テルミナと時計の王

テルミナと時計の王

作者 巡屋 明日奈

https://kakuyomu.jp/works/1177354055044362327


 友人テトラを死なせないためテルミナは今日をくり返す時の王となるも、今日をくり返すことを望んでいない友の気持ちを知り、新しい明日を向かえる物語。




 タイトルを見て、東京都墨田区にある錦糸町駅の駅ビル、もしくは名古屋駅前地下街テルミナが浮かんでしまうけれども、きっとちがう。どんな話なのかは「読んでみてのお楽しみ」である。


 文章の書き方については目をつむる。

 三十分か一時間くらいのアニメにできそうなお話。


 物語の舞台はファンタジー世界。三人称で書かれた文体。

 主人公はテルミナという人外の存在である。主にテルミナが視点人物だが、少年テトラが視点人物で描かれている箇所がいくつかある。

 複数の視点で書くことで、出来事の別の一面を見せ、変化に飛んだ話にしようとしているのだろう。


 冒頭に現れたテルミナはなんだったのだろう。

 人間のテルミナと元はひとつだったみたいだけれども、その姿はあきらかに人とは違っていた。

「帽子とスカーフの間から垣間見える闇の中に目のような光が二つ」「被り慣れた気がする帽子、巻き慣れた気がするスカーフ。着慣れているはずの長衣はまるでケープのように袖口がなく、それでも袖の先だけは宙に浮いて手の役割を果たしている」「軽くジャンプするとテルミナの身体は宙に浮いたまま止まった。そのままふわふわと移動する」

 それでいて感情もある。「雲一つない青空が視界に刺さる。綺麗だ」

 名前以外のことはなにもおぼえていない、といいながら、知恵も知識もある。「きっとこれは記憶喪失とでも言うのだろう、テルミナはそう結論付けた」記憶喪失という、人の知識を持っている。空や鳥、も知っているし、「まるで幽霊か何かのよう」と自分を形容している。


 中国思想の中で、魂魄という考え方がある。

 精神の働きを「魂」といい、肉体的生命を司る活力を「魄」という。魂は陽であり、魄は陰。人が死ねば魂は遊離して天上に昇って神になるが、魄は地上に残って鬼となると考えられていた。

 つまり、冒頭のテルミナは聖なる魂であり、時計塔の中にいた時の王のテルミナは俗なる魄だったのだ。

 人間のテルミナはおぼえていないだけで、普段は夜になると彼の魂魄は魂と魄にわかれ、時の神である魂が時計塔にいって時を管理しているのかもしれない。

 だが、友人のテトラが死んでしまって悲しんだ時、時の神である魂のテルミナを時計塔に行かせないよう、魄のテルミナが先に時計塔に登り、今日をくり返したと邪推してみる。

 どうして冒頭のテルミナに、知識や知恵、礼儀を知っているようなで、知らないこともあるのか。おそらく長い間、魂魄が離れていると記憶が欠落していくのかもしれない。おまけに毎日おなじ一日をくり返すのだ。曜日や時間感覚も狂い、おぼろげになっていっても致し方ない。


 テトラは「実は昨日の夜に死んでる」存在であり、「今日の夜死んで、また明日の朝に今日の朝と同じように目が覚める。そして今日と同じように一日を過ごしてまた夜に死ぬ」「今日がずっと繰り返されてる」のは「時の神が仕事をサボってるから時間が暴走して今日が繰り返されてる」と考え、「時計塔に行って」「時の神にいちゃもん付け」に行くのに、テルミナもついていく。

 そのテルミナは、時計塔の中に入った時、「壁にあるボタンを押す。近くの壁が音もなく開く。『これに乗れば一番上まで行けるよ』と、はじめてきたにも関わらず知っている自分自身に困惑さえおぼえている。

