オンディーヌ
天池
オンディーヌ
黄緑色の風景は何もかもが美しく再生している知らぬ間の繁栄で、鋭く開けた条線は夏の持ち主の通り道みたいだった。少し先で別の大通りに接続し、人工的な輪郭を呑み込みながら左右に流れるその通りは街の端とも言えたし、真ん中とも言え、またどこにも属していないのだと言うことも出来た。木々の葉叢は水面の光のようにまばゆく、過ぎ去る車は他の音に打ち消されて聞こえはしないがその都度小さな残響を生じさせていた。それは嘘のような小さな残響だった。昨晩強く降った雨は大切な儀礼としての挨拶だったのだろう、くすんだ赤色の標識はこれ以上ない程鮮やかに照り輝いて見え、虹の裾を引いて去った雨の音色はあらゆる残響に真似られ、溶け込んでいた。車道の信号が赤になると、光が乱反射して、消えかかった横断歩道の白線に沢山の息が吹きかかる。咲羅(さら)がその熱気の中に片足で踏み込み、パン屋の白い袋を提げながらそれを渡ったとき、彼女が歩いて来た道を挟んで向こう側の横断歩道を雨のような日傘をした人が反対に歩き去った。小さなオフィスが沢山入ったビルの窓は全て閉ざされている。建物と白線と道路の連なりは細く変わらず轟々と、先へ伸びていた。視界はまた、何人かの人と滑らかに、何でもないように交差する。白線に規定されたような私達の歩幅と歩行を、暑さが少しだけ先回りしていく。後ろの方で木々の音と車の音が相変わらず昼の楽を奏でていた。咲羅はその気になればいつでも信号を盗むことが出来たし、それを咎める者など誰もいはしないのだ、と考えた。罪の雫は雨に洗い流された。街と街と街、街と街と街とわたし。沢山のドアと沢山の広いガラス、道路と道路との直角の交わりが、電線と光の条線との透き織りが、遠く釣り上げるような蝉の声の混ざりが、咲羅を網の目に解き放っていた。
焦げ茶色の柵の手前に矢車菊が並んで生えている。路上の木の生い茂る葉が昨夜の雨を幾分和らげてくれたに違いない。その木の一つには一匹の蝉が止まり、僅かに全身を震わせながら、木にしがみついたままで音を発している。公園の家のような形をした遊具の中には女の子が一人、透明なプラスチックのカップにビー玉と小枝をふんだんに詰め込んでカウンターに出し、もう一人の女の子に見せている。公園の先の道を郵便局の車が横切る。摺り減って来たスニーカーが発生させる筈の自分の足音は聞こえない。
テーブルに袋を置いてその上に紙でくるまれたパンを出し、窓に背を向け、壁を向いて食べる。運び方が悪かったのか、生地は熱せられていたが、パサパサした感触と練り込まれた香りは保たれていた。耳の奥で呼吸音が反響する。少しだけ神経を集中させれば、頭の中や心臓で静かに脈打つ血流の音も感じられる。パン・オ・ショコラのチョコレートは柔らかくなっていた。ビニール袋を裏返すようにゴミをまとめ、その後で口を拭いてから、咲羅はテーブルの端に置いてある箱を手に取った。
祖父から送られて来たラベンダーの束は、匂いは滅多に消えないから好きなように使ったら良いということだが、香水を作るのは難しそうだし、今年も匂い袋のような物体にしてクローゼットに掛けておくことにしよう。そう決めて箱を開くと、薄い紙の内側に紫色の花穂がふんだんにぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。香水作りにも憧れはあるが、その為にはオイルやアルコールを用意して一人でそれを扱う必要があって、そう考えるだけで、咲羅にはそれが自然発火するのではないかという馴染みだが得体のしれない恐怖が襲って来るのだった。火はどうしても苦手だった。だからご飯はこうしてパンや弁当を買って来るか、外で済ますか、或いは炊飯器からよそった白米に何かかけたり、おかずやサラダと一緒に食べるか、といったところだった。
