第一部 大地の底で 第一楽章
1
一人の少女が空を見上げていた。片手を太陽に翳して、その眼に映る小さな宇宙を見詰めていた。少女は、その頭の中で、約7分前の太陽の光を描いていた。光は、物質の速度の標準値だ。トポロジーやエントロピーが歪んでいない限り、全ての物質は、光の速度、即ち光速を越えることはできない。何故なら、ヒッグス粒子による、ヒッグス場によって、光を除いて、全ての物質に質量が与えられるからだ。が、トポロジーの捻れた量子、トポロジカル量子と、エントロピー増大の原則を破る、アンエントロピーは光速を越えることが、できる、いや、より正確に言うならば、光速を下回ることが出来ないのである。
トポロジカル量子と、アンエントロピーを見出だしたのは、少女の父であった。少女もまた、物理学に魅せられた科学者だった。
アンエントロピーの発見により、理論上未来から過去に向かって流れる時間が論証された。それは、虚時間の存在することを明らかにした。だが、アンエントロピーの中にある者が、果たして時間が、虚時間方向、つまり、未来から過去に向かって流れていることを確認することが出来るだろうか。恐らく虚時間内に住む者には、実時間として感じ得るであろう。その者にとっては、時間は、過去から未来に向かって流れるはずだ。
では、何故エントロピーとアンエントロピーは同時に存在出来ないのだろうか………
「ソフィ」
と、自分を呼ぶ声が聞こえ、少女は後ろを振り返った。呼んだのは、アオイだった。隣にカナミもいる。
「ねぇ、どうして時間は二つ同時に存在出来ないのかな。」
「ソフィに分からないことが、あたしらにわかると思う?」
アオイが言う。
「そろそろ行かないと、学校遅刻しちゃうよ。」
そう言ったのはカナミだ。
カナミの言葉を合図に三人は学校に向かった。
ふと、ソフィ―ソフィア·ハーマイン―は、呟いた
「時間も三つあればいいのに。」
2
青い稜線が弧を描いて、薄白い淡い大気が、暗い宇宙に接吻する。静止衛星軌道上の軌道エレベータから見える地球だ。
ソフィアは今、黒いドレスを着て、神秘的なその銀髪を結い、手にはワイングラスを持って、地球を見下ろしていた。
ソフィアは、美しい少女だった。白く透き通るような肌と、太陽の瞳を持ち、神秘的な銀の髪を持った少女だった。が、それ以上にソフィアは、当代随一の頭脳を持っていた。父アルカナは、天才と称された科学者であり、同じ神人類の中でさえ、その天才性に近付ける者はほぼいなかった。ソフィアは、父アルカナの天才性をダイレクトに受け継いでおり、一部には、父を越えたと噂された。だが、ソフィアの母マリアは、旧人類であり、ソフィアの容貌もほとんどが旧人類の容貌であった。母マリアは、父アルカナと結ばれたものの、神人類の社会の中にあって、差別的、侮蔑的に接せられ、ソフィアが2歳の頃には、精神を病み、5歳の頃に自殺した。ソフィア自身も、旧人類の容貌をしているため、神人類の社会の中では、父が神人類の家系であり、神人類の血を受け継いでいる為、神人類社会に座することが赦されているに過ぎない。また、ソフィアの家系、ハーマイン家は神人類の中でも、旧家名家の一家だったのも、ソフィアが、神人類社会で疎外されない理由でもあった。
父は、連邦軍に依頼された、ある兵器の開発、設計をし、開発が軌道に乗った頃、事故により、亡くなった。ソフィアが12歳の時だった。
今日こうして、父が開発に携わった兵器が完成した。ソフィアが軌道エレベータ上に居るのは、その完成式典に、政府から招待されたからだった。式典には、パートナーを伴って出席するのが習わしだったが、ソフィアには、そんな人はいなかった。同じ神人類のカナミは、父母と共に、許嫁であるエメ·ラキルも伴って出席している。カナミは、神人類らしいコバルトブルーの肌を持ち、黄金の瞳と髪を持った少女だった。この頃、神人類の間で、子供の肌の色を赤、黄、青、緑、紫、などに変えることが、流行っていた。カナミの許嫁のエメは、深い藍色の肌と、エメラルドグリーンの瞳を持ち、ジャーマン系のくすんだ金髪の青年だった。
アオイは、旧人類である為、ここに呼ばれることはない。アオイは、まだ7歳の時に、両親を自然災害で失い、ソフィアの父アルカナに引き取られ、以来ハーマイン家の使用人となった。アオイとソフィアは同い年ということもあり、二人は姉妹のように育った。また、アオイの方が、誕生日が早かった為、ソフィアにとっては双子の姉の様な存在でもある。実際、ソフィアは高い頭脳が却って実社会における、適応性を阻害させてしまっていることで、なかなか理解者が得られず、孤立していた。そんな時に輪の中に入れてくれたのが、アオイだった。アオイがソフィアを庇ってくれたことで、ソフィアが、どれ程救われたか。不器用だったソフィアは、アオイが亡くなるその時でさえ、謝意を伝えることが出来なかった。アオイは、やや濃い褐色の肌と濃い茶色の瞳を持ち、少し癖のある翠髪を持った少女だった。
「やぁ、会えて嬉しいよ。ソフィ。」
見知った声が聞こえ、ソフィアは振り返った。そこには、一人の青年がいた。
「これは、クラウド様。気分の良いご様子で。何か、良いことでもおありでしたか。」
クラウド·メツィエ。それが青年の名だった。今をときめく名家メツィエ家の御曹司で、どうやら、ソフィアに気があったらしく、ソフィアのことを、ソフィと、親類か親しい友人しか言わない呼び名で呼んだ。とはいえ、ソフィア自身は、クラウドに惹かれる所はなく、寧ろ彼の好意が疎ましく感じていた。
「ああ、良いことが有ったよ。ソフィ、今日君出会えたことさ。」
そう言って、ソフィアの手にキスした。
「今日は君の父君が設計開発した、ハーマイン砲の、完成式典だよ。今日の取りは、ソフィ、君なのだよ。だからもう一寸。晴れがましい。誇らしい顔をしたまえ。」
