第2話

 3月15日 - 政府はマスクの転売を禁止する政令改正案を閣議決定し、この日より施行された。新型コロナウイルスの流行で供給量不足となったマスクをインターネットオークションなどで高額転売の横行が問題となっていたため。


 歴史学者の正木弥生は木更津にやって来た。

 木更津という地名の由来について、如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命伝承の一説、君不去きみさらずが元になっているというのが通説である。木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年(文和2年・正平8年)に記された文献で木佐良津と記されている。ただし、当時の江戸湾沿岸を代表する港は木更津の北にある高柳(現在の木更津市高柳)や富津であったと考えられており、1576年に江戸湾沿岸の諸港に半手(戦国期に領土を争う両勢力が紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする事)を認めた北条氏規の朱印状には内陸化した高柳に代わって江川や葛間(現在の久津間、江川とともに木更津市)の名前はあるものの、木佐良津の名前はないため、当時は租税を取るほどではない小さな漁港に近かったと推測されている。

 

 弥生は海を眺めていた。

 江川海岸は木更津港に面した海岸。海岸部には盤州干潟が形成されている。潮干狩り場や絶景スポットとして観光名所となっている。

 小櫃川の河口付近に位置しており、海岸部には盤州干潟の前浜干潟が形成され、南東側には木更津駐屯地が隣接している。東京湾の木更津港湾区域の最も北寄りに位置した江川地区に面しており、全面に広がる浅場・干潟を利用した海苔・アサリの漁業生産基地となっている。漁船の安全な航行の確保を図るべく、海岸北側に位置する江川航路の維持浚渫などを実施している。


 潮干狩りのできる海岸として江川海岸潮干狩場にはシーズンの春から夏頃やゴールデンウィーク頃の風物詩の一つとして毎年4万 - 5万人が訪れる。観光目的であれば入場料金はかからないが、潮干狩りが目的の場合は潮干狩り場利用料金を徴収している。


 南側の木更津港を挟んだ海岸沖には君津共同発電所、日本製鉄君津製鉄所などが並んでおり、工場夜景のスポットとなっている。また、北側には海ほたるパーキングエリア、アクアブリッジ、西側には横浜港、富士山を望むことが出来る。


 海岸には沖合に向かって電柱が林立しており、満潮になると「海中電柱」という不思議な光景が出現する。

「千と千尋の神隠しみたいだ」

 弥生は呆然としていた。

『古事記』や『日本書紀』によると、倭建命が東征の折にこの地方に立ち寄ったと記されており、この事象が元となった地名が随所に見られる。歴史的に考察するとこの地方には倭王権に敵対する勢力が存在していた事を示しているという説がある。事実、小櫃川流域を中心とする地域には支配階級にあたる豪族(国造)が存在していたとされ、それを証明する古墳群が形成されている。奈良時代の文献には小櫃川流域一帯(現在の木更津市、袖ケ浦市、君津市の一部に相当)を馬来田国として記されており、この地方を馬来田国造という豪族が支配していたと記録されている。1950年(昭和25年)市内長須賀の金鈴塚古墳(二子塚古墳)の発掘調査が行われる。この古墳は6世紀後半頃に造られたものとされ、馬来田国造の一族のものとされる。この古墳からは大刀や銅容器・武具・古墳名称の元となる純金製の5つの金鈴などが出土されている。


 1456年(康正2年)頃上総武田氏の祖である 武田信長が上総守護代となり、上総地方進出の足がかりとして真里谷城を築城する。以降、真里谷城は庁南城 (千葉県長生郡長南町)と並び上総武田氏の居城として繁栄する。武田信長の子孫の内、真里谷城を拠点とするものは真里谷氏を名乗り戦国大名化する。真里谷氏は一族の内紛と第1次国府台合戦の末に勢力が衰退し、上総地方の支配者も真里谷氏から里見氏、北条氏へと移り変わる。1590年(天正18年)真里谷城は豊臣秀吉の小田原征伐で侵攻された後、廃城になる。現在、真里谷城跡はキャンプ場(少年自然の家)として利用されている。

 