椅子に座ったままラベンダーの豪華な品を見詰めていた。顔を埋めるまではいかない。輪ゴムでとめられた束の一つを取り、そっと持ち上げた。目と目の距離にラベンダーが倒れ込む。思わず咲羅も倒れ落ちてしまいそうだった……束を持ち上げたときに丸みのある小さな花が零れ出し、その幾つかが床に弾けた。ビー玉のような紫だった。時は一瞬の淀みで、窓の外はひもすがら舞台掃除である。あらゆる高さに蝉が鳴き続け、煌びやかな花々は熱風に伸び、木陰と木漏れ日の打楽器、間の抜けたタイヤの停車音。全ての球はただ光を反射している――放棄するとそれ等だけで勝手にいつまでも輝き渡りそう。しかし部屋中に広がっていくようなラベンダーの強い香りと窓越しに聞こえる四車線道路の音とが、放棄など出来はしないのだと教えていた。咲羅は椅子を引いてそっと体を折り曲げ、零れた花を摘んだ。全ての花を箱に戻したとき、なだらかで力強い渦を巻きながら舞い上がる風の気配を感じたが、蓋を閉じると途端に静まり返ってしまった。走る野兎が、ある瞬間に進むべき方向を見失ってしまったときの静寂……やがて川は滝になる。連続的に和している蝉の声が大きくなったり遠ざかっていったりする。ぐにゃり、と机が溶けるのは滅しかけのパン・オ・ショコラを食べたからで、その実滑らかな乳白色の天板は時の下層でひんやりと凍りついており、その上には深い小さな箱が一つ。
部屋はいつでも冷涼に保たれている。何本もの細い道が殆ど直角にぶつかってそのまま合流しているが、その割に広くない通りに面したアパートの入口は少し落ち込んでいて、その両脇に大きな甕に植えられた二本のネムノキがある。甕が大きいから辛うじて危険な程ではないが、枝は四方八方に伸びていて随分異様である。その枝は垂れかかる無数の羽状複葉に覆われ、それぞれの頂に今ピンク色の可憐な花が開いている。咲羅はこの異様な入口が好きだった。伸びた枝の数本が互いに呼び寄せ合ってアーチ然としているところをくぐると青白のタイルが均質な光の下に圧し潰されて広がっている。右手にささやかな管理人室があり、正面の左のところにエレベーターが一基。エレベーターの前まで行けばもう振り返っても通りは視界に入らず、ネムノキの巨大な葉陰に入ったようである。
こうして咲羅は木に登り、パンを食べ、壁を眺める。昼間、こうして雑多な音が涼しい世界の船に乗って漂って来るこのときこそ、咲羅は巨大な夢に包み込まれたような感覚を覚え、一種の忘我の心地に陥る。森の寝息は葦笛の気ままな吹鳴で、虹色の夢に全てが含み込まれていく――目を閉じると部屋にラベンダーが舞う。……ここでだけ許される永遠の命……。カーテンはもうずっと開けていない。この平坦な床が不思議だ、平坦な冷たいテーブルが不思議だ。慈しむように箱を視線で撫でて、咲羅はクローゼットへ向かった。
その端で真冬用のコートと壁に挟まれている白い布袋をしゅるりと取り外し、鼻に近付けた。もう匂いは全然感じないが、もしかしたらそれは届いたばかりの新鮮な花冠を強烈に匂った直後だったからなのかもしれない。……届いたばかり。毎日目的もないみたいにあちこちへ駆け抜けていく車や白線の番人のような人々が、ある日突然わたしに贈り物を届けて来るのだから不思議なことだ。同じ種類の袋は既に用意してあり、それ等をテーブルの上に並べて置く。白さの度合いは変わらない。野花のラベンダーは、ただ芳香だけで飛び立つのであり、染み出して来る必要はないのである。匂いだけの違いだ。二つの袋の隙間を、永遠の芳香が流れゆく。多くの花弁を連れ、静かな水が流れる。咲羅は一つ一つ摘み取って、新しい袋に詰め込んでいく。こうして二つの夏が並ぶ。顔を埋めるまではいかない。旅人が駆けゆく。小川のほとりを。
強い香りを嗅ぎ過ぎたせいで、清らかな袋を前に置いたまま、頭がくらくらして来た。押し寄せる景色の向こうに咲羅は熱気振り撒く太陽を見る。地面が沈み込んでいき、わき目もふらず深くなっていって、その上に世界のあらゆる水が膨大に湛えられているのだなどとは想像も出来ない、濃く鮮やかな青色の水面――静かに打ち寄せる断続的な予兆はやがて透き通る影を増し、雲の真下に岩を捕らえて、浜の膝に自らを分解しながら戻っていく。