そう言いながら、ソフィアの腰に手を回した。
「人が見ております。どうか、お手をお離しください。少々恥ずかしいです。」
彼に腰に手を回されるのが嫌だったソフィアは、彼の手を柔らかく退けて、彼から少し離れた。
「相も変わらず、シャイなのだね。ソフィは。大丈夫。恥ずかしがらなくて良いよ。君は美しい。僕にはダイヤモンドのようさ。間違っても君を傷付けはしないよ。だから安心したまえ。僕が君を守って見せる。」
どうも彼は、ソフィアが自分を疎ましく思っていることには、無頓着であったようだ。と、言うよりかは、単純に気付いていなかったか、そもそもソフィアに何を言われようと、好意に感じていたのかもしれない。
「もうそこまでに為さっては如何。ソフィが、お困りになっております。」
カナミだ。カナミは今、深紅のドレスに身を包み、黄金の髪を靡かせている。隣には、許嫁のエメもいる。
「そうだね。少しはしゃいでしまったかもね。ソフィ、君の美しさは、月の様だ。間違っても君を傷付けはしないよ。大丈夫。僕が君を守るよ。」
そう言って、クラウドはソフィアから離れていった。
「基本的には、良い青年なんだがな。時々情熱過多になっては、周りが見えず、周囲を困らせてしまう所は、昔から変わらんな。」
エメは、そう言って、「今晩は。ソフィア嬢。」と、挨拶した。
「これは、エメ·ラキル様。御元気そうで。」ソフィアの挨拶。
「君も、早く相手を見付けてしまえば良いのに。そうすれば彼も寄っては来ないだろう。」とエメ。
「それが、良い殿方が居られないのです。」とソフィア。
「ソフィは、特殊だからね。」とカナミ。
「特殊?何が?」とソフィア。
「彼が出来ても、物理学の話してそう。」とカナミ。
「うるさい。」とソフィアは言った後、小さく呟いた。
「なに話せば良いか分かんないんだもん。」
などと話し合っている間に、式典が始まった。
ハーマイン砲完成式典は、グリニッジ時間午後7時頃に始まった。
完成式典は、先ず、時の連邦軍総帥アンドラ·ラ·メツィエの挨拶から始まった。アンドラは、クラウドの父だ。次いで、ソフィアが、設計開発した、亡くなった父アルカナの娘として、挨拶した。
「ハーマイン砲完成は、実に嬉しく存じます。亡き父を誇りに思います。しかし、ハーマイン砲は、余りに強力な兵器です。20世紀に於ける、原子力爆弾や、水素爆弾に、匹敵し得る、いや、それらを超え得る兵器であります。人類そのものを絶滅させ得る兵器であります。其れ故、慎重に扱われなければなりません。大量殺戮兵器として、歴史に刻ませることだけは、何としても避けねばなりません。善意で以て、抑止力として、活用されたく思います。」
本当は嬉しくなどなかった。遠い未来、少なからず、父が犯罪に荷担した科学者と糾弾されるのは、耐え難かった。だから、父が作った《原子核融合エネルギー高高度圧縮ビーム砲》、設計者の名を取って、通称【ハーマイン砲】が、抑止力として、見せ付けるためだけの兵器であって欲しかった。ハーマイン砲は人類初のビーム兵器だった。核融合エネルギーを非常に高く圧縮し、且つ、それを放出する。それが、ハーマイン砲の、基本設計だった。破壊力は、充填率にもよるが、計算上は最大約400メガトンに及ぶ。それは、20世紀、数々の水爆実験で使用された水爆の中で最も破壊力を持った水爆の、約4倍の破壊力を持っている事になる。最早、地球の一つの州、或いは、大陸でさえ破壊し得る兵器だった。
ソフィアの挨拶の次は、時の地球連邦政府元首ドミエステ·クーベルタンの挨拶によって、式典の開会が宣言された。
式典は、ワルツが流れ、若い男女が踊り、老若男女がワインを飲み、豪奢な食べ物がテーブルに列び、豪華絢爛たる世界であった。
3
やはり宇宙から見る地球は、良い。そこには、人類の、憎しみも、悲しみも、苦しみも、喜びも、争いも、ない。唯、そこに、青い星が、満々と碧(あおい)海と、赤かったり、緑だったり、或いは、白かったりする大陸が、あるだけだ。尤も、地球の上には、銀色に照り輝く人が造り出した摩天楼もある。その摩天楼らは、地上での日頃の喧騒とは、無縁な迄に、静謐を湛えて、佇んでいる。
ソフィアは今、宴も酣な式典をこっそり抜け出して、軌道エレベータのテラスで、地球を見ていた。
豪華絢爛も、度が過ぎれば眼に毒だ。贅沢という毒だ。彼らは、慎みも知らなければ、深味も知らないのだ。『過ぎたるは猶及ばざるが如し』とは、孔子の言葉だったか。美も何もあったものではない。この宇宙から見る地球のように、静かな感動と美しさとを彼らは感じられないだろう。
ソフィアは宇宙から見る地球が、好きだった。心が乱れたとき。落ち着きたいとき。地球を見る。そうすると、心の静けさを取り戻せる。とはいえ、今ばかりは違っていた。テラスから、ハーマイン砲がはっきりと見えるからだ。あれこそ眼に毒だ。いや、心に毒だ。
「ソフィ。こんな所にいたのね。」
「カナミ。」
カナミはソフィアの隣に立った。
「どうしたの、こんな所で。式典に戻らないの。」
カナミは時々ソフィアのことが心配になる。ソフィアは、多くの人が見ているより繊細なのだった。だから時々、カナミは、ソフィアが自らその命を消してしまいそうに見えて、怖くなる。
「今気分悪いから。」
そう言い乍、ソフィアは首を横に振った。
「じゃあ、散歩でもしない?」
カナミは、そう聞いたが、ソフィアは今度も首を振るだけだった。カナミには、ソフィアが、今にも死にそうに見えて、ソフィアの傍から離れられなかった。
「人類が、兵器を作って10万年以上。始めは、狩りをし、食糧を得る為の道具だった。なのに、それが、いつの間にか、人と人とが傷付け合う為の兵器へ変わっていった。」
暫くして、ソフィアがそんなことを言い始めた。
「槍や、投槍や、剣を作った人は、それが人を傷付ける兵器にされることが分かっていたと思う?