 1614年(慶長19年)大坂冬の陣に木更津の水夫24名が徳川幕府方について戦功を上げる。その水夫の功により幕府は、江戸 - 木更津間での渡船営業権や江戸の日本橋に「木更津河岸」を拝領地として与える等の特権を与える。ただし、その根拠とされている現存文書は史実と矛盾する内容が含まれており定かではないが、1615年(元和年間)以後に幕府が木更津に代官を置いた記録は確認できるため、これに近い事実はあったと考えられている。幕府は軍事上の目的から主要河川に橋を架けることを禁止し陸路には至る所に関所を設ける政策を採っていたため、この時代の流通手段は水運が主流になる。この特権により木更津は上総・安房 - 江戸間との海上輸送を取り扱う流通拠点として急激に発展する。運送には喫水が浅く海川両用の 五大力船が用いられた。木更津から江戸にやってくる五大力船は通称木更津船と呼ばれ、歌川広重の浮世絵にも描かれている。歌舞伎の演目『与話情浮名横櫛』は江戸期に木更津で実際に起きた事件がモチーフとなっており、当時の港町木更津の様子を垣間見ることができる。


 江戸時代末期の1825年(文政8年)幕府の旗本であった林忠英は3,000石の加増を受けたことにより1万石の大名として諸侯に列し貝淵藩を立藩する。陣屋を望陀郡貝淵村に設けられるが、2代目藩主の林忠旭の時代に請西村に移し、以降同藩は請西藩と称するようになる。請西藩は、最後の藩主である4代目林忠崇が藩主自ら脱藩し明治政府の東征軍に抵抗したことが朝敵行為とされ、1868年(明治元年)幕府方諸侯の中で唯一改易処分を受ける。


 明治新政府樹立後、1868年(明治元年)改易となった請西藩の替わりに松平信敏が上総国貝淵に移封し1万石で桜井藩が立藩する。1871年(明治4年)廃藩置県施行により 8月には桜井藩は廃藩となり桜井県が設置、11月には桜井県を含む旧安房国・上総国に相当する木更津県が設置される。木更津県設置にあたり県庁が貝淵村に設置される。木更津県が存在したのはわずか2年足らずで、1873年(明治6年)には廃止し、印旛県と合併し千葉県となる。1878年(明治11年)制定の郡区町村編制法に基づき望陀郡、周淮郡、天羽郡の郡役所が設置され、1897年(明治30年)望陀、周淮、天羽の3郡が合併し君津郡が成立した時に君津郡役所が設置されており、君津郡地域において木更津市は政治的中心都市であった。1973年(昭和48年)11月に、木更津県県庁所在地のあった桜井藩邸跡に「木更津県史蹟」の石碑が建てられている。


 日本国内が軍国主義にある1930年代、木更津は軍都として発展する。1935年(昭和10年)当時の 大日本帝国海軍は、帝都防衛を目的に、木更津港北側を埋め立てて航空基地の造成を行った。1936年(昭和11年)3月に木更津飛行場が完成、同年4月1日に木更津海軍航空隊の開隊式が行われる。木更津飛行場は太平洋戦争末期に日本初の国産ジェット機にあたる橘花のテスト飛行が行われた場所でもある。   

1941年(昭和16年)同航空隊の北東、君津郡巖根村に海軍工廠(第二海軍航空廠)が設置され、木更津町および巖根村には工廠で働く工員とその家族が移住したため、急激な人口増加による住宅不足の問題に直面する。2町村では大勢の移住者を受け入れる住居や新しく家を建てる土地も無く、隣接する清川村にも移住者の受け皿としての役割を求めるようになり、木更津町、巖根村、清川村の3自治体を中心に合併協議が進められる。後に協議に加わった波岡村を含める4自治体の人口の合計が当時の市制施行条件である3万人を越すことが人口調査の結果で判明し、1942年(昭和17年)木更津市として 市制を開始した。1945年(昭和20年)太平洋戦争終結以降は米軍の管理下に置かれ、1968年(昭和43年)より陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所として利用されている。


 三次功は自衛隊員として勤務していた。

 海上自衛隊の航空補給処は駐屯地内(同市江川無番地)にあるが、航空自衛隊入間基地の木更津分屯基地は、飛び地(同市岩根1丁目4−1)に所在している。駐屯地と飛び地は、片側2車線の道路で結ばれている。なお、この道路の東側と西側の沿道には、戸建住宅が多い。駐屯地司令は第1ヘリコプター団長が、分屯基地司令は航空自衛隊第4補給処木更津支処長が兼務。敷地内に、陸上自衛隊木更津飛行場があり、第1ヘリコプター団の拠点となっている他、主要国首脳会議などで、海外の首脳が来日した際等に使われる、賓客の移動専用のEC-225LPヘリコプターの運用を行う特別輸送ヘリコプター隊が駐屯している。また、駐留部隊はいないものの、在日米軍の補助飛行場に指定されており、施設が提供されている。