咲羅はただ布張りの椅子の背に背中の一部を預けながら、三温糖のような浜辺を思い出していた。視線の先の海は果てしなく、冷たい広がりが、人魚姫が大理石の像を抱きすくめるように、突出した岩を包み込んでは離れていく。その浜もかつては水底だったのである。松林の中に砂浜から聳える岩々の表面には、波の模様が陽炎のように残されていた。咲羅はもう身動きを取ることが出来ない。わき目もふらず散らばっていく香りと、打ち寄せる音の大きな衝突霧散――細い茎を切られた優美なラベンダーのほんの幽かな手触りが袋の中に詰め込まれている。ごく僅かな、ヴェールの裁ち目のような線が水面を走る内に撚り集まって波になる。光沢ある青色の水が額からどくどくと流れ込んで来る心地がした。
レストランでの仕事は、店の短縮営業の為に大きく勤務時間を変更することを余儀なくされた。他の店員との兼ね合いもあり、結果的には出勤日が週一日分減ることになってもう一年以上経つ。このような状況でも変わらず迎え入れてくれる、家庭教師としての訪問先である二件の家の存在はありがたかった。舞耶ちゃんのところは月曜日の夕方と土曜日の午前、沙希子ちゃんのところは水曜日の夕方と日曜の午後に行くことになっているので、それまで火、木、金、土、日のディナーの時間に設定していた出勤は月(ランチ)、火(ディナー)、金(ディナー)、日(ランチ(早番))という歪な予定表に移し替えられた。
舞耶ちゃんの家は駅に近く、去年は土曜日の授業が終わると駅前のカフェで昼食を済ませつつ作業を片付けたり読書をしたりして、そのまま電車でレストランに向かっていたのだが、今では向かうところもないので、歩いて帰ることが殆どである。途中商店街を抜けるが、咲羅が昼食を買ったパン屋はここにある。しかしそこから殆ど一直線の道をひたすら歩き、途中で大きな通りを二度横断することになるので、炎天下にパンを運ぶには少し長過ぎる道程だったのだろう。
一応、隣町から歩いて来たことになる。詳しいことは分からないけれど、最寄りの大きな駅が異なっているからそうなのだろう。疲労は当然ある。椅子に腰掛けてから総菜パンとパン・オ・ショコラを食べ、ラベンダーを袋詰めし、それを最後の方になって放棄しているわたし。足裏を床に密着させて垂直になったふくらはぎが少しぴりぴりと痛む。だがそれが何だというのだろう。
「先生は、もうゴロゴロしたいーっ、ってならないの?」
授業の途中で、珍しく集中力が切れ気味だった舞耶ちゃんが尋ねた。学校で休み時間を目一杯使って遊んだり、放課後に公園で気ままに過ごすことが何よりの楽しみだという彼女は、教室では絶対に眠くならないのだそうだ。「つまんなくなったらね、お手紙書いて近くの友達に渡すの」「へえ、どんなお手紙書くの?」「なぞなぞとかお名前うらないとか、あとは先生の似顔絵……」色んなこと知ってるんだね、と言うと、だってみんないっぱい面白いこと聞いて来るんだもん、とマスク越しに笑いながら答えたが、直後に大きなあくびが出てしまった。確かに、月曜日の授業では溌溂としてエネルギーの溢れんばかりである舞耶ちゃんは、土曜日になるとちょっとだけ元気が損なわれるようだ。夏休みに入ったばかりだから今日はなおさらそうなのだろう。「あ、別に先生の授業がつまんないとかってことじゃなくてね」と閉じかけの口を動かして行き所のない不満を振り払うようにフォローされると、咲羅もマスクの中の口が思わず綻ぶ。
「もうやだー」
舞耶ちゃんは一度だけそう零して、何かを切り替えたようにまた鉛筆を取った。
期せずして週一回の完全な休日が手に入って以来、木曜日には外出をしないことにしている。二度の食事は家の中にあるもの(結局は白米に行き着くことが多い)で済ませ、ベッドの上で長い時間を過ごす。けれど他の日は、あまり横になりたいと思うこともなかった。ふくらはぎの肉は太い頑丈な骨と密に繋がっていて、その骨はまた他の骨に支えられ、互いに連携し合って、咲羅と同じ身長の一つの姿をなしている。椅子の座面に安置された背骨を想像すると腰から上がぞわぞわと奇妙な感覚に晒された。今、咲羅は真白な骨格の隙間という隙間にラベンダーを挿し込まれたラベンダー人間を夢想し、少し笑う。反り曲がった背骨によく似た松の木の枝に坐したラベンダー人間は、やはり紺青の海の広がりを遠く望み、勝手に景色の一部になっている。その視線の先に何かがあるとするなら、それは愛、愛でしかなかった。
