第4話 仕方ないでしょ
「なーんか元気なくない?」
「別に」
本土の港からバスで約15分のところにある中学校。
その教室の窓から、自分が住む島をぼんやりと眺めていた。
「教室の隅っこで窓の景色見るような人間じゃないでしょ。あんた」
「別に」
張り付くように執拗に絡んでくる女子の声を聞き流しながら、昨日、結月の母親に
言われた言葉を思い出す。
「必ずどこかで、壁にぶつかる…か…」
「出た、青野の独り言。壁にぶつかる? ああ、あんたはボケーっとしてるとこある
から、どっかでぶつかりそうね!」
結月よりもずっと明るい髪の色をした女子が、ひとりでに盛り上がる。
「子供ができたら…。そうか、生まれてくる子供は…」
「子供っ!? なっ、なにを急にそんなことを…!」
「はあ…、そうだよな…。将来のことも想像できないで…、俺は…」
「ええっ! なにっ!? あんた彼女いんの!? 誰!? 何組!? ねえ! も
しもーし!」
この海の向こうで、今日も結月は眠っているのだろうか。
俺たちは、もう会えない。
結月だって、あの母親にきつく叱られたに違いない。教育係やお手伝いさんが、外
出すらも許していないことだろう。
…そうだ、外出もできなくなる。
俺なんかと交換日記なんてしたから。
俺が、余計なことをしてしまったから。
俺が、結月の自由を奪った。
「結月」
日没。
目覚めた私の目に、最初に移ったのは母だった。
「宇野さんは?」
いつもなら教育係の宇野さんが、私の目覚めを迎えるのに、と疑問を浮かべながら
も、何かまた、光くんのことについて詰問されるのではないかと身構えてしまう。楽
観的で牧歌的な雰囲気の父とは対照に、この人と一緒にいるとやはり緊張してしま
う。
しかし、私が想像していた理由とは外れだったみたいだ。
「宇野さんは、もう来ないよ」
「なんで?」
「家の都合で引っ越すことになったから、って3日前に連絡があってね。もう少し早
く教えてくれてもいいのに」
規律やマナーに口うるさい母にうんざりしながら、私はあの母の次に徹底的で高圧
的な女性の顔を想像する。
あの人の勉強は量が多くてペースが早くて大変だったけど、こうして同級生と同じ
レベルに到達できたのは、ひとえに彼女の存在が合ったからだ。そう思うと一概に彼
女のことを否定できない。
端的に言えば、少しだけ寂しかった。もう一度、勉強を教えに来てほしいような、
来てほしくないような、半々だった。
「それでね、これから雇う人はもう決まってるんだけど」
相変わらず、せっかちな人だ。
「本格的に教えていく人が一カ月後に来るようになるから、それまでの一カ月の間
は、臨時で来てもらう人がいるから、その人にお世話になりなさい」
宇野さんが勤めていた本当の塾。一か月後に来る新しい担当が来るまでの、つなぎ
の先生。
「今日から来るようになってるから」
「はい」
今日くらい、休ませてくれたっていいのに。光くんのことだって、大げさに慌てて
取り乱して、人の自由を奪って。
でも、私にはそんなことを言う資格がない。
普通の子として生まれなかったことが、どれだけお母さんを苦しめているか、ちゃ
んと理解しているから。
それにしても、さっきからお母さんの様子がおかしい。少しだけ不安そうで、どこ
か落ち着かない感じだった。
光くんの存在に怯えるのには及ばないだろうけど、どこか、何かを恐れているよう
に見える。
母を脅かすその正体が現れたのは、その時だった。
「こんちわーっ!」
母の顔がみるみる不機嫌になっていくのがすぐに分かった。露骨に嫌そうな顔をし
て、その人を睨みつける。
「あっ、もう日没だから『こんばんは』じゃん! はずいな…。あんたが娘? よ
ろしくね! 私、潮野凛(しおのりん)」
「あ、はい」
テレビに映るモデルのように綺麗な彼女が右手を差し出し、私に握手を求める。私
はしぶしぶ右手を差し出すと、獲物に食らいつく動物のような勢いで手を取られ、肌
の感触を試すように軽く握ったり緩めたりを繰り返した。
「やっぱ若いな~、10代は。おばさんにもこんな時代があったんだなぁ」
私の手を解放すると、比べるようにして彼女は自分の手を摘まんでおどけるように
言った。
「一ヶ月間だけだけど仲良くしてね。結月ちゃん」
「あっ、よろしく、お願いします…」
私はすっかり呆気に取られてしまった。
よくもまあ、宇野さんがいた塾は、今までの教育係のタイプとは真逆の人間を派遣
したものだな。
夜中に海を渡り、なおかつ特定の一人の子供に付きっきりで勉強を教えるという限
られた条件の中だから、こういう人くらいしか派遣できなかったんだろうか。そう考
えると家庭を持つ宇野さんはよくもまあ数年間来てくれたな、と感心してしまう。
そんなことよりも、もっと感じることがあった。
「じゃあ、飯食ったらさっさと始めちゃおっか。おばさん、結月ちゃんの風呂と飯
が終わったら連絡下さい」
「おばっ!? …、ええ、あなたも教育係臨時としての責任をもって、この子に教
えてくださいね」
礼儀を半分置き去りにしたような口調に、母が眉間にしわを寄せる。
「もちろんですよ」
用事が済んだらそそくさと他人の家に入り込む彼女。
私も初対面なのに、もうすでに彼女のことが嫌いだった。
「あの人と…一ヶ月間…」
「我慢しなさい」
仕方がないでしょ、と言いたげな顔で母はため息をついた。
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