文明が出来て、暦が出来て、青銅器時代が来た。青銅器は、始めは祭儀用で、宗教的に使用された。銅戈、銅矛、銅剣。それらは、元々は、抑止力としての兵器で、祭儀用の物であって、決して大量に戦争に使用される兵器ではなかった。青銅器時代が終わり、鉄器時代が来た。そうなると、鉄器は先ず戦争に使用された。鉄剣、鉄矛、鉄槍。宗教的要素はなかった。初めて鉄器を作った人は、それが、戦争に使用されると考えたかな?もっと現代に近い物なら、それこそ20世紀。第一次大戦。フリッツ·ハーバー博士は、毒ガス兵器を作った。彼自身は、其れによって、戦争を早く終わらせることを目論んだ。けれど、そのせいで、戦争は余計長引いた。自動車は、どう?当時未だ上流階層の乗り物ではあったけれど、戦争に使用され、戦車とされた。飛行機もそう。ライト兄弟が造り出したばかりだったけれど、それも、戦争に使用された。戦闘機や、爆撃機が作られた。アインシュタインの相対性理論だって、原爆にされた。一体彼らの何人が、兵器に転用されることを、作ったその時、考えたかな?それらを作ったのは、皆科学者。古代の、アルキメデスは、科学者としても天才だったけれど、それ以上に、兵器開発者としても天才だった。孔子が体系化させた儒教も、韓非子によって、軍事法則、つまりドクトリンに転用された。
科学者は、遥か文明が成立する以前から、人を傷付ける兵器を作って来た。でも、それは、始めは兵器ではなく、科学者が善意で以て、人々の生活を豊かにさせる為に、作った物。だけれども、それがいつの間にか人とが傷付け合う為の兵器に転用された。じゃあ何故、そんなものを作るのか。それはね。その前に、只、謎と、ロマンがあるから。科学者は、必要に迫られて作るのではなく、作りたいから作るの。
ね。科学は誘惑するの。人を。私も、科学者の端くれ、ハーマイン砲には、ロマンを感じてしまう。お父様が、初め断ろうとしながら、結局作ってしまったことが、解るの。解ってしまうの。だって、美しい。そう、美しいの。あれを、美しいと感じてしまう。こんな感情、初めて。これ程迄に美しくて胸糞が悪くなるのは初めて。科学者という生き物はね。科学に誘惑され、魅せられた生き物よ。科学者というのは、数式だとか、何だとか、事物を計算出来ても、政治的、軍事的な事を、計算して迄研究は出来ないのよ。科学者の、原罪ね。」
ソフィアは、そう言った切り、顔を俯かせるばかりだった。
「ソフィ。」
いつも、ソフィアの話は難しくて、分からないことだらけだ。アオイなら、正しく理解出来るのかな。いつも、ソフィアの言いたい事を100%理解して上げられるのは、アオイだけだった。
「ごめん、ソフィ。私には、難し過ぎて解んないよ。」
そう言って、カナミはソフィアの傍を離れていった。
「気分良くなったら戻って来て。」そう言い置いた。
カナミは、ソフィアの難しい話が、あまり好きではなかった。カナミは、難しい事、それも、科学的な、或いは、哲学的な事が嫌だった。話を聞いていると、頭がはち切れそうになるから。
彼女の後年の事を考えると、少女時代の、哲学嫌いや、思考嫌いが、嘘の様に見える。だが、そもそもは、カナミという少女は、そういう少女だった。実際、後年カナミは、自分自身、哲学的な、思考的な問題に対し、苦手な分野だと、公言している程である。
カナミが去って、また一人になったソフィアは、再び思考の渦に没入した。
科学者は、科学者という生き物は、世界を叙述したがる。科学は世界を叙述し得る物語だ。そう、物語なのだ。神話なのだ。科学というのは、現代の神話だ。科学者は、現代の神話の語り部、といった所だ。科学は、造り出された時点で、科学者という創造者をすり抜けて行く。科学者が、自らの作った科学は、造り出されたその瞬間から、誰のものでもない。あるのは、唯、科学という自然法則にすぎない。科学者は、科学を造り出すのが仕事だ。が、その造り出した科学を、どう、扱うべきか、どう、扱ってはならないか、を決める権利は、ない。それでも、科学者は、どう、扱うべきか、どう、扱ってはならないか、を人々に伝えなければならない。それは、造り出した者としての、責任だと思う。科学者とは、平和時には、人々に豊かさを与え、戦乱時には、人々に恐怖と、死と、絶望とを与える宿命を、背負った生き物だ………
ふと、気が付くと、すぐ傍に給仕が居た。若い男性だった。いっそ少年言える程の若さだ。肌は白く、髪は黒かったが、瞳が、白銀に輝く少年だった。
「ワインをお飲みになりますか。」
少年は言った。少年の声は、未だ声変わりが終わったばかりなのか、それとも、終わりつつあるのか、何処と無く、不自然、いや、不釣り合いな気がした。
「あぁ…じゃあ。」と言って、ソフィアは、グラスを渡し、給仕の少年はワインを注いで、再びソフィアにグラスは戻った。
「それでは」と言って去って行く少年を、ソフィアは「あ、待って。」と、呼び止めて、「少し、お話ししませんか。」と言った。
4
少年の名は《カルマ·ハラデ》と言った。後年、ソフィアの夫となる人物であり、月面連合国初代首相になる人物であった。
カルマは、物心付く前に両親を失い、幼少期を月面都市ファウンデンのスラム街で育った。7歳の頃、ユクス·ガガーリン、という軍人に拾われ、以来彼は軍人として、育てられた。だが、ガガーリンとカルマとの間柄は、何処か、特別な関係に感じられる。後年、カルマが語った処によると、カルマは、ガガーリンに対し、父性を感じていたという。しかし、ガガーリンは、カルマをどう思っていたのか。残念乍、分かっていない。記録にないのだ。後世の歴史家には、ガガーリンとカルマが実際に親子関係にあったと主張する者もいる。が、お互い、親子の情を持ち乍、決して親子にはなり得なかった、というのが実情でなかったろうか。
