかける。


 「俺は、お前を信じてる」


 『陽の子』の呪いなんかよりもずっと重みのある呪いが、俺の本心を封じ込める。

夜が俺を眠らせるのと同じくらいの強制力がある。


 「光ももう、子供じゃないんだ。これから先、どうやって生きていくか。親の支え

なしに、生まれてくる子供を支えることも考えろ。…再三、言ってることだが」


 「っ…!」


 歯を食いしばって、拳を固めることしかできなかった。


 「それは、そうだけど…」


 言葉が続かない。


 自分自身も、正しいと感じているからだ。


 大人になればなるほど、『正しさ』というものが絶対になっていくのを感じる。


 もう子供じゃないだろ。


 大人なんだから。


 そう言った言葉が威力を増して突き刺さる。結月への思いなんか軽々と蹂躙してし

まう。


 「よろしくね、茜ちゃん。これで光も安心して大学に行ったり、よそで仕事ができ

る」


 「はい。ありがとうございます」


 日輪はやっと、俺を見る。


 見ただけで、言葉を掛けない。勝手に話を進めてしまったことへの後ろめたさだろ

うか。それとも、俺を男として見てくれていることからの感情なのか。


 「光!?」


 「待ちなさい!」


 「青野…」


 分からなかったけど、一つだけ確かなのは。


 「ざけんなよ…、ふざけんなよ!!」


 俺は怒っていた。


 信じてたのに。


 父さんと母さんには、結月とはずっと一緒にいることはできないって言われてきて

はいたものの、同級生に深く干渉して、勝手に将来の約束を取り付けて良いのか?


 日輪だって、ずっと一緒にバカやっていける関係じゃなかったのか。


 三人で、俺を出し抜くようにして…。


 「勝手に決めんなよ…!」


 気付くと俺は、隣の島にかかる橋へと足を進めていた。


 そこで、いつものように、意識が遠のく。


 真っ暗闇の、眠りの世界に、落ちた。

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