第29話 解放

 意識を取り戻すと、海が見えた。


 私の家の庭からではなく、どこか別の砂浜。辺りを見渡すと島には無いような高い

建物が並んでいることから、ここが本土であることが分かる。


 砂の上にブルーシートが敷かれていて、私はここでずっと眠っていた。


 「おはよう、結月」


 声の方を向くと、茜ちゃんが笑いながらこちらを見ていた。


 「うん、おはよう」


 私も笑顔になる。本当に、本土で遊ぶことになったんだ。


 「おはよう、結月さん」


 富麿くんもこちらへ駆け寄り、私に挨拶をした。


 そして、


 「ああ、青野のバカは相変わらず眠ってる。途中で帰ってもいいんだよ、って言っ

たんだけど、それはなんか嫌だって。まあ確かに、このまま置いてくのもなんだか気

が引けるし」


 隣で目を閉じて眠る光くん。前に見た時よりも大人になっている。


 前に見た時。


 あの部屋で、見た時。


 「あはは、光くんらしいね」


 「…うん」


 私の発言に茜ちゃんの表情に翳りが現れる。富麿くんもどこか穏やかではなさそう

だった。


 「じゃ、約束通り行きますか!」


 気を取り直したように両手を合わせて一拍し、茜ちゃんが水族館の方へと歩き出し

た。


 「あと2時間は見れるみたいだね」


 「イルカのショーは昼間しかないから残念だけど、プラネタリウムもあるし、楽し

めるでしょ」


 そこまでリサーチしてくれていたのかと、私は少し嬉しくなる。私も少しは下調べ

しといたほうがよかったかな、とも思った。


 そして、


 「光くんは?」と、口に出しかけて彼の方を見ると、彼よりも背の高い富麿くんが

背負って歩いた。


 「青野君って結構軽いんだね」


 「青野は少食だし、晩飯食べないからね~。脳みそがスカスカで軽いってのもある

かも、なんて言ったら青野に怒られるかな」


 ケタケタと笑う茜ちゃん。そっか、少食なんだ。私は知らなかった。


 それから私たちは水族館で小一時間過ごした。家族旅行で遠くの水族館に行くこと

はあったけど、子供だけでこうして一緒に遊ぶのは初めてで、心が落ち着かなかっ

た。


 「エイの裏側ってかわいいよね~」


 こういうところに来るのは珍しいことではなさそうな茜ちゃんが、無邪気な嬌声を

上げる。映画館のシアターのような静まり返った薄暗い空間には、他に人がいなく

て、ライトアップされた巨大な水槽に海の生き物が高い目線に移っていて、それが妙

に神秘的だった。


 「かわいいかな。僕はこの小さな魚がかわいく見えるんだけど」


 縦に縞模様が入った魚を指さして富麿くんが笑う。


 「結月は、何が一番好き?」


 ほらほら、と突き出した人差し指を軽く振るって、水槽の全体を指し示す。


 「私は…」


 急に質問されてたじろいだが、私は一息ついて答えた。


 「このいっぱいいるやつ」


 自分の指の大きさもなさそうな、小さくてか細い魚たちを指さした。


 「え、これ? なんで?」


 茜ちゃんが呆けた顔で理由を問う。「だって」と私は説明した。


 「みんな一緒で、楽しそうだから」


 言い切ると、少しの間、沈黙が現れた。


 ほんの一瞬ではない、不自然なくらい、長い沈黙。


 「一緒だね」


 「え?」


 次は私が問うた。一緒って、どういう意味?