静かに花を閉じたスイレンが白昼の眠りに浮かび、清流に身を揺すられるとき、上流では逞しい脚の何ものかが時を牽引し続けている。毛深くはない獣の脚、水底の砂利をずしりと捉える蹄。開けた丘の上で一輪のヒマワリがそれを見詰めている。やがて再び雨が降り始め、スイレンは細い柄を伸ばして水面にまた揺れ、獣の脚は熱せられた皮膚を冷やしながら歩みを止めず、ラベンダー人間は霞に紛れ、ヒマワリはびしょ濡れになってぼやけた眼で川の中の姿を見詰めていた。
ひんやりとした額に触れる室内の空気は滑らか。新しい袋の締緒を掴み、椅子を引きながら立ち上がる。何着もの服を抱きかかえるようにして、クローゼットの奥に、なるべく潰されないようにそれを吊るす。幾枚もの分身の向こうに白い袋を掛け終えて、咲羅はふっと息を吐いた。テーブルの古い袋を静かにゴミ箱へ投じると、球体を渦巻く短い風の反響音が消え入るように聞こえた。雨が降っている。ミニチュアのような二本のネムノキは全ての葉をしならせながらそれを受け止めてじっとしている。波は大理石の彫像を胸に掻き抱く。辺り一面に水が跳ねる。松の木はすっかり洗われて、腰を曲げたまま、どこへも動かぬまま、潮風の発散する透き目に立っている。
雨が降れば降る程に遠くなる海の果て。手に触れる静けさが流されて、また押し寄せて来る。枝の透き目を風が突き抜け、岩肌の波の模様に沿って左右に分かれて消えていく。間断なく水は跳ねる。跳ねる毎に生まれる雫は水面に転がり落ちていく。太陽の方に獣の脚が歩く。それは濡れながら、少しも淀まずに。
じきに雨は止み、まだ高い位置から太陽の放散する熱が街を網の目に包み込む。その網の目を咲羅は泳いでいくことが出来る。四車線道路に午後の光が溢れ、横切る車は幾度となくその光に下方から包み込まれる。咲羅は殆ど足音の出ない靴で、歩道を西方へ歩いて行く。スイレンの閉じた蕾の内側に降りていく光。水面下に沈む光。湿気った熱の無限の層の内を咲羅の一つの姿が進み、そのとき海上の空気は壮麗に開け、黎明の秘密を奥深くに隠しながら、打ち寄せては砕けていた。咲羅は帽子屋に入った。風景の変化模様を眺める骸骨が、大きな麦わら帽子を被ったら可愛いだろうと思ったのだ。網の目にひょいとよじ登るようにして、咲羅は帽子を被った。深々と、直進する道路に、生身の草木が匂う透き織りを見る。立ち並ぶ建物を覆い、真っ青な空が高く張り広げられている。裏はなく、透き目だけがある。遮蔽物はなく、帽子の影だけがある。ワンピースの下に着たトップスの白い腕に日差しが当たって反射する。腕を後ろに振る作業がそれを振り払う動作なのだとしたら前に戻す作業はそれを再び身に当てる動作で、或いはその真逆なのだった。腕を振り足を出し、疎らな街路樹の横を歩く。幾人かとすれ違い、麦わら帽子を被った咲羅はネムノキのアーチの前に辿り着いた。
帽子屋のショーウィンドウの前の花壇には、文字摺草が沢山植えられていた。店先には藍色の庇がかかっており、その細い影の中に花壇や入り口があった。文字摺草の原を出てからネムノキの葉陰に入るまで、大体二十分かかった。庇の外へ片足で踏み出して、晴れた道路をまっすぐに歩いた。ピンク色の小花の穏やかなそよぎはずっと上の方。だが花やぐ雨後の街並みは溯上しながら溢れ出すようにどこまでも伸びている。水色のマスクを着けた店主のおばあさんはもう奥に引っ込んでしまっただろう。それは束の間の彩りのようだった。精巧につくられた愛慕の花壇だった。
