第3話 いい子
「おっ、おおっ…!」
あれからちょうど一週間後。
俺は『宵の子』の家の塀をよじ登り、庭で気持ちよさそうに眠る彼女の枕元からノ
ートを引き出した。
俺じゃない、他人の字が書かれていたことに、喜びを隠せなかった。
「どれどれ…」
不法侵入も二回目にもなると怖くなくなっていた。周りの目などお構いなしに新し
い文面を読み進める。
『こんばんは。『宵の子』です。あなたがこれを読んでいる時には「こんにち
は」、でしょうけど』
女の子らしい丸みのある文字だった。
細かいことを考えているんだな、頭がよさそうな子だな、と感心する。
『急にこんなことになるなんて思いもしなくて、びっくりした』
嫌な気持ちだっただろうか。
『でも、すごく嬉しかった』
俺の疑問に先回りして答えるように、そう続きが書かれていた。
息が詰まった。
『私も、あなたと友達になりたいです』
そう書かれていた。
目の前の、目をつむってぐっすりと眠る彼女が、確かにそう思っていた、というこ
とだ。
嬉しかった。
彼女の真っ白な手を取り、握手をしたいくらいに。
『でも、うちの塀をよじ登るのは止めといたほうがいいよ?』
この一文に、はっ、と冷静を取り戻す。
『お母さんと宇野さん…勉強を教えてくれる人、かなり厳しいし、特にお母さんに
見つかりなんかしたら、『陽の子』さんの家に怒鳴り込んできちゃうかもだから』
「ああ、それは怖い!」
あの厳しそうな母親の表情を思い出し、これからは塀をよじ登るなんて真似は止め
ようと思った。
「じゃあさ、どうしたらいいんだよ!」
うろたえる俺に、彼女はもちろん答えを用意していた。
『家の裏に、展望台があるのが分かるかな? ちょっと高い、丘の上にあるんだけ
ど。今度からはそこにしたいんだけど、他に良いところがあったら、そちらを優先し
ます』
『今度』という言葉に、いちいち感銘を受けながら俺は辺りを見渡す。
すると、彼女の大きな家の裏に、小さな塔のようなものが立っていることに気付い
た。
他の方角を見渡しても心当たりのあるものがないので、きっとここで間違いないだ
ろうと俺は確信した。
それから俺はノートを持ち去り、眠っている彼女に手を振り、その場を後にした。
展望台は、意外と低い場所に立っていた。
彼女の家の敷地から少し離れた場所にある石段を数段登り、緩やかな坂を登ったら
ものの5分でたどり着いた。
日の傾き具合から午後の3時くらいだろうか。日が落ちて眠ってしまわないよう
に、早く書き上げてしまおう。
『返信ありがとう。あと、友達になってくれて、ありがとう。俺、すっげえ嬉しか
った』
文面で『すごい』という言葉を『すっげえ』なんて形で使うのは不自然だろうか。
でも、今の子の感情の大きさを正確に伝えたいから、消さずにそのままペンを走らせ
る。
『これからは、塀をよじ登らないようにするよ! これからよろしく!』
父ちゃんたちから関わってはいけないと注意された『宵の子』。
どうして注意されたのかは分からないけど、こうしてちょっと仲良くするくらいな
らまあ大丈夫だろうな。
それに、すごくいいやつそうだし。
『そうそう、名前! 俺、青野光。光でいいよ! 君は?』
書き残し、雨や風をしのげる小屋の中にノートを置いた。
それからずっと、俺と彼女は、学校での出来事や、家族のこと、漫画やゲームの話
まで、一週間おきにノートを通じてたくさん話した。宿題を代わりにやってもらおう
と、算数のプリントをノートに挟んだら『自分でやらないとだめだよ』と怒られた
り、雷に怯える結月の絵を描いたらこれまた怒られたり、一週間おきに文章を更新し
合う交換日記は楽しかった。面と向かって会うことが出来ないからこそ、こんなに楽
しかったのかもしれない。
しかし…。
そんなこんなで、3年が経ち、俺は中学1年生になったころ。
