第25話 またの機会

 展望台のある丘を降りると、家の前に戸崎富麿が門の前で立ち尽くしていた。


 「あの」とおそるおそる声を掛けると、彼は首が取れてしまうような勢いでこちら

を振り向いた。


 「あっ! 娘さん! こんばんは!」


 これまた律義に90度のお辞儀をする男子。まるでロボットみたいだ。本人に言っ

たら怒られそうだけど、そう思わざるを得ない。


 「どうしたんですか? 昨日、忘れ物をしたとか?」


 「いえ、今日は潮野さん? という方が風邪を引いたみたいなので、私、いや僕が

代わりに勉強を見てほしいと、お母様に頼まれたのですが…」


 「ええっ! そうなんですか!?」


 声を上げざるを得ない驚き。いつもなら凛ちゃんが来れなかったときは自習をする

ようになっているのに。


 「ご迷惑だったでしょうか…?」


 彼は不安そうに、本人である私を見つめる。私の母が勝手に言い出したことなのに

自分の責任であるかのような面持ちである。


 「そんなことはありません。とりあえず、門、開けますね」


 カード型のカギのIC部分を読み取り部分にかざすと、大きな門扉が仰々しく奥に

開いた。


 「すごい…」


 かしこまった口調で話すくせに子供のような落ち着きのなさを見せる彼には、なん

となく話しやすい印象があった。


 「凛ちゃん、あ、教育係の人も最初に来たときはかなり驚いたみたいです。いくら

かかったの? ってしつこく聞かれたし」


 彼は、ははっ、と大きな声で笑った。


 玄関の中へ彼を戸崎さんを入れると、母が「待ってたわ」と廊下に顔を出した。


 「戸崎君は男の子だから、リビングでいいかな?」


 「はい、もちろんです! 初日からレディーの部屋にお邪魔するなんてことはでき

ませんから!」


 男の子だから、と声に出す必要のない言葉を口にする母。これまた何の計算もなく

レディーなんて気取った単語を自然に発する戸崎さん。


 ていうか、『初日から』ってなに? 慣れてきたら部屋にお邪魔されるの? 一つ

一つの言葉をちゃんと選んで! 心の中で喚いた。


 テーブル越しに互いに向かい合うようにして椅子に座る。


 さて、品定めといきましょうか。


 不真面目で不誠実だが、とにかく器用で要領のいい凛ちゃん。ユーモアもあって人

の心を開くのが上手い。


 果たしてそんな人の代わりが満足に務まるだろうか。


 まずは匂い。男の子の汗臭い臭いは結構強烈らしいことは凛ちゃんからよく聞いて

いる。制汗剤を使いこなす男子を選びなさい、と謎のアドバイスを受けたこともあ

る。


 確かに、匂いは大事だ。凛ちゃんのいい匂いを思い出しながら改めてそう感じる。


 匂い、合格。無臭。


特にきついわけではない。出会った時からも、別に気にならなかった。


「…結月さん?」


「あっ、ごめんなさい」


 うんうん、と何度か首を縦に振る私を不思議そうに見つめる彼に、慌てて言い訳す

る。


 「ああ、これ、ル、ルーティーンだから。勉強前には必ずやってるの。頭が冴えた

ような感覚になるから…」


 「へえ、そうなんですか。僕もやってみようかな」


 すると彼はヘビーメタルのギタリストのようにぶんぶんと強く頭を振った。


 「ちょっと、振りすぎですよ!」


 「そ、そうですか? 確かに、頭が気持ち悪い…」


 ユーモア、合格。まあ面白い。


 うっとうしいとか暑苦しいとか思う人はいそうだ。万人受けしないタイプ。私はま

あまあ好き。


 さあ、本題。


 これがダメだったら、今までの好印象もすべて台無しになる。


 「始めましょうか」


 「はい」


 私はテキストを開いて、凛ちゃんに教えてもらう予定だった場所を指示した。


 勉強を始めること二時間。


 「お邪魔しました! またの機会があれば、その時はよろしくお願いします。この

僕、戸崎富麿が身を粉にして娘さんを…」


 「頼もしいわ~。私は大歓迎よ」


 母がもういいわと言わんばかりに遮る。多少の鬱陶しさはあるけど、全体的には好

印象だったみたいだ。


 「ありがとうございます! 結月さんも、またの機会があれば! それでは、失礼

します!」


 深々と頭を下げる彼に、私は少しだけ首を傾けて会釈する。


 彼が玄関、そして門を出ると、インターホンに備え着いた、門を閉めるボタンを押

した後、お母さんは私に笑いかけた。


 「どうだった? あの子」 


 真っすぐと私を見る。あの日の喧嘩以来、表情は柔らかくなったものの、やはりそ

の目には厳格さを十分に湛えている。


 私の、彼に対する印象。


 「まあ、良かった」


 母が再び問う。


 「またの機会は?」


 「ある」


 「良かった!」


 母がホッと安堵する。


 「まっ、教え方は凛ちゃんには到底かなわないけどね」


 「それはそうよ。彼もまだ子供なんだから」


 「それはそうだね。私なんかよりもずっと子供っぽいところあったし」


 「そうそう。男の子ってあんなに子供っぽかったかしら」


 二人して、あの真っすぐで大真面目な男子を笑った。

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