第8話 死んでやる

 「結月」


 母が、妙にあらたまった様子で私の名前を呼んだ。


 起きたばかりの目元をこすり、母を注視した。


 「潮野さん、もう来ないから」


 「えっ…」


 発せられた言葉を理解するのに数秒かかった。母は今、何と言ったのだろうか。夢だろうか。まだ太陽が空の上にあって、私はまだ真っ暗な夢の中で…。


 いや、今こうして立ったまま彼女の話を聞いているこの感覚は、限りなく現実に近い。残酷にも、これは現実なのだと思い知らされる。


 「なんで…、どうしてっ!?」


 大きな声が出た。こんな大きな声、出すつもりがないほどに動揺していた。


 訳が分からなかった。


 明日、また彼女と映画を観れるのを楽しみにしていたのに。


 一カ月の、ほんの一カ月の短い期間を受け入れて、残りの時間を彼女と一緒に過ごしたかった。


 母は、私の問いに淡々と答える。


 「新しい教師の人が、予定よりも早く来てくれるそうだから、明日からさっそくその人に教えてもらった方がいいでしょ?」


 「そんなの…」


 言いたい言葉が、出てこなかった。


 「潮野さんは、まだ若すぎる。イレギュラーなケースを務められるほどの経験は無いはず。新しく来ていただく方は塾講師としても本土の方では評判が良かったし、高校受験の内容までは主要全教科を教えられるみたいだから、適任ね。もう辛くないわよ?」


 「なにそれ…」


 腹の底が、だんだん熱くなっていくのを感じた。


 もう辛くない?


 イレギュラー?


 この言葉が、私の胸に突き刺さった。特に、イレギュラーの方。


 普通じゃない。


 みんなとは違う。


 異常。


 最近覚えた英単語のスペル。漫画でもよく目にする言葉。


 分かっていた。自分では理解していた。


 でも、自分以外の相手にそれを指摘されると、ここまで苛立つものなのか。


 「そういうことだから、いいわね?」


 特に重要でもないように、あっという間にその話題を切り上げようとする母。そこには何の哀れみも気まずさもなく、ただそうなったから、事実をあるがままに伝えたような顔をしていた。


 「…んでやる」


 母が、再びこちらを見た。


 「死んでやる!!」


 「っ!?」


 母の表情から少しだけ動揺が見えた。


 その顔に追い打ちをかけてやりたいと思った途端、せき止めていた何かが溢れだす

ように言葉が止まらなくなった。


 「知ってるんだよ! 私、『宵の子』が死んだら光くん、『陽の子』が普通の人間になれる。夜を起きていられること。祈祷師さんが言ってたの、聞いてたんだから!」


 「結月…、それは違う…」


 「嘘ついたって無駄だから。あの日、私も聞いてた」


 口をパクパクとさせている母。初めて見る弱気な母の顔に味を占めた私は、切り札を投入した。


 「そういう訳で私は死ぬけど、条件を飲んでくれたら考えてあげる。一つは、潮野さんを正式な教育係として迎え入れること」


 「…」


 依然として黙り込む母。


 「もう一つは、光くんとの交換日記を許可すること。これが飲めなかったら、死んでやるから」


 笑みがこぼれていた。母を圧倒しているのが愉快だということに気が付いた。今まで溜め込んでいたものを吐き出すのは気持ちが良かった。


 「私が死んだら、お母さんも楽でしょ? 夜ももっと早く寝れるし、教育係なんて雇わなくていいんだから。まあ、明日くらいまでに考えてくれればいいよ。一つでも条件を飲んでくれなかったら、予定通り死ぬから」


 「…結月、待ちなさ…」


 勢いよくドアを閉め、彼女のいつになく軟弱な語気を遮断した。


 清々した。


 今まで抑えつけられてきた感情をようやく外に出すことが出来た。


 母のあの顔を見ると気分が良かった。



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