 知っていて当たり前だ。おそらく、時の神は彼自身なのだから。


 時計塔のエレベーターにのって上に向かう途中、テトラの知るテルミナが語られる。

 テトラと「幼なじみ」のテルミナは「緑の帽子とスカーフ」「銀色の髪」「背丈は俺よりもちょっと低」く、「ちっさい頃からよく一緒に遊んだ」「あいつは凄く優しくて、いつも周りのことを一番に考える律儀な奴だった」「ちょっと不器用なところもあった」という。

「でも、『今日』が繰り返され始めたくらいの時にいなくなった」「テルミナを探しに行きたいんだけどさ、今日がずっと繰り返されてるせいで探しに行けないんだよ」

 そして塔の最上階の部屋にあった「玉座のような椅子には、ちょうど緑の帽子とスカーフに銀髪の人物が深く腰掛けていた」人物がいて、その姿をみてテトラは、「テルミナ、じゃねぇか」と驚く。


 玉座に座る「テトラの知っているテルミナ」は「時計の王」だと名のり、頭上には豪奢な冠をかぶっていた。彼は「『今日』を繰り返す」力を持っており、「大切な者を、死なせたくなかった」ため一日をくり返しているという。


 そんな時の王を諌めるのは、やはり自分自身であるテルミナだった。「繰り返す時間のせいで何度も死んでいる。そもそも、その救おうとしてる本人の意思に逆らってまで救って、テトラが喜ぶとでも思うのか」おぼえていなくとも、意見がするすると出てきたのは「元々は同じ存在だったから」だ。


 テトラが死んでしまう一日がはじまった時、テルミナは人外の存在でも時の王でもなく、テトラの知る人の姿をしていた。つまり、魂魄になったのだろう。

 友と過ごしたテトラの言葉は、「今日はな、二度と来ないからこそ楽しいんだよ」真実味があって、何度も今日をくり返してきたから重みもある。


「だからさ、またいつか」「また、明日」という言葉は実に切ない。他にかける言葉がないけれども、別れがたい寂しい思いから絞り出した本音なのだ。しかも精一杯笑顔をみせるのは、別れ際に見せる顔が悲嘆に暮れる泣き顔では、いつまでも相手にその印象が残ってしまう、そんな思い出を相手にあげたくないからせめて、悲しくても次はないかもしれないけれど、離れ離れになりたくないけれども、別れ際は泣きながら笑顔で「また、明日」と見送るのだ。


 テルミナがいる塔下街の時計塔は、「この世界の時間を管理」し、「一日が二十三時間や二十五時間にならないように、一ヶ月が三十二日にならないように」しているという。

 

 紀元前一四七年から一二七年にかけて活躍したギリシャの天文学者であるヒッパルコスは、一日を「昼夜平等に二十四分割する」という考えを提唱したが、「一日は二十四時間」とした起源は古代エジプトにさかのぼるといわれる。だが、ヒッパルコスやその他のギリシャ人天文学者は、バビロニア人がシュメール人から継承した「六十進法」を天文学に応用して時間の区分をより細かいものにした。この六十進法がなぜ「六十」という数字をとるかは不明だが、現在も角度や地理座標、時間を計測する際に使用されている。

 太陰太陽暦を用いていた江戸時代、日本は一日が十二刻、一刻は二時間、半刻は一時間。三十日が「大の月」、二十九日が「小の月」、そしてうるう月が設けられ、一年は十三カ月あった。

 というわけで、本作の世界では一日を二十四時間とし、六十進法が使われているのではないかしらんと推測する。

 

 読後、いくら死なせたくないからといって今日をくり返しても、時計塔にとじこもって一緒に遊べなくなっては本末転倒ではないかしらんとおもったのだけれども、時の王は生きている事実がほしかったし、友の死を受け入れられず、悲しみたくなかったのだ。たとえ会えなくても同じ空の下で元気でいてくれさえすればいい、と思うことにしたが、友達はそれを望んではいなかった。さよならは悲しいけれど、来世ではあえるかもしれない。そんな日が訪れることを切に願う。

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