また、何故この時期、地球に来たのかについても、記録は黙したままだ。だがカルマが、その身に任務を帯びていたことは、事実である。それは、地球連邦内に潜伏する、反地球連邦勢力とコンタクトする為だった。コンタクトし、且つ、反地球連邦勢力を糾合することにあった。
よく、歴史家はソフィア·ハーマイン事件が起こったことが、月面連合と、地球連邦とが、戦争に入って行く原因だと言う。だが、それは間違いである。ソフィア·ハーマイン事件以前から、月面諸都市は、打倒地球連邦の旗を掲げ、秘密裏に軍備を拡充していた。アルミア·ハーンの反乱以来続く歴史のうねりに、ソフィア·ハーマイン事件は、大きなきっかけを与えはしたが、あくまでも、要因に過ぎない。
カルマが、アルミア·ハーンの反乱時の、ハーン家の分家ハラデ家の末裔とする歴史家も居なくはない。反乱が起こると、ハラデ家は、主家である、ハーン家に付いて行った。シルヴァ·ハラデが時の当主であったが、彼には、二人の子供がいた。兄フォーゲルと妹クレイアである。二人は反乱時、未だ6歳と5歳だった。だが、その後、二人の消息は不明になっている。二人は、月面都市の人々に匿われ、秘密裏に育てられた、というのが、カルマが、ハラデ家の末裔とする歴史家の主張するところだ。カルマの出生秘話が実際どのような物であったとしても、彼が、白銀の瞳を持っていた事は、変えようのない事実である。彼の血には、神人類の血が混じっていたことは間違いない。
話が少しずれてしまったので、元に戻す。
カルマが、地球連邦内に潜伏する反地球連邦勢力とのコンタクト且つ糾合が、地球に来た理由であることは述べた。一方、ソフィアは科学者を中心とした、反地球連邦勢力の一グループの、《アルカナグループ》の成員でもあった。アルカナグループは、名の通り、ソフィアの父アルカナが作ったと言われている。その為か、或いは、ソフィアの天才性の為か、ソフィアは、アルカナグループのリーダー的存在であった。故に、カルマとソフィアの出逢いは必然であったのかもしれない。
5
「カナミ、一緒に踊らないかい。」
カナミが会場に戻ると、エメがワルツを一緒に踊ろうと誘って来た。カナミは「はい。」と頷いて、彼の左手に自らの右手を重ね、演舞場に向かった。
カナミはエメを愛していた。エメもまた、カナミを愛していた。エメとカナミとは、8歳離れていた。カナミのハイスクール卒業後、二人は、結婚する予定であった。もし、歴史の大きなうねりが、二人の前に立ちはだかる事がなければ、二人は幸せに結婚していたかもしれない。
エメの左手に自らの右手を重ね、残りの二人の片手でホールドを作る。エメは、ワルツを踊るのが上手かった。カナミは、ワルツを踊る時の彼の姿が一番好きだった。カナミは、これ以上にない素敵な夫だと考えていた。二人が最も得意としていた曲は、チャイコフスキーの弦楽セレナーデと、ドビュッシーの月の光だった。また、エメは、ヴァイオリンも弾けた。カナミもピアノを弾けた。デートでも、二人はヴァイオリンとピアノとで、演奏することもあったと言う。
曲が始まった。今度の曲は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第一楽章だ。二人はゆっくりと踊り始める。ラフマニノフは、カナミが一番好きな作曲家の一人だ。カナミはピアノでよくラフマニノフを弾いたと言う。
ピアノのイントロから始まり、次いでA
メロが流れる。Aメロは、ゆっくりと始まり、少しずつAメロのクライマックスに向かってボルテージがあがっていく。Bメロは、Aメロのクライマックスのフォルテから一気にピアノに小さくなって始まる。
カナミは、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番第一楽章の中で中間部のBメロが好きだった。
Bメロが終わるとAメロによく似たA'メロに入り、この曲中一番の盛り上がりに入る。それが終わると、曲全体のクライマックスへ向かって着実に進んでいく。そして、Aメロのクライマックスに似た、クライマックスを迎えて終わる。
第一楽章が終わると、第二、第三楽章も続けて流れ、カナミとエメは、3曲続けて踊った。
さすがに疲れたものの、カナミにとっては、愛しい彼の凛々しい顔を見れ、さらには、時間を共有し合えたので、大満足だった。
それから、30分程経った頃に、ソフィアが会場に戻って来た。カナミは、ソフィアに近づいて、「ソフィ」と話し掛けたが、何やらソフィアは給仕と話していたらしく、なかなかカナミに気付かなかった。ソフィアはカナミに気付くと「カナミ?どうしたの?」と言った。
「何度かソフィのこと呼んだんだけど。」とカナミが言うと、「あぁ、そうだったの?話に夢中で気づかなかった。」とソフィアが返した。話に夢中になると、途端に自分の世界の中に入ってしまう所は、ソフィアの悪い癖だ。
「もう。気付いてよ。ところで給仕の方と何のお話を?また物理の話?」
「うん。そう。物理のね。」とソフィア。
「給仕のお方。ソフィアの難しいお話にお付き合い頂いて、さぞ大変ではありませんでしたか。」とカナミは給仕に尋ねた。
給仕は、「いえ。大変興味深いお話でした。当代一の科学者と話を出来るとは、光栄な事です。」と答えた。
「そう、それは、良う御座いました。」とカナミ。と、二人のやり取りを見ていたソフィアが、「カナミ。給仕のお方、じゃない。人には名前が有るのよ。この方は、カルマさん。カルマ·ハラデさんと言うの。」と、何処か怒り口調で言った。
「しかも私達と年齢はそう変わらないよ。」とソフィアは続けて言った。
「そうなのですか。ハラデ殿。」と、カナミは少し驚きつつ訊いた。
「はい。今年で16になります。」とカルマ。
カナミはさらに驚いて「16で御座いますか。私達より、一つお上ではありますのね。」と言った。