ある日、例のごとくノートを書き記して一か月が経過しても、ノートには返事がな
かった。
その日に帰宅すると、結月の母親が、俺の家の客間に座っていた。
失敗した。
雨が降りしきる夜。
私は、ついうっかり、ノートを広げたまま眠ってしまった。
それを目撃した母は、やはり内容に目を通してしまったらしく、その内容から光く
ん、『陽の子』が相手だということがバレてしまった。
「お母さん! お願い!」
「許しません! あそこの家の子とは関わらないって約束したでしょ? どうして
守ってくれないの?」
「それは…」
ノートを勝手に見たのは母だけど、根本的に悪いのは私だった。あれほど関わるな
という言いつけを破り、裏切ったのは私だ。
私が悪い。
だから、もう会わないようにしよう。
ノートだって、もう書かないようにしよう。
大げさに肩を震わせて泣き崩れる母を見て、私は失態を犯したんだなと痛感した。
「光も座りなさい」
窓から日がまだ落ちていないことを確認すると、母ちゃんが俺を椅子へと促した。
いつもなら仕事で出かけてるはずの父ちゃんも座っている。
椅子に座ると同時に、結月の母親が俺を見た。
そして…。
「もう、娘とは、関わらないでほしい」
確かにそう聞こえた。
「結月はね、あの子はね、普通の生活が送れないのよ?」
おばさんは続ける。
「あの子はね…、朝も昼も普通の子たちみたいに学校で勉強したり、同じ年の子供
たちと一緒に遊んだりすることもできないの。どう考えたって、あなたと釣り合うは
ずがない」
「そんなの…、できるわけ…!」
「関わらないでって言ってるのよっ!!」
部屋中に響き渡る声で、おばさんが怒鳴ると、しかしすぐに平静を取り戻そうとゆ
っくり息をついた後、「ごめんなさい」と謝った。
「急に取り乱してごめんね。でも、私はあの子の将来を考えて言ってるの。もちろ
んあなたのこともよ。もしもあなたたちがこれからもずっと仲良くなって、互いがも
うこの人ではないとダメだって考えにたどり着いて、一緒に暮らす、なんてことにな
ったら。昼にしか起きられないあなたと夜にしか起きられないあの子は、必ずどこか
で壁にぶつかる。誰が仕事をするの? 子供が生まれたら誰が面倒を見るの? 結婚
式はどうするの? 旅行だって行きたいでしょ? 生まれた子供が成長して事実を知
ったら?」
「ええと…それは…それは…」
考えてなかった。
俺はただ、結月と一緒にいることが楽しくて、ただそれだけで…。
「ごめんなさい…」
謝罪の言葉が無意識に口をついた。
「そこまで考えられなくて、結月を苦しめてしまいそうでした。すいません…」
自分は悪くないと思っていた。好きな相手と好きなように関わったっていいじゃな
いか、と意気込んでいた俺は、自分の浅はかさに気付かされて、想像した未来を恐れ
た。
考えもしなかった。
結月が俺をそういう風に思ってくれているのなら、ありえない話でもないけど…。
大人であり『宵の子』の母親であるこの人は、ちゃんと先のことを考えていた。ちゃ
んと、なんて言い方はむしろ失礼なくらい、当たり前のように想定していた。
そして、きっと、俺の父ちゃんと母ちゃんも。
「私はこれで失礼します」
おばさんが深く頭を下げ家を後にする。
口元が緩んで、鼻の奥がツンと痛くなった。
視界が水っぽくなり、溜まったその水が雫となって床に落ちる。
悔しい気持ちだった。
どうして、と神のような何かに訴えたかった。
頭に優しく手が乗せられたのはその時だった。
「偉い」
俺ほどではないけれど微弱な涙声が横から聞こえる。
「光は、いい子だ」
父さんは、その手をゆっくりと動かし、泣きじゃくる俺の頭を撫でた。
こんなことをされても、諦められなかった。
俺は…、俺は…。
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