第1話 光

 「行ってきまーす!」


 「いってらっしゃーい。あんまり裕也くんの家に迷惑かけないでねー!」


 「はーい!」


 俺の名前は青野光(あおのひかる)。小学四年生。


 今日は、10歳になってお母さんに初めて嘘をついた。


 島にある学校のクラスメートで、―とは言っても小学一年生から中学三年生まで含

めて10人しかいない教室だからクラスメートなんてのは少しおかしい気がするけど

―2歳年上の裕也くんの家に遊びに行く、という嘘をつき、家を飛び出した。


 俺はどうやら、嘘を吐くのが下手くそらしいので、必死に隠している本音が顔に出

ていないか不安だったんだけど、どうやら上手く切り抜けられたらしい。


 バレたのならすぐに連れ戻されただろうな。


 なぜなら…。


 「よかった…」


 目の前に道があることにとりあえず安堵した。


 今日は引き潮になるって、昨日、漁師の福ちゃん―福本さんという30歳くらいの

優しいおじちゃん—が言ってたのは本当だった。


 空を見上げる。


 雲一つない快晴が、青く光り輝いていた。


 潮風を受けながら、自分のために用意されたような長い橋を走り抜けた。


 50mくらいあっただろうか。途中で立ち止まり、歩き始めて、隣の土地にたどり

着く。


 傾斜の緩やかな坂道に、その家はあった。


 「すっげえ…」


 大きな家だった。


 自分の家なんかよりも2倍は広くて、高さも2倍はあっただろう。正確に測ること

はできなくてもそれくらいあると確信した。


 『あの子』の親は、いかにもお金持ちのような恰好をしていた。うちの家とは大違

いで、少しだけ恥ずかしかったのを覚えている。


 両家の初顔合わせの時にしか見ていないけれど、特に『あの子』の母親の顔はよく

覚えていた。常に気を張ったような目つきで俺たちを睨むように見ていたあの目。隣

で寝息を立てる少女を守っているようにも見えた。


 あの日は確か、鰻を食べたっけ。「ご馳走しますよ」と俺の父ちゃんの申し出に耳

を傾けず、俺たちの分まですべて支払った『あの子』の母ちゃん。どうしても、俺た

ちに借りを作りたくなかったらしい。


 そうなるのも無理はない。


 だって、自分の娘が呪いに掛かって、それも昼を起きられる『陽の子』じゃなく

て、夜の暗闇にしか起きることのない『宵の子』なんだから。


 漫画に出てくるような高い城のような塀をよじ登ると、例の『あの子』が、自分が

予測して見つめた家の窓の方ではなく、そのずっと手前の庭にいた。


 俺は、息をのんだ。


 だって、このだだっ広い、青々とした庭のど真ん中に、ホテルに置かれているのと

同じようなベッドが置かれていて、彼女がそこで眠っていたから。


 まるで漫画のコマを切り取って貼り付けたみたいだった。


 快晴の、青々とした光の直射を、これまた場違いに、大きなビーチパラソルで遮断

している。


 でも、それ以上に印象を受けたのは…。


 気が付くと、俺は近づいていた。


 真っ白な、肌だった。


 母ちゃんがよく言う、肌を傷つけるシガイセンとは全く縁がなさそうな、そんな感

じだった。


 切り開いた桃みたいに瑞々しくて、餅みたいに柔らかそうだった。


 真っ白な顔の輪郭は丸くて、小さくもスッとした鼻と厚すぎず薄すぎない唇。全体

的に端正な顔立ちだった。閉じられた目元のまつ毛が多かった。髪も、今まで見てき

た女子の中でも茶色かった。


 目は、どんな感じなんだろう。そう思ったところで、はっ、とする。


 彼女を眺めに来たのではないことに気付き、慌ててカバンの中からノートを取り出

す。


 ベッドの横に、飲み物を置くためか、穴の開いた台の上に、その新品のノートを広

げ、ボールペンをノックし、いざ書き始める。


 言葉は、ちゃんと用意しただけあって、止まることなく文章になってくれる。


 あとは、国語のテストは毎回50点くらいしか取れない俺の日本語で、しっかり彼

女に伝わってくれるかどうか。不安なのはそこだけだった。


 「ふう」


 書き終えて一息つく。


 気持ちよさそうに眠る彼女をしばらく見つめていると、後ろから人の気配を感じ

た。


 僕は家の方を振り返り、咄嗟に身構える。顔合わせの時に見たあの怖そうな母親。

父ちゃんの申し出を断り、むしろご馳走してもらった鰻の味。


 少女を守らんとする、あの切れるような鋭い目線。


 女の人が、家の中から出てきた。


 あの人だ、と直感し、ノートを少女が眠る枕の下に滑り込ませ、そのまま塀の方を

よじ登った。


 少しでも距離を取りたかったので、僕はしばらく道を走った。


 そろそろいいだろうと、立ち止まり、そこで、危機を感じる。


 ノートを見られただろうか。


 見られたのなら、彼女に見せる前に捨てるだろうか。


 その前に、内容を確認されるだろうか。


 自分にとって悪い想像ばかりが、頭の中を周る。


 一番最悪なのは、今日のことがきっかけで、父ちゃんと母ちゃんが責められるこ

と。人の家に塀から忍び込むなんて、大の大人がやったら犯罪だ。子供がやったら、

たぶん、親の責任。


 父ちゃんと母ちゃんが、僕のために、僕の責任のために、他人に頭を下げて謝る姿

を思い浮かべると、たまらなく、やるせなくて、悔しい気持ちでいっぱいになった。


 「どうしよう…」


 引き潮の続く道を、とぼとぼと渡り始めた。

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