幸せになったよ。だからもう、安心してね。

幸せになったよ。だからもう、安心してね。

作者 こばやしゆうか

https://kakuyomu.jp/works/16816700427099211028



 妹を溺愛していた兄が心臓病で死んだあと、場面緘黙症の妹がいじめられているのを天国で知り、助けたい兄の思いを神様が叶え、妹を助けるために一年間一人の同級生として側で見守る。幸せに生きることを願って再び天に帰っていた兄のおかげで幸せになった妹の物語。



 故人にでも語りかけるようなタイトルがついている。だれかを安心させたい、心配している人は幸せになることを願っているのだろう。そのような話なのかは読んでみなければわからない。


 文章の書き方には目をつむる。


 各章ごとに主人公が変わる。

 いまは誰視点なのかが示されているおかげで読みやすい。

 はじめは、感動させるために安直に死を取り上げる作品の一つかしらんと思ったけれども、ストーリーとして絡んでいるのでよく考えられているとおもった。森絵都の『カラフル』が脳裏をよぎったけれども、あそこまで詰め込みすぎてなくて目的がはっきりしている分、読みやすく、読後もよかった。

 

 場面緘黙症の主人公、一人称の「私」で書かれた文体。自分語りのモノローグという感じで、描写よりも説明的。漫画のネームのような感じも見受けられる。重い話なので軽い文章になっており、バランスが取れている。

 

 以前は At Place Mutism (場面緘黙)といわれていたが、その後はSelective Mutism といわれるようになった選択性緘黙とは、家などでは普通に話せるのに特定の場所で一カ月以上話せなくなる疾患。自分の意志で話さないのではなく、話す必要があると思っても話すことができず、体が思うように動かせなくなり固まってしまうこともある。五歳未満で症状がみられることが多く、二百~三百人に一人か二人、どちらかというと女子に多くみられる。

 就学前から少しずつ現れはじめ、たいがい就学後にその症状が少しずつ強まっていく。そのため前思春期になってから無口になる状態とは異なる。年齢とともに五~十年以内に改善する報告もあるが、十歳までに改善しない場合、慢性化して成人になっても症状が続く場合もあるという。


 場面緘黙症の主人公が隣の席の男子とつきあうも、彼は交通事故に遭遇し車椅子生活となるが、頭を打って亡くなってしまう。


 心臓に持病をもち、妹を溺愛する主人公、一人称の「僕」で書かれた文体。自分語りのモノローグという感じで、描写よりも説明的。死んだあと、神様と話すなどファンタジーな展開をみせている。

 主人公が死んだあと、妹と、もうひとり生まれた妹がいる。神様の話では妹はいじめられており、リスクは有るが助ける方法があると告げられ、現実世界の高校三年生として妹の前に現れる。

 神様が主人公に与えた条件は「必然的に妹と出会う事」「現実世界に存在してから必然的に一年で死ぬ事」の二つ。一年以内に戻らなければ「家族の記憶から綺麗さっぱり無くな」り、「貴方の存在自体を全て消すことになってしまう」という。

 半年後、交通事故に遭い車椅子生活を余儀なくされる。彼女宛ての手紙をせっせと書き、妹の卒業の記念を過ごす。四月になり、「トイレに行きたくなって車椅子に移ろうとした時、体重移動に失敗して頭を激しく打」ち、この世を去るのだった。


 再び場面緘黙症の主人公、一人称の「私」で書かれた文体。

 彼が亡くなり、手紙を預かっていると看護師から連絡があり受け取りに行く。

 手紙には感謝の思いが綴られていて、主人公の兄だと打ち明け、天国から見てきたことが語られ、「君が大人になった時、人の痛みが分かるって長所を生かせる人だから、きっと、誰よりも必要とされる存在で、世界一輝けると思います。貴方なら大丈夫。世界一輝ける。僕は君に出逢えて、幸せでした。これからは僕の代わりに貴方が幸せに生きて下さい。これが僕からの最後の願いです」たくさんの愛に満ちた願いと想いにあふれていた。

 

 兄との出会いが主人公を変えた。

「おはよう」と、いつも隣の席に座っていた男性に話しかけた。

「おはよう!」その男性は笑顔で返してくれた。

 挨拶は基本。はじめの一歩を踏み出せば、次は二歩目。そのくり返し。

 二人は結婚し子供が生まれ「少し障害を持つ子という事だった。だけど、私は全く悲しまなかった。本当に、その子が居るだけで心から幸せで。生まれてきてくれてありがとう、心からそう思う程愛おしかった」これも兄のおかげである。


「障害があるなんて関係ない。足が不自由でも、目が見えなくても、耳が聞こえなくても」ここは実にいい。

 パラリンピックを見ていたとき、「障害は個性だ」と言っている人がいた。

 この言葉が引っかかった。「顔も性格も個性的だね」といわれたら、褒め言葉に聞こえるだろうか。「魅力的だね」といわれたら悪い気はしないだろう。だからといって、障害が魅力的だねというのも違う気がする。障害は障害だ。障害だから仕方ない、障害は個性と使いたがるのは健常者側だ。自分自身にどんな価値があり、社会になにができるのか、役割を果たそうと懸命に生きるだけ。それは障害者だろうと健常者だろうと同じ。「障害があるなんて関係ない」のである。

 

 読後、タイトルをもう一度見て、兄に向けた言葉だったのかと深く納得がいった。



 エピローグが追加された。

 子供が生まれてから後年の歳月が経過していた。掃除をしているときに見つけた、中学三年生の時分に先生としていた交換ノートを手にする。障害の有無を決めるのは自分自身であり、「自分らしく生きられればそれが正解」とある。幸せと思うか不幸せと思うかも自分の思い込みに寄って変わるのだ、と気づくのだ。

 また、兄の手紙も出てくる。手紙には続きがあり、常識なんてないことを思い出し、当たり前を壊したい、この考えを広めて欲しいとあった。

 三年後、おそらく彼女が体験を元にした小説を書いて賞を取り、インタビューを受けるところで終わっている。


 十八代目、中村勘三郎の「型を会得した人間がするのを『型破り』と言う。そうでなければ、ただの『形無し』なんだ」を思い出す。

 子ども電話相談番組で「型破りと形無しの違いはなんですか?」と質問があり、

回答者の無着成恭が「そりゃあんた、型がある人間が型を破ると『型破り』、型がない人間が型を破ったら『形無し』ですよ」と答えたのを聞いた勘三郎は「あっ、これだ!」と先代の教え「とにかく稽古しろ」の意味を理解した。

 以来、勘三郎氏は徹底的に型を習得し、練習に練習を重ね、先代から受け継いだ十八番演目である「春興鏡獅子」の演技に生涯をかけ心血を注ぎ、後継者であるわが子や弟子に対しても幼い頃から徹底的に基本を叩き込んだ。その土台をもとに、型破りな歌舞伎に精力的に取り組んだからこそ、歌舞伎界の仲間からもお客様からも認めてもらえたという。

 

 常識や当たり前を疑うのはもちろんだが、ただ壊せばいいというものでもない。型を身につけた上で壊さなければ、ただの身勝手で我儘な行動になってしまう。

 偶然の産物である幸せよりも、満足を求める生き方を選んで欲しい。それが自分らしく生きるということなのだから。

 


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