 有事の際は、第1ヘリコプター団のヘリコプターを速やかに習志野駐屯地に向かわせ、そこに駐屯している第一空挺団や特殊作戦群の隊員をピックアップし、直接現地へ向かうか、または木更津飛行場や海上自衛隊下総航空基地へ移動し、航空自衛隊の入間基地より飛来したC-1輸送機に乗せ換え日本全国へ展開させる。


 元々は大日本帝国海軍の航空基地として埋め立てられたものであり、帝都防衛の他、硫黄島への連絡などにも使われていた。第二次世界大戦末期には日本初のジェット機である橘花が初飛行した場所でもある。


 1945年9月にアメリカ軍が接収した後、しばらくは米空軍の基地(木更津エア・ベース)として使用されていたが、1956年に航空自衛隊木更津基地が発足し、輸送機部隊や飛行点検隊などが主に使用するようになり、その後、米空軍の部隊は1961年に立川飛行場(東京都・1977年全面返還)に移転、施設の管轄権が米空軍から米海軍へ移動した。


 1968年には航空自衛隊の部隊が入間基地に移転し、同年、霞ヶ浦駐屯地(茨城県)から陸上自衛隊第1ヘリコプター団が移転、陸上自衛隊木更津駐屯地として現在に至っている。


 また、1968年12月の第9回日米安全保障協議委員会における在日米軍施設区域調整計画で基地返還が検討されたが、米軍が「不可欠の任務のため当施設を継続的に使用する権利を有する」ことになり、現在まで全面返還は実現していない。その後、第7艦隊の空母に所属する故障中の艦載機が格納庫へ搬入されていたこともあり、1975年に米海軍の部隊が横須賀海軍施設(米海軍横須賀基地・神奈川県)に移転したのちは、米軍の使用実態はほとんど無いものの、現在も日米地位協定では2条4項a(II-4a)における米軍管理・自衛隊共同使用施設・区域という位置づけとなっている。

 

 3月16日 - 神奈川県相模原市の障害者施設で入所者19人が殺害された相模原障害者施設殺傷事件(2016年に発生)の第一審判決公判(裁判員裁判)で、横浜地裁は殺人罪などに問われた被告人の男(元施設職員)に対し、求刑通り死刑を言い渡した。同月27日付で弁護人が東京高裁へ控訴したが、被告人自身が30日付で控訴を取り下げ、控訴期限が切れた31日0時をもって死刑が確定した。

 

 武藤裕介が金銭トラブルを巡ってネクタイで男性の首を絞めて殺害し、木更津のとある会社まで運び、敷地内の焼却場で、武藤が新聞紙を丸めて火を付け廃材と一緒に焼いた。

 被害男性は推定60歳代だが名字しかわからなかった。遺体が焼かれて残っていないだけでなく、身元確認も困難な状況となった。

 この事件で武藤は億単位の金を入手した。

 何でそんなことを私が知っているのか?

 私は武藤の共犯者からだ。

 殺したことと動機は聞いたが、名前だけは教えてくれなかった。 

「妙、怖くないか?」

「大丈夫よ」

  

 3月18日

 2018年に発生した森友学園問題で、公文書改竄の強要を苦に自殺した財務省近畿財務局の職員の手記を遺族が公表。

    

 インターネットオークションでマスクを89回出品して880万円以上の所得を得て問題視(当時は合法、同月15日から違法)されていた、議員の島津忠治の問責決議案が可決した。


 祇園・長須賀古墳群に弥生はやって来た。小櫃川下流域沖積平野を中心に、5世紀半ばから7世紀にかけて造営された古墳群である。


 祇園・長須賀古墳群は木更津市の小櫃川下流域の沖積平野上にある、かつて砂丘であった微高地上を中心に築造された。小櫃川下流域には南北方向に4列の砂丘跡が確認されており、海岸から数えて2列目、3列目、4列目の砂丘跡に古墳が造営された。また4列目の砂丘跡が丘陵部に接続する付近や、太田山公園がある丘陵地帯にも古墳が確認されている。古墳群は5世紀半ばから7世紀にかけて造られ、小櫃川流域の首長であった馬来田国造が造営したものと考えられている。