それから三人は少し話をしたが、不意にソフィアがカルマの腕を取って、「カルマさん。私と、踊って頂きたいのですが、宜しいでしょうか。」と言った。
「私は只の給仕に過ぎません。出来かねます。」とカルマは返した。が、ソフィアは、「そんなのどうでもいいです。カルマさんに踊って頂きたいのです。私と。それとも、私と踊るのが、お嫌で?」と言い募った。
カルマは、「嫌ではございませんが、私は只の給仕で、しかも、旧人類です。その様な者と踊るなど、ハーマイン卿の評判がお悪くなられます。」と答えたが、ソフィアは、「神人だ、旧人だは止めて。私の母は旧人よ。私の容貌も。それと、ハーマイン卿も止めて。お母様も、お父様もお亡くなりなられて、ハーマイン家を継げるのが私一人になってしまっただけです。遠からず、私は入り婿を迎えなければならないでしょう。家のために好きでもない御方と結婚し、家に縛られて…。」数秒間の沈黙が入って、「だから。今夜だけでも、私とワルツを踊って下さい。」とソフィアはさらに言い募った。
カナミには、数秒間の沈黙が、ソフィアの苦々しさを現していることを悟った。
家に縛られること。
その苦々しさ。その苦しさ。
家の為に、好きでもない人と結婚し。家を遺す為に、子供を産まされ。家の為に、一生を捧げさせられ。
親が決めた相手が、エメの様に、カナミの様に、好き同士な関係であればいいが。そうではない場合は悲惨というものだ。
カナミは、相手を決める時、父が自分で決めて良いと言ってくれたことが、本当に嬉しかった。
神人類の子女も、親の支配から逃れられなかったのだ。いや、神人類だったからこそ、親による子の支配が旧人類以上に強かったといえるであろう。何せ、彼ら神人類は、選民主義であったからだ。西暦7世紀から、19世紀の産業革命迄のヨーロッパ封建性貴族、或いは、20世紀迄に至る帝国主義、またはファシズム思想など、それらは全て選民主義、或いは、選民主義的であった。自らのみが、選ばれた民だという。その《選ばれた民》という思想が、彼ら神人類にはあったのだ。《選ばれた民》。それは、否応なしに他者を差別化し、搾取し、自らを正当化する、あまりに過激、あまりに理不尽な論理である。
後年、ソフィアは、自著『二つの重力の狭間にて』の中で、『強者の論理は弱者の犠牲という細糸一本で支えられている。強者は、弱者が犠牲となって作られた空中楼閣、または、バビロンの空中庭園、或いは、バベルの塔に住んでいる。』と強者と弱者について語っている。
さて、ソフィアに言い募られたカルマは、一瞬瞬巡した。と、よく見ると、ソフィアはカルマの手を取った手ともう一方の手を、自らのドレスに当てて、それを握り締めていた。その手は震えていた。そういえば、心なしか、ソフィアの瞳も震えている様に見える。先程迄の、科学の話に夢中になる少女は、いなかった。いたのは、家、或いは、上流社会にがんじがらめされ、身動きしようにも動けない、弱い少女だった。
「分かりました。それでは、不肖、カルマ·ハラデが、御相手致します。」
と、カルマは言い、ソフィアの前に傅いてみせた。ソフィアは一瞬目を伏せてから、もう一度彼を見返して、「はい。宜しくお願い致します。」と言った。
ソフィアはカルマを連れ、演舞場に上がった。
「あの、申し訳ありませんが、ワルツを踊ったことが、ないので、どうすれば宜しいでしょうか。」
とカルマは言った。カルマは、今迄ワルツを踊った事はなかった。それどころか、このような社交界に出ることも初めてだった。
「そうでしたか。無理強いをして、申し訳御座いません。どうか、この手を強く結んでいて下さい。」と言い乍、自らの右手を彼の左手に重ねた。「はい。」とカルマは頷いた。
曲は、ベートーベンのピアノソナタ第14番『月光』だった。
結果は、散々だった。カルマはそう思った。今迄社交界など出たことがなかったから、踊りは全く、なっていなかった。
「お付き合い頂いて有難う御座います。良い踊りでしたよ。」とソフィアはカルマを庇って言った。
「勿体ない御言葉です。足手纏いではありませんでしたか。」とカルマ。
「それでは、次回、お会いした時、踊りの上手くなっていることを期待致しますね。」とソフィアは、くすりと微笑し乍言った。
ハーマイン砲完成式典は、午前0時頃に終わりを迎えた。
6
日付が変わり、午前1時頃、ソフィアは、カナミと、カナミの両親、及び、カナミの許嫁のエメの、計5人で、軌道エレベータに乗り、地上へ向かった。
軌道エレベータは、初代ハーマイン家当主エイドリアン·ハーマインが、完成間際の2141年から建設総督を任じた。
初代のエイドリアン以降、ハーマイン家歴代当主は、皆科学者か技術者、或いは、その両方だった。ハーマイン家の歴史は古く、神人類第一世代の14家の内の一家であった。
2120年代に神人類第一世代は誕生した。だが、第一世代の神人類は、既存の旧人類に比べ、遥かに優っているわけではなかった。真に優れた神人類は、次の2130年代に誕生した、第二世代の7
2140年代には、第三世代の神人類が誕生した。第三世代は、21家に及ぶ。2150年代に、神人類第四世代が誕生した。彼らは、今迄の神人類を超え、新しい
さて、神人類には、家格があった。爵位である。爵位は高い地位から、《卿》、《公爵》、《侯爵》、《伯爵》、《準爵》、に分かれていた。《卿》が最も高く、数ある神人類家系の中でも、僅か10家にのみ赦された家格であった。その為、彼らを《十卿》と呼ぶ。ハーマイン家もその十卿の一家であった。最も低い準爵は、各四世代の主家の分家、または、分家の分家などが、準爵とされた。
基本的には、家格は変わることはなかった。低い準爵から、伯爵になることはあっても、伯爵や侯爵、公爵は、例外を除いて、昇格する事はない。その例外が、クロパトキン家であった。クロパトキン家は、アルミア·ハーンの反乱を鎮圧したことによって、昇格し、公爵から、卿になった。
