第11話 どうなってもいい
もうずっと、暗闇の中にいて目覚めなければいいのに。私は目を開けた。
相変わらず三日月が暗闇の中で光っていた。
家の中には入りたくなかった。お母さんにどんな言葉をかけて良いか分からない。
雲一つない、いい天気だった。
月の周りでは星が輝いていて、家に戻るにはもったいないくらいに綺麗だった。
玄関をこっそりと開け、壁際のフックにかかった鍵を持ち、庭の門を内側から開け
る。そこから道を歩き、家の裏を周りこむように進んだ先の、傾斜を登る。
この島の中で高い場所に位置する展望台。見渡すと、光が点在する夜空と真っ黒な
海、光くんが住むという島が見える。
ここに望遠鏡でも置かれていたら、本土の景色まで見えたんだろうな。年に二回く
らいの家族旅行でしか見ることのできない、外の世界の景色。
母に酷いことをしてしまったと、そう書いてからまだ1日しか経っていない。もし
かしたらと淡い期待を胸に小屋を開けるが、彼は夕方くらいまでは学校で、眠ってし
まうまでの時間を私なんかに費やす余裕なんてないだろう。
それに、禁止される前は一週間のペースで更新していたから、なおのことだ。
「無駄足だよね…」
それでも私は、ノートを開いてしまう。
ノートの最後は、どうせ私の文字で終わっている。
「あれ…」
昨日、ここに来たばかりだったのに。
『交換日記が終わっても、俺は結月の友達だし、これからもずっと、目を合わせる
ことが叶わなくたって、俺はずっと結月の味方だ』
目を見開いた。
『結月が謝りたくないなら、謝らなくたっていいよ。結月の人生なんだから。っつ
ーかまだ子供なんだから、俺たち』
「光くん…」
『もう少しわがままでいたっていいんだぜ。少しずつ、やれることから少しずつや
っていけばいい』
「っ…」
涙が頬を伝う。息が乱れる。
『俺なんて、母ちゃんといっつも失望されてるっての。靴下を裏向きに脱ぐなと
か、朝から大音量でゲームするな、とか。あほらしいくらいがっかりされてるって
の。テストで満点の半分も取れなかったらすっげえ怒ってくる』
鼻をすすり、手の甲で涙を拭う。
『だからさ、一緒に強くなろうぜ。こんな体質なんか障害にならないくらい、ゆっ
くり強くなっていこう』
「…うん」
涙声で、彼に向けて頷いた。
大泣きしたせいで呼吸は少し窮屈になったが、必要以上に抱え込んできた何かが、
すっと肩から消え去っていき、むしろ清々しい気持ちだった。
光くんが書いたこの文章は、全て、私が今もっとも掛けてほしい言葉だった。
心の奥底から沸々と勇気が湧いてくる。
『ありがとう』とだけ書き記し、ノートを閉じる。
展望台の鉄柵に手を掛け、私が住む大きな家を眺め、大きく息を吸う。
「ありがとう、行ってきます」
私は、薄暗い帰路を歩き始めた。
家に帰ると、足音がした。
こちらへ来ることがなく、ただ、ある範囲で動き回る、あの足音。いつも聞き慣れ
ている。それは、リビングの方から。
「ただいま…」
声が想像以上に萎んでしまう。目の前には、調理場の方で晩御飯を作るお母さんが、一度だけ私を見るなり、すぐに視線を逸らした。
「ちょっと待ってて。もう少しでできるから」
いつものように平然を装っているが、声がどこか暗い。
拳を握り締める。心の準備を整える。
心臓の鼓動が早い。さっきまではあんなに意気込んでいたのに、実際にその場面に
立ち会うと、逃げ出したくなるほどに緊張してしまう。こんな状態で本当に謝れるの
だろうか。
でも、謝らなきゃ…。
悪いのは私で、潮野さんにだって頬を張られるほどのことを言ってしまった。
結局、私は潮野さんに『謝れ』と言われたから謝るのだろうか。それって、本心か
ら謝っているということになるだろうか。潮野さんの機嫌を取り戻すための、ただの
方便ではないか。
私の言葉で傷ついたお母さんじゃなくて、大好きだった潮野さんから怒られたこと
を気にしているのではないか。
私は、悪い人間だ。こんな気持ちで謝ったって、お母さんのことを騙しているよう
にしか思えない。心の底から謝りたい、という気持ちにならなければ…。
『もう少しわがままでいたっていいんだぜ。少しずつ、やれることから少しずつや
っていけばいい』
光くん…。
「お母さんっ!」
自然と大きな声が出た。
ぴたっ、と料理を作る母の手が止まり、目は合わせないものの、私の方へ意識を向
けているのは確かだった。
響かなかったらどうしよう、と呼んでしまった後で少しだけ後悔してしまう。
それでも、少しづつ、強くなっていこう。
光くんと。
「ごめんなさい」
深く、頭を下げて謝った。
「おととい、あんなことを言って、お母さんのことを傷つけた。お母さんが私のこ
とを大事に思ってくれてることを逆手に取って、あんな酷い脅し文句を言ってしまって。だいたい、子供が親に向って脅しなんて、ありえない話だし。我慢できなかった子供の私が悪い…」
慎重に言葉を選びながらも、気持ちが勝手にあふれる部分もあって、それでも、お
母さんに届いてくれたらいいなと願いながら、言葉を伝えた。
「あんたが…」
母の声がした。
「あんたが、幸せになってくれるなら、私はどうなってもいい」
「お母さん…」
涙を拭いもせずに真っすぐ私を見つめる母。私は咄嗟に目を逸らしてしまいそいう
になるが、しっかりと目を合わせる。
「あんたがきちんと勉強できるなら、潮野さんを雇うし、あんたの未来が明るくなるのなら、光くんと今まで通り交換日記をしてもいい。だから…」
私の方へと歩み寄り、
「死んでやる、なんて、二度と言わないで!」
そう言って私を引き寄せ、離すまいと強く抱きしめた。
小刻みに揺れる母の肩と温もりに包まれた私も、涙を流した。
小さいころに抱きしめられた、あの時の匂いがした。
「ごめんなさい…! ごめんなさい…!!」
しばらく同じ体勢で、親子二人、この大きな家の中で落ち着くまで泣きじゃくっ
た。
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