マスクを外して手を洗った咲羅は、テーブルの上に置いた帽子をもう一度取り上げて裏側を顔に近付けた。ツバがしっかりと固められているので左右から光が入り込むのに加え、全体からも弱々しく部屋の明かりが通り抜けて来ている。ほんの少しの変形も難しい。僅かながらに優しい暗さはこの上なく小さな世界で、そのまま数秒が流れたが、藁の匂いは殆どしない。瞬きをして静かにそれを顔から外し、本棚の上に置いた。蝉の声がひとしお強く聞こえていた。掬い上げるものとて何もなく、全てが透き目を通って流れていくのだった。半人半獣の運搬者は後姿だけをしか見せてくれない。カーテンも帽子も動かない。私の脚……骨……。
咲羅は網の目。絶えない匂い。水底に沈めた炊飯器でご飯を炊く。
床に座って、帽子の形を眺めながら咲羅は留まる。まだ新品の麦わらは壁の白によく映える。揺蕩いもせず、上空に浮かんでいる。と思えば、輝き渡る川面に小舟が過ぎる……その調和……息が詰まるような広大さ。半ば折り曲げながら投げ出していた両足を引き寄せて抱きしめる。鏡写しの川べりに尾鰭の優雅な人魚が浮き出て、そっとわたしを連れていく。こんな姿勢なら、まだ帽子を被っておくべきだった。すると冷たい床の下、わたしは四肢の骨を伸ばしながら立ち去って、後に残るのは麦わら帽一つ。文字摺草の花壇の上で、小さな薄ピンクの妖精達が飛び回る。だがネムの花の山のように聳える様を見ると、私もまた微小な姿になっているのだろう。エレベーターは高速で幹を下り、根の横を掠め、更に土中を進んでいく。わたしは少しも動かずに、どんどん下の方へ……もっと……だがもう駄目、涼しいけれどここはそれだけ、網のほつれ目には何も無い、麦わら帽子はとんでもなく巨大だ。そのとき炊飯器のチャイムが鳴って、咲羅は一筋の光明に吸い込まれるようにして顔を上げた。五階の床に座っていた。巨大な条線が何もかもを貫通していた。
条線は巨大だ。咲羅は再びその中にいる。麦わら帽子に愛を隠して、魚を買いに行く。と言っても、調理済みの煮魚を。
陽は大分傾いている。横断歩道で信号を待っていると、その向こうから湧き出るような巨大な雲が、少しずつ拡大しながら帯状に道路を横切り、遥か上の方で重厚に固まり合っていた。根元の部分は赤みがかったオレンジ色に染まり、より鈍重な部分はややピンク色を帯びている。だが空はまだ突き抜けるような水色だ。
乳白色の机にカレイの煮つけと茶碗と冷製スープを並べ、黙々と食べる。真白な分厚いテーブルクロスを引いた円形テーブルに一人向き合い、器用に椅子に腰掛けた人魚が、しばし食事に参加して、ふっと消える。すると人魚の座ったウッドチェアだけが光の下に残される。咲羅はスープを一口啜る。土曜日のディナーは混む。この時間だと、間違いなくレストランは満席だろう。紫色のカーテンが格子状に桟のある窓の左右に細く纏められ、角のないホールを取り囲む。壁に取り付けられたランプと幾つかのシャンデリアで濃紺の絨毯が照らされ、中央部に浮かぶ丸いテーブル同士の間隔は一様である。窓から入る光が段々少なくなっていって、それに伴いランプの明かりが煌々と力を強める。それは連日行われる、人間の祝祭の場である。
横断歩道を渡り、少し涼しくなった街をスーパーに向けて歩く。形として被っている麦わら帽子は、骨のように固いが、骨ではなく、そうであるが故、一つの隠匿者である。咲羅は旅人になったような気分がした。スーパーで買い物をしているときも、何かを探す、或いは必要なものだけを手に取る、全く別の生活者の手つきを想像したりした。そうして買って帰ったのは、咲羅の好物だった。
甘いカレイを頬張る程に、カーテンの開かれた窓で取り囲まれたホールに人の姿が増す。銀色の覆いを被せられた料理がめいめいの卓に運ばれる。わたしは一番端の円形テーブルの外側の椅子の位置から、涼しい祝祭を眺めつつ、人魚達の料理を食べる。真向かいに現れ、目が合いざまに泳ぎ去る人魚。人魚の料理は種類が少なく、だから好物も似通って来るのだろう。なかでもカレイは上等品に違いない。
爛々と輝くランプやシャンデリアの灯りが、上端を円弧にした細長い大窓を形成する幾枚ものガラス板にぶつかって鼓動を打つように広がり、紫色の透き目から豊満なラベンダーの香りが溢れ出す。咲羅は自分の斜め後ろのところにツルツルした