政府は、神人類に領地を与えた。領地は、地球上の都市であった。その為、領市とも言う。領市を与えられるには、伯爵以上の爵位が必要だった。勿論、高い爵位程良い都市を所領した。例として、十卿と、その領市を挙げる。
クーベルタン家 パリ市
メツィエ家 ナポリ市
エンキエル家 カイロ市
ガーフィールド家 ロンドン市
ロヴェッリ家 ローマ市
リーフェンシュタール家 ベルリン市
ハーマイン家 モスクワ市
コーンウェル家 ワシントンDC市
ツァン·リー家 ペキン市
クロパトキン家 ウラジオストク市
となる。
だが、2220年代以降、地球の自然災害は甚大なものとなり、神人類の多くは領市を追われることとなった。
《トーキョー》
それが、今のハーマイン家の自邸のある都市であった。
人口約3000万人に及ぶギガシティである。元々トーキョーは、カナミの家系のブラックストーン家の領市である。ソフィアの四代前、ハーマイン家の領市であったモスクワが大災害を被り、家財を失い、唯一残ったのがトーキョー市の別荘だった。以来ハーマイン家は、この元別荘を自邸とし、ギガシティトーキョーに住み着くこととなった。ソフィアの三代前迄は良かったが、以降ハーマイン家は、家格を残して没落することになった。父アルカナの頃には、家計は、火の車で、しかも、ハーマイン家は代々科学者や技術者であった為、元より経営者としての才覚は皆無だった。アルカナも天才科学者であって、天才経営者ではなかった。所領を失ったハーマイン家には、初代エイドリアン·ハーマインが、軌道エレベータを完成させ、それによって、軌道エレベータの月々の利潤の内、約2割がそのままハーマイン家に入るのみだ。軌道エレベータの利潤の2割だけでも、莫大な富であったが、だからといって卿という家格を以前の様に支えられるものではない。結局ハーマイン家はブラックストーン家に家計の面でも援助されることとなった。ハーマイン家は卿の家格だったが、ブラックストーン家の家格は伯爵だった。家格の上のハーマイン家をブラックストーン家は無視する事はできなかった。また、ブラックストーン家としては、ハーマイン家を保護奉ることで、神人類社会の中で、安定的な地位を得ようとしての事でもあった。その目論見は上手くいった。ブラックストーン家は家格を侯爵に昇格したのだ。例外の事である。が、この頃は、そういう例外は例外ではなくなりつつあった。
所領を失い、トーキョーに住み着くこととなったハーマイン家は、以来没落し、アルカナが産まれた頃には、月々の平均収入の約九割以上が支出だった。当然、収支は±0だ。家計は、火の車であった。アルカナが当主となった頃には、ハーマイン家の生活水準は、伯爵以下だった。何なら、経営手腕を発揮した準爵家の方が余程良い生活を送っていた。それでも、家格は卿だ。卿としての威厳、威信の為、ハーマイン家は、借金を重ねた。その結果、ハーマイン家の年間支出の約七割近くが、借金で賄われていた。
アルカナが当主となり、自らが経営手腕のないことを分かっていたアルカナは、当時準爵の次男だった、アンリ·サン·ピエール·ド·メリクーリという青年を家宰として雇い入れた。アンリ·サン·ピエール·ド·メリクーリは、明るい緑の肌と、深い紫色の瞳、柔らかな薄い茶髪の青年だった。アルカナが当主となった頃、神人類の家系は、分家に分家をし、地球上の都市という都市全てが、領されていた。しかも、2220年代以降、度重なる激甚な自然災害によって、人類が生息し得る土地環境を有した都市が、減りつつもあった。政府は、事態の重さから、海上都市、海底都市の建設計画を建てた。だが、10年20年経っても、僅か5都市しか、建設できなかった。結果、次男三男が、分家できない状況が生じた。アルカナは、その状況を憂慮し、且つ、利用し、有能な次男三男等を雇った。
さて、アンリ·サン·ピエール·ド·メリクーリが家宰となって、最初に行ったのは、質素倹約だった。卿としての威厳威信とされた、様々な贅沢品や調度品をアルカナが承諾した物全てを売却及び質に入れた。長年ハーマイン家に仕えた使用人や執事らは、メリクーリの行いに激怒したが、アルカナが諫め、事なきを得た。次に行ったのは、代々ハーマイン家が造り出した科学技術の知的所有権を、企業から取り戻すことだった。だが、取り戻せない場合が多く、メリクーリは、企業ごと買収した。当然、企業側からは、反発の声が上がった。今回は、メリクーリとアルカナとが協力し、企業にハーマイン家の家紋を与え、箔を付けることで買収に成功した。
それ以来、ハーマイン家の家計は、少しずつ好転し始めた。
アルカナが亡くなって、ソフィアが12歳にして、ハーマイン家を継ぐこととなり、改革は頓挫するかに見えたが、ソフィアは、メリクーリに、家計の正常化計画を続けさせた。
ソフィアが当主となって、ソフィアが経営に対し行ったのは、ハーマイン家の使用人、執事、メイド、等の人員を削減し、且つ、新たに神人類旧人類問わず、使用人等を雇うことだった。詰まる所、使用人等の刷新だった。長年仕えていた者であっても、容赦なく解雇した。これには、メリクーリも反対した。「お嬢様。人員の削減は結構ですが、長年仕えた者迄解雇するのは如何なものでしょうか。使用人の刷新も、それ事態は反対致しませんし、代わりに神人類を雇うことは宜しい、が、旧人類を雇うことには、納得しかねます。」と反対するメリクーリにソフィアは、「旧人類の中にも、有能な人物は居ます。逆に、神人類の中にも、無能な、取るに足りない人物も居ます。旧人類だからといって、雇わないのは、道理に反しています。支配者として、被支配者を守り、保護する義務があるはずです。それに、私のお母様は旧人類です。弱者を切り捨てるのは簡単です。強者だからこそ、弱者を助け、導く責任があります。」と言って、強行的に使用人の刷新を行った。以来、メリクーリとソフィアとの間は、少し険悪な雰囲気を漂わせていたが、メリクーリは、基本的には、忠実にハーマイン家をしっかりとマネージメントし、ソフィアにも、父アルカナから続く忠誠心を、変わらずに尽くした。
