墨つ国

鵜川 龍史

墨つ国

 空から墨が降ってくる。ぼしゃっ、ぼしゃっ、と地面が間の抜けた音を立てる。しゃがみ込んで墨溜まりに両手を突っ込んで、墨屑をかき集め、ぎゅっと握りこんで球を作る。大きな墨球ができたら、ぼくらはそれを互いに投げ合う。

 墨合戦だ。

 墨球に当たるとやっぱり、ぼしゃっ、という間の抜けた音がして、真っ黒なしぶきが一面に広がる。

 ……たぶん。

 墨に染まった地面と壁面、墨に染まった川と大地。そして、墨に染まったぼくらの体の中と外。何もかもが真っ黒なこの世界では、墨がぶつかっても何も見えない。だから、ぼくらは決まってこう言う。

「当たってないよ!」

 ぼくらみんなが同じことを言うので、墨合戦はなかなか終わらない。墨が降り止んで、墨屑が大地に溶けてなくなるまで、ぼくらはひたすら墨球を投げ合う。そして、「当たってないよ!」と言い続ける。

 どうしてそんなことをしているのか、だって?

 ぼくらに、同じことを聞いた人がいた。その人は、海の向こうから来たと言った。海というのは、川の下流に繋がっている巨大な墨溜まりで、ぼくらの暮らすこの大地よりも、はるかに広いらしい。そんな場所なら、さぞかしたくさんの人が住んでいるのだろうと思って聞くと、海はぼくらの背丈よりも深くて、人が住めるようにはできていないのだという。

 そんな場所をどうやって通ってきたのだろう。ぼくらは、その人を警戒した。ぼくらは同じであることを大切にする。違う存在は、警戒する。そうやって、ぼくらの兄さんもそのまた兄さんも、ずっとずっと前の代の兄さんも生きてきた。

 その人は、一緒に墨合戦をやりたがった。その人の体には墨に染まっていない部分があったので、ぼくらに狙い撃ちにされた。その人は決して「当たってないよ」とは言わなかったので、そのうち警戒心は消えてしまった。

 墨球には時々、墨屑とは違うかたまりが混じることがある。そんな時は、いつもより重かったりきれいに丸まらなかったりする。投げると手にずっしりとくる感触があって、気持ちがいい。当たると、ばしゅん、とか、ばちゅん、とか鋭い音がする。そしてぼくらは「痛っ」と言う。そうすると、後からいくら「当たってないよ」と言っても無駄だ。ぼくらはそれを墨塊と呼ぶ。

 ある日、その人に墨塊が当たったことがあった。その人も同じように「痛っ」と言ったが、その後の様子が違っていた。額が割れて、中から見たこともない鮮やかな液体がこぼれだしたのだ。

「血だよ」その人は言った。「私の血は赤いんだ」

 赤という言葉はぼくらも知っている。でも、どんな時に使う言葉か知らなかった。

「ぼくらの血は?」尋ねたが、その人は首を振った。

「きみらの血は、とうの昔に墨色に染まってしまっていたんだね」その人は、墨塊を受けたぼくらの傍らに膝をついて、その額に手を置いた。「黒いから気づかなかった」

 ぼくらは知っている。額が割れると、温かい墨が体から流れ出し、温度が全部外に流れ出てしまうと、体が冷たくなって動かなくなるということを。

「墨合戦はいい。けれども、墨塊は使わないほうがいい。墨合戦の意味が変わってしまう」

 その人は危険だった。

 でも、手遅れだった。眠った警戒心を呼び覚ますには、ぼくらはその人の血の色に惹かれすぎていた。


 ぼくらの冷たくなった体は、川の近くに連れていく。そこには、烏有樹と呼ばれる大きな樹があって、ぼくらの体はゆっくりとその中に取り込まれていくのだ。と言っても、烏有樹もまた墨色なので、樹とぼくらとの境目ははっきりしない。同化するように溶け合うように、数日もすると、何もかもが烏有樹に還っている。