 彼女は寂しそうな顔をして、こちらを向かずに呟いた。


 「青野と一緒。あいつもおんなじこと言ってた」





 楽しい時間はあっという間だった。


 船に乗り込む。


 光くんと二人で帰るのかな、と思っていたが、茜ちゃんと富麿くんは一緒に船に乗

り込んだ。眠ったままの男子を最後まで持ち上げてくれるらしい。


 凛ちゃんに車で送ってもらおうか、という私の提案に富麿くんは首を横に振った。

凛さんにわざわざ送迎してもらうのは気が引ける、と彼らしい大真面目な意見だなと思ったが、多少の違和感を感じなくもなかった。


 前を歩く茜ちゃんをぼんやりと見ていると、隣で光くんを背負う富麿くんが話しかけてきた。


 「楽しかった?」


 「うん」


 妙に改まったような面持ちで尋ねる彼に、当たり障りのない笑顔で応じるも、表情

に浮かんだ僅かな険しさは依然として消えなかった。


 彼が、何かを思い切って話そうとしている。勇気を出して、覚悟を決めて、言いに

くいことを切り出す直前のような、そんな顔。


 「結月さん!」


 「あ、はい!」


 張り上げた声に驚きながら、私もつられて声を張る。


 茜ちゃんにもしっかりと聞こえる距離だが、彼女は声の方向に振り返ることなく、

ただ正面を見つめている。


しかし、直感する。彼女は後ろにいる私たちを意識している。隣にいる彼が切り出す

言葉を知っているかのように。


「そろそろ、止めてくれませんか?」


「え?」


 目的語のない言い回しに、私は何のことだかさっぱり分からなかった。


 彼は一体、私に何を止めてほしいのだろうか。


 彼は緊張していた。震えているのが、こちらからもうかがえる。


 「ええと、何か私、気付かないうちに悪いことしてた?」


 優しく笑顔を作って首をかしげると、真っすぐ私を見つめて、言い放った。


 「交換日記」


 言葉は、私の心の真ん中にある大事な部分を打ち砕くようだった。


 「青野君と、交換日記でやり取りするの、止めてくれませんか?」


 身体中の熱が失われていく。


 拾った言葉の一つ一つが私の精神を消耗させる。


 「お母様は、そろそろだと言ってたよ。それに、彼は…」


 視線を茜ちゃんの方に向ける。


 「日輪さんと一緒に外を出る予定だから」


 「えっ」


 「本人がそう言っているわけじゃないんだけど、現実的に考えて、きっとそうな

る。彼の親御さんたちも日輪さんなら、って言ってたみたい」


 なにそれ…。


 声にならない声が、誰にも聞き取られず大気をさまよった。


 「これは、彼の解放でもあるんだよ」


 「解放…?」


 その言葉を耳にした瞬間、身体中に余計な力が入った。


 不気味で、実は無意識に感じていたからだと思う。


 「彼がもし、遠くへ行きたいと思っているなら、昼夜を起きることのできる人が支

えにならないといけない。…だから…、結月さん!?」


 「結月!」


 気付くと、走り出していた。


 今まで目を背けてきた、徐々に迫りくる現実。それから逃げるように走る、走り続

ける。無駄だと分かっているのに。


 解放。


 富麿くんの言葉が頭の中を駆け巡る。


 彼は、私が縛っていたのか。


 私のせいで、彼は外に出られない。


 囚われている。


 呪いに。


 『宵の子』に。


 頭の中に、思い出がよぎる。


 『宵の子』が命落とせば、呪いは解かれる。


 幼い時分に聞いた、祈祷師の言葉。


 「私が命を落とせば、光くんは、普通の人間に戻れる。イレギュラーなんかじゃな

い。その気になれば24時間目を開けたままだって…」


 一人っきりの空間で声に出すと、急に、違和感が、私の脳裏に突き刺さった。


 ああ…、そうか…。


 私は、妙に納得した気持ちだった。


 そこに希望を見出すと、私は、己の命を投げ打つことに迷いがなくなった。


 そして。


 私は展望台に向かった。


 最新のページ、最後に私が綴ったページがくしゃくしゃになったノート。綺麗な状

態のページから書く。


 今までないくらいの勢いでペンを走らせ、今までにないくらいの長さの長文をつづ

る。


 涙が止まらなくなった。震えた手は、文を、文字を、決心を揺るがせる。


 救いは、きっとあるだろうに。


 怖かった。


 彼が私のことをどこまで思っているか。生死はそこで決まる。


 それでいい。むしろそれがいい。


 私のことなんてどうでもよければ、そのまま死ぬだけなんだから。


 家に戻る。


 「おかえり、楽しかった?」


 「うん」


 前から富麿くんと打ち合わせしていたのか、まだ何も言っていないのに余計に心配

したような顔になるお母さん。


 「明日はね、茜ちゃんの家に行くんだ」


 「遅い時間だけど、大丈夫なの?」


 「うん。ご両親は親族の用事でいないんだって。だから迷惑掛からないからって、

誘ってくれたんだ」


 「そう」


 嘘をついた私に笑顔を向ける。嬉しそうな顔をするお母さんを直視できなかった。


 目の前の彼女にも、別れの挨拶は書いておいた。光くんがそれを読んで伝えてくれることだろう。


 部屋に戻り、最後から二番目の夜を過ごす。


 閉じたまぶたの裏に、彼の寝顔が映った。


 光くん…。


 会いたいよ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る