ソフィアが新たに雇い入れた者の中に、サダハル·アリマという青年が居た。彼は旧人類だった。サダハルはソフィアの新執事となった。サダハルは執事として雇われた時、24歳で、ソフィアとは、12歳離れていた。執事としての経験は皆無だったが、周囲の助けもあり、すぐに執事という仕事に馴れていった。サダハルは、歴史に造詣が深く、ソフィアは彼に歴史話をよく訊いたという。ソフィアは科学者だったから、歴史に無関心では居られなかったのだ。後年、ソフィアが著した《二つの重力の狭間にて》には、歴史の話に盛り上がり過ぎて、気づいたら、徹夜してしまった、というエピソードが載ってある。但し、二人の間に男女の交感はなかった。何処迄も、主従関係に過ぎなかった。サダハルとしては、ソフィアより12歳上な為、ソフィアに男女の感情を持てなかっただけなのかもしれない。
ソフィアの代となって、ハーマイン家の直接の使用人等の人数は、9人迄に減った。
内訳は、
家宰 アンリ·サン·ピエール·ド·メリクーリ
家令 ニール·ストラスブール
執事長 アンスワルド·バロックシェルド
執事 サダハル·アリマ
執事 ユウキ·マディエーラ
メイド長 セイラ·ドゥ·ラ·メール
メイド カッサンドラ·サダルスード
メイド フリスチーナ·ラヴロフスカヤ
側用人 アオイ·スプリング
である。この内、神人類は、アンリ、アンスワルド、ユウキ、セイラ、カッサンドラで、旧人類は、ニール、サダハル、フリスチーナ、アオイだった。また、ソフィアは使用人の職務を再定義した。家宰は、主人に代わって家の経営を行う。家令は、家の財産の管理。執事長は執事の纏め役。メイド長はメイドの纏め役。執事とメイドは、家の家事全般。側用人は、常に主人の側近くに仕え、必要とあらば、他使用人へ主人の指令及び命令を伝える。また、主人と離れていたとしても、常に主人の連絡に応え、他使用人へ指示を行う。
家宰と家令は、職務上連係せねばならず、両者共、一人の秘書を抱えている。殊に家令は、買収した企業の利潤の計算を行う為、十数人の被雇用者も抱えている。計30人近い人数を直接間接にハーマイン家は抱えることとなった。それでも、かなり減った。以前は、40人以上の使用人と、その下に、大多数の下人が居た。100人を優に越える人数を抱えていたのだ。それが、今や30人程度になったのだ。支出は大いに浮いた。
ニール·ストラスブールは、スコットランド系の白い肌、茶色の瞳と髪を持ち、眼鏡を掛けた人物だった。数理に強く、経理担当に優れた人物だった。
アンスワルド·バロックシェルドは、薄い青色の肌と瞳、白い髪を持った人物だった。準爵の家系だったが、アンスワルドの父も、執事をしており、代々ハーマイン家に仕えた執事でもあった。
サダハル·アリマは、明るい黒髪短髪で、執事としては、不恰好な迄に背の低い人物だった。歴史が好きで、歴史関係に於いて、ソフィアに大きな影響を与えた。
ユウキ·マディエーラは、赤い肌と、茶色の瞳と髪を持った人物だった。伯爵の家系だったが、メリクーリと同じように、三男だった為、所領に預かれず、溢れている所、アルカナにスカウトされた。
セイラ·ドゥ·ラ·メールは、準爵の家系で、代々ハーマイン家に仕えていた。暗灰色の肌と、緑色の瞳、白い髪を持った人物だった。ソフィアの代には、既に40歳を越えていた。ベテランメイドだった。
カッサンドラ·サダルスードは、薄い赤色の肌と、緑色の瞳、燃えるような深紅の髪を持った人物だった。伯爵家の家系だったが、災害で家族を失い、アルカナに引き取られ、以来ハーマイン家に仕えた。
フリスチーナ·ラヴロフスカヤは、白い肌と、癖のある明るいブラウンの髪と、瞳を持った人物だった。ソフィアと同い年だった。実の両親に虐待されて育ったが、11歳のときにソフィアに救われ、以来ソフィア個人に仕えた。
軌道エレベータは、地球上にたった一つだ。制止軌道上迄伸びた軌道エレベータは、太平洋上に浮かぶハワイ諸島の、主島ハワイイのヒロ国際空港に連結した、旧ヒロ湾洋上が根元だ。旧ヒロ湾は、人工の大地に埋め立てられ、今や軌道エレベータ地上ターミナルとして世界中から人々が集まる場所となっている。そこから、地上ターミナルと連結同化した、ヒロ国際空港から旅客機で日本州トーキョー市のトーキョー国際空港に向かう。
トーキョーに着くと、ソフィアの前に自動車が来て、中からアンスワルドが出てきて言った。
「お迎えに上がりました。お嬢様。」
「ご苦労様です。アンスワルドさん。」と言ってソフィアは自動車に乗った。
ハーマイン家の自家用車は、卿という家格には似つかわしくない、そこら辺で売られている乗用車だ。メリクーリが家宰となって以来、高級車は使わず、トヨタ社製の乗用車を使用している。
ハーマイン邸に着いたのは、式典が終わってから、2日程経っていた。
「お帰りなさいませ。お嬢様。」
と言って、使用人らが、ソフィアを迎えた。アオイだけが「お帰り、ソフィ。」と言う。ソフィアを名前、それも、愛称で呼べるのは、アオイだけだった。アオイはソフィアの一番の理解者であり、二人は主従を越えた関係だった。
「ただいま戻りました。」とソフィアは言った。
その頃、カナミはと言うと、許嫁のエメとディナーを楽しんでいた。
軌道エレベータ地上ターミナルに到着した後、カナミはエメと共に、ラキル家の所有する旅客機アンハングエラに乗り、空路ラキル家の領市リヨンへ向かっていた。機内で二人は向き合い乍ディナーを楽しみ、会話した。