 その人は、その樹のことをスカムと呼んだ。

 ぼくらの世界が知らない言葉で呼ばれるのは、居心地が悪かった。しかし、その人はこう言った。

「スカムというのはね、命を水の中で煮詰めるとするだろう。その時に、水面に浮かび上がってくるもののことをいうんだ」

 だとすれば、烏有樹に取り込まれる体もまた、きちんと命。体温が消えた後の、単なる抜け殻ではない。そう思えるなら、この言葉も悪くない。

 烏有樹は、内に取り込んだ冷たい命と、川から吸い上げた清冽な墨の流れを混ぜ合わせ、弟を一人、また一人と産み出していく。

「スカムから産まれるのはデュプリカントと呼ばれている」

 その人は言った。こちらは、不吉な響きの言葉だった。

「違う。それは、ぼくらだ」ぼくらは言い返した。

「すまない。そうだね。それはきみらだ」

 やっぱり危険だった。

 それでも、ぼくらはその人を捨てることはできなかった。その人の色は、美しかった。腕を爪で引っ掻けば、その下からは目を射抜くようなまばゆい色が現れた。

「その色の、名前を教えて」

「肌の色? 似ている色で言えば、鳥の子色かな」

「鳥の子供の色?」

「違うよ。卵の殻の色なんだ」

 鳥が卵と呼ばれる保育器の中で育つということは、知ってはいる。でも、その卵や鳥という生き物が、一体どういうものなのかというのは、想像もつかない。

「鳥は、空を飛ぶんだ」

「空?」

「そう。上を見てごらん。あの厚くて黒い大気の層の向こうには、青くて自由な空が広がっている。鳥たちは、そこを、滑るように飛んでいるんだ」

 空には空の墨溜まりがある。そこに墨が溜まりすぎると、穴が開いて地上に降り注いでくる。どうやら、そのもっと上にも空が広がっているということらしい。

「そんなに太陽に近づきすぎて、体が焼けてしまったりはしないの?」

「きみらとは、体のつくりが違うからね。デュプリカントの体は、太陽の光から栄養を取り込めるようにできている。そのための黒だ。黒は全ての光を吸収する。でも、鳥たちは逆。光を弾くんだ。だから彼らの翼は輝いて見える」

 ぼくらはその言葉に目を閉じる。ぎゅっと強く。そうすると、闇の向こうにちらつく光が見える。それを集めて翼にして、空に放り投げる。それが鳥にどれだけ似ているのかは分からないけど、ぼくらの世界には決して降りてこないということだけは分かる。

「ぼくらにはあなたのその肌で十分です」

 気が付くと、ぼくらの指はその人の肌の上に集まるようになっていた。はじめは撫でていたのが、やがては引っ掻く。削り取られた墨の下から現れる鳥の子色に、ぼくらの胸は張り裂けそうになる。強く引っ掻きすぎると色が変わる。その人は朱鷺色と呼んだ。これは、鳥の名前らしい。

 空は色彩に満ちている。ぼくらの空は、墨で蓋をされている。

「ぼくらを不幸だと思う?」

 その人は、墨の消えかかった頬をひきつらせた。唇がためらうように震える。

「不幸、というのは、すごく難しい言葉だ。きみらは、ひとつながりの命、決して孤独にはならないという点で、私たちのような人間と違って、幸福な存在だと思う」言葉を止め、唇を噛み、息を大きく吐く。鳥の子色の頬の上を、薄墨の雫が一筋、つつつと流れていく。ぼくらは空を見上げる。墨は降ってきていない。血、だろうか。「それでも、きみらの世界が、川も土も、石も命も、全てが黒一色に塗りこめられてしまっているのは、少しだけ、気の毒に思える……」

 ぼくらはその言葉に胸を掻きむしった。地面を引っ掻いた。その人の肌を削り取った。血が大地に零れ落ち、墨と混じって見えなくなる。知らぬ間に降りだしていた墨が、その人の顔を消してしまい、そのうちぼくらは何を掻いているのか、分からなくなった。

 ぼくらは烏有樹に還る。しかし、その人はいつまでも大地の上に寝そべったままだった。墨に染まったその体にけつまずく度に、ぼくらはその人の声を思い出した。さっき消えた兄さんの声ですら、すぐに忘れてしまうというのに。

「烏有樹の烏というのは、カラスという鳥を表すんだ。真っ黒な鳥だ。空を自由に飛ぶ鳥の中には、きみらと同じように真っ黒なものもいるんだ」

 その話以来、ぼくらは烏有樹のてっぺんに上り、そこから両腕を翼のように広げて飛んだ。何度も何度も飛んだ。もしかしたら、空に舞い上がることができたのかもしれない。しかし、墨に染まった世界の中で飛べたとしても、その姿は目には見えない。だから、ぼくらは決まってこう言う。

「飛んでる!」

 その人の体は、少しずつ大地に溶けていくようだった。墨が降り、墨溜まりができ、その人は、墨となって消えていく。

 ぼくらとは違う。

 ふたたび、この世界に戻ってくることはない。

 気が付くと、ぼくらの目からは温かいものが流れ落ちていた。ぼくらは慌てた。あの日以来、墨塊は投げていない。それなのにどうして、体から温かい命が流れ出しているのだろう。目を抑えて、流れ出る血を止めようとして、気づいた。

 「不幸」の話をした時、あの人の頬をつつつと流れていたもの。それは赤くはなかった。

 ぼくらはぼくらの顔を見た。しかし、そこには墨色の他に何もない。頬を伝う雫を見つけるには、世界はあまりにも黒すぎた。

 ふと足元を見ると、その人の命が溶けた後の地面に、小さく蠢く何かがあった。たくさん、たくさんの小さな光が、もぞもぞと短い体をくねらせている。

 ぼくらはそれらを手に取った。目が痛くなるまぶしさだ。肌の色でも、血の色でもない。光を弾く翼のような色。

「白鳥という鳥がいてね、それはカラスとは全く逆の色の翼をもっているんだ」

 そう、それは白く蠢く命。その人の中から生まれた、全く別の命。ぼくらは顔を見合わせた。

 墨色に染まったはずの目の中に、白い光が射している。

 ぼくの目にも、きみの目にも。違う光が射している。

 一人ひとり、違う命が萌している。


(了)

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