 木更津市街地が広がる平野部に築造された祇園・長須賀古墳群は、低湿地の埋め立て用に墳丘が削られ、さらに木更津市の都市化が古墳の消滅に拍車をかける結果となり、現在では消滅してしまった古墳も多い。そして金鈴塚古墳など、一部が残っている古墳もほぼ原型をとどめないほど改変を受けてしまっている。そのため現在、古墳群の全貌を知るのは困難である。


 様々な古墳があったが、金鈴塚古墳は格別だった。推定墳丘長100メートルの前方後円墳。6世紀末~7世紀初頭の造営。残存している墳丘は千葉県の史跡、出土品と石棺は重要文化財に指定されている。

 古墳の中には真新しい骸骨があった。

 弥生は腰を抜かした。


 3月19日 - JR神戸線垂水駅で弱視の男性がホームから転落し、入線してきた電車にはねられ死亡。


 貝淵陣屋、桜井陣屋は、現在の千葉県木更津市貝淵にあった貝淵藩及び桜井藩の陣屋。廃藩置県後に木更津県の県庁が設置された。記録上、貝淵藩は上総国貝淵村、桜井藩は同国桜井村に陣屋を設置したとされているが、実際には両藩の陣屋は全く同一の場所にあった。


 文政8年(1825年)3月、林忠英が1万石の諸侯に列したことにより貝淵藩が成立する。忠英は当時、上総国望陀郡貝淵村と隣の桜井村の両村相交の地(境界線上)に2,500坪の陣屋を築いた。将軍徳川家斉の信任が厚かった忠英は1万8千石に加増されたものの、水野忠邦の天保の改革の開始とともに失脚し、8千石を没収された。その後、家督を相続した忠旭が隣の請西村に陣屋を移転したことから、新たに請西藩と称され、貝淵の旧陣屋はそのまま同藩の地方役所に転用された。移転の理由として、貝淵陣屋が江戸湾に近く、海防上の都合があったとされている。その後、戊辰戦争において4代藩主忠崇が新政府軍に敵対したため、同戦争における唯一の改易処分とされた。


 その後、旧藩領の一部は駿河国小島藩から転封された上総国金ヶ崎藩領となったが、明治2年(1869年)3月、同藩は藩庁を望陀郡桜井村に移す。ただし、『千葉県史料』所収の「桜井県歴史」という記録には「望陀郡貝淵村ヘ陣屋ヲ移シ桜井藩ト改称セリ」、「金ヶ崎地理不便ノ故ヲ以テ桜井村ヘ陣屋相営度段伺之上桜井藩ト改称シ、同国望陀郡貝淵村貝淵桜井両村地所犬牙相接ヘ仮藩庁ヲ設置ス」と書かれており、実際には旧貝淵陣屋への移転であった。更に桜井藩の藩校時習館は請西村に置かれるなど、実態としては旧貝淵・請西藩を継承したものであった。これは旧請西藩が朝敵として改易された事情から、貝淵村ではなく、藩庁施設の一部を有した桜井村の名称を用いたものとされている。


 廃藩置県後は桜井県、続いて木更津県の県庁が設置されたが、明治6年(1873年)の印旛県との合併に伴う千葉県設置に伴って廃止された。

 

 雷電若葉と石川貴一は弥生を尾行していた。

「美人だよな?」と、若葉。 

「そっか?」と、貴一。

 貴一は最近手に入れた金のロレックスを眺めた。 「もう昼だぞ」

「あの女がダイエット中だったら、死ぬなぁ」

 若葉は朝から何も食べてない。ギリギリまで寝ていたのだ。

 弥生がやって来たのは中の島だ。

 中の島木更津港に浮かぶ人工島である。

 島内は中の島公園として整備されている。3月下旬から7月末まで潮干狩りを目的に多くの行楽客が訪れる。また毎年8月には木更津港まつりが行われる。

 中の島大橋は、鳥居崎海浜公園と木更津港に浮かぶ中の島とを結ぶ歩道橋である。日本で一番高い歩道橋であり、全長236m、高さ27.125m、幅4.5m。1975年(昭和50年)に完成。木更津港の玄関口にあたり、木更津港から東京湾へ出入りする船舶はこの橋の下をくぐることになる。