ヨーロッパは21世紀から22世紀に掛けて、ゆっくりと衰退した。特に21世紀末から22世紀半ば迄の状況は深刻だった。たが、22世紀末以降、少しずつ回復傾向を示し、2250年代以降は度重なる激甚な災害の中、人類社会の辺縁という政治的違いはあるものの、19世紀始めの頃の様に、黄金時代を築いていた。
リヨンは、18、9世紀に生糸で栄えた町だ。この時代は、その頃と同じように、生糸の生産加工及び、服飾の生産が、リヨン市の主な収入源だった。
エメの両親は、仕事の関係で別の旅客機に乗り、南米に行った。今は旅客機に詰める社員を除いて、二人切りだった。
カナミとエメの馴れ初めは、カナミが9歳のときだった。両親と共にクルーズ船に乗り、4カ月の旅行に行っている時だった。その頃、カナミはソフィアと知り合い、家や、人種、性別に囚われない、自由奔放な性格に憧れを感じ、自分もと思い、夜、部屋を抜け出して、デッキに出て星空を眺めようとしたのだ。が、デッキに上がる前に、ラッタルで蹴躓いてしまい、転げ落ちてしまった。幸い大きな怪我はなかったものの、足を挫いてしまい、どうしようかと思っている所、一人の少年が通り掛かり、カナミに気づいてくれた。「大丈夫ですか」と聞く彼にカナミは「足を挫いたの。デッキに上がりたくて。」と言った。すると「デッキに上がって、どうするのですか。」と彼はカナミに問うた。カナミは「星空を観たくて。」と答えた。と、さらに彼は問うて「ご両親は、知っておられるのでしょうか。」と訊いた。カナミは「いえ。一人で観たくて。部屋を抜け出したんです。」と答えると、彼は「わかりました。」と言って、カナミを背負って、デッキに上がって行って、星空を見せてくれた。その少年がエメだった。エメはこの時、17歳だった。デッキで星空を見て、30分程経った頃、「さて、そろそろ戻らないと。プリティレディ。君のご両親がきっと心配している。」とエメは言って、手を差し出して、「さぁ、歩けるかい。」と言った。カナミは「はい。」と言って、彼の手に自らの手を重ねた。
この旅行で二人は急激に仲良くなり、互いの両親も共に食事迄した。
カナミは、恋を知った。
初めは、カナミの父は、「カナミの許嫁は、自分が決める」と言っていたが、カナミはエメの助力もあり、父の意見を押し退けて、二人は晴れて許嫁となった。
目の前で食事をする自らの許嫁を見て、カナミは、ふと、訊いてみた。
「ねぇ、エメは、どうして、私を選んだの。」
彼は、こんなことを言った。
「そうだね。君の、自由な所だね。」
と。カナミは、彼に言った。
「私は自由ではありません。自由なのは、ソフィです。」
「確かに、ソフィア嬢は、自由奔放だ。だけど、君は、ソフィア嬢に影響を受けて、自由を得ようとした。僕が君の良いなと思う所は、自由を求めて、手を伸ばす事ができる所さ。僕には出来ない事だよ。」
彼は、そう言った。
「ソフィは、ずっと、私の憧れです。」
カナミは、彼にこう答えた。
これが、海。
命の源。
全ての生命は、この海から生まれた。
母なる海。
カルマは、生まれて初めて海を見た。
茫洋として、捕らえ処がなくて、何処か、吸い込まれそうで、怖かった。
一羽の鳥が居た。何て言う鳥だろう。
あれが、太陽。
月で見るのとは、全く違う。
月で見るよりも、ギラギラしていない。
暖かい。
これが、地球。
何て美しいんだろう。
ふと、一人の少女が、頭に浮かんだ。
ソフィア·ハーマイン。
美しい少女だった。
銀色の髪。太陽の瞳。白く透き通った肌。
カルマは、自分の両親の顔を覚えていなかった。
7歳迄スラム街で育った。毎日が暴力の日だった。人身売買で売られた仲間が何人も居た。毎日暴行されて、顔が真っ赤に腫れ上がった仲間。レイプされて、髪が真っ白になった女の子。生きるために、人を殺し、奪い、盗み、貪った。罪を犯す以外に生きる方法はなかった。
地獄だった。
暴力が全てを決めた。
文字通り何もかもだ。
力を示せ。さもなくば、死ね。
正に、生か死か。
人がそこらじゅうで死んでいた。
身も心も。
そんなある日、ユクス·ガガーリンという男がやって来て、カルマを引き取った。軍人に育てる為に。
ガガーリンに引き取られ、社会の最底辺から頂点へ来た。けれどそこでも、人は死んでいた。
金が全てだった。彼らブルジョア民は、富に執着した。
富めよ富め。さもなくば、死ね。
気持ちが悪かった。
食べ物は、こんなにも、腐る程あるのに。
何故、少しも分けてやらない。少しだけでも、分け与えれば、一体何人の人が救われたか。
今回の式典で見た、神人類社会も、人は死んでいた。
家柄。家格が、全てだ。
あの豪華絢爛は、どれ程の血で作られたのか。
スラム街も、ブルジョア民も、神人類も、同じ腐敗臭がした。
けれど、あの中で、たった一人、ソフィア·ハーマインという少女だけは、腐敗臭のしない、香しい、死んでいない人だった。
カルマは、海底都市の一つ、マリエラ市に向かった。マリエラ市は、日本近海にある海底都市だった。マリエラ市の直上には、海上都市のマルエタ市もある。両市は、海底地下深くに突き刺さった、コアを介して連結している。そのマリエラ市に、反地球連邦勢力アルカナグループの本拠があった。
アルカナグループの中心メンバーは、5人。アルカナグループの創始者、アルカナ·ハーマインの娘、ソフィア·ハーマインを始め、生物学者ルバード·ケッセル、理論物理学者ハルベルト·ウィンチ、物性物理学者ワン·レイイン、量子力学者ミッチェル·オブライエン。
その内、オブライエン博士と会うことが決まっていた。
時に西暦2282年は、まだ始まったばかりだった。
地月物語 @kumnomine
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