 中の島は木更津市を舞台にしたドラマ『木更津キャッツアイ』で一躍有名となった。また、「恋人の聖地」としても有名だ。

「恋人と約束でもしてるんかな?」と、若葉。 

「それはあるかもな?麺作り食べたい」と、貴一。

「瀧本美織か、おまえは」

「ハジメちゃん」

 弥生は涙を浮かべた。

「亡くなった恋人を偲んでるのかな?」

 若葉は貴一をチラ見した。

「可哀想になぁ(T_T)」

「強面なのに涙もろいな?」

 弥生は夏川一の恋人だった。

 ベンチに座って弥生はサンドイッチを食べ始めた。

「あっちゃー、こりゃ夕飯までダメだな」

 若葉の腹がグーグー鳴った。

「飯行こう?」  

「我慢できないのか?」

「無理」

「行ってきていいよ」

「悪いな?」

 

 3月20日 - 中国海警局の4隻が尖閣諸島沖の領海を航行。

 木更津駅から3分のところにあるホテルヘミングウェイに弥生は泊まっている。

 運良く弥生の隣の部屋が空いており、若葉と貴一は泊まることになった。

「会社の金で泊まれてラッキーだな?」

 若葉は海を眺めながら言った。

「けどさ?どうやって尾行する?彼女の行き先とか分からない」  

 貴一はふくらはぎを指圧しながら言った。

 若葉が壁に耳を当てた。防音対策がしっかりなのか声は聞こえない。

「ナンパ師作戦で行くか?」と、若葉。  

「なんだよそりゃ?」

「君のことが気になってた、一緒に旅しない?って俺のオーラでメロメロにする」

「本気で言ってる?」

 若葉は部屋を出て、弥生の部屋のドアをノックした。🚪

「は〜い?」

 ガチャッ、ドアが開いた。

「君のことが気になってた、一緒に旅しない?」

 弥生は「警察呼びますよ!」と叫んだ。

「スミマセン、許してください」

 若葉は土下座した。

 部屋に戻ると貴一にメチャクチャ叱られた。

「尾行出来なくなったじゃないか!?課長に怒られるぞ!」

「マジで悪かった」

「出世に響くぞ?下手すりゃクビだ」

「貴一、おまえ謝ってくれない?」

「フザケンナ!自分で電話しろ!」

 スマホを出して係長の関ヶ原哲哉にかけた。

「どうした?」

 失敗の理由を説明した。

「オマエはホストで働いた方がいいんじゃないか?」

「マジでスミマセン」

「別の者を寄越すからおまえらは下がれ」 


 3月21日 - 山手線原宿駅の新駅舎が開業した。旧駅舎は東京都内に現存する最古の木造駅舎とされる。


 弥生はヘミングウェイを出て木更津駅東口にやって来た。

 沼田冬美は弥生を追っていた。

 彼女の正体は刑事だ。須藤の娼婦ってのは仮の姿だ。しつこい男だった。毎晩毎晩抱かれた。死んでくれてスッキリした。

 弥生は太田山公園にやって来た。

 日本武尊と弟橘媛の悲恋伝説にちなみ、恋の森とも呼ばれる。園内にはサクラの木があり、桜の名所とされる。

「もうすぐ桜の季節だね」

 弥生はひとりで喋ってる。

 太田山は標高44mで、山頂には剣の形をしたきみさらずタワーが立つ。また、山頂には古墳があったという伝承があるが、現存しない。公園面積は9.7万m2。

 園内には、かずさエフエム(BREEZE RADIO)の送信所が設置されている。

「殺したい」

 弥生は物騒なことを口走った。

 冬美は思った。まさか、私じゃないよね?

 

 3月24日

 新型コロナウイルスの世界的流行に伴い、本年夏の開催を予定していた東京オリンピック・パラリンピックについて1年程度の延期が決まった。


 トヨタ自動車とNTTが業務資本提携を発表した。スマートシティの開発で連携する想定。


 武藤は豪邸でシャンパンを飲んでいた。

 留萌右近は鬼の様な男だった。  

 武藤は自動車の部品工場で働いていた。

 留萌からは毎日の様に怒鳴られていた。

『つかえねーな!おまえなんてゴミ以下だな!?』

『死ねよバカ!』

 ときには殴られることもあった。

「奴は金がたくさんあるにも関わらず何故、派遣なんてしていたんだ?よほど、車が好きだったんだろうな」 

「死んだ奴のことなんてどーでもいいですよ」

 妙が昔売れてた芸人のマネをした。

「妙って島津って議員の秘書してたんだよな?」

「奥さんがメチャクチャ、ブスなの。私には目もくれなかった」  

 妙はロケットおっぱいで尻はそこそこ大きい。

「まさか、島津から金を奪おうなんて企んでないわよね?」

「そんな悪いこと俺が考えると思うか?」


 


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木更津殺人事件 鷹山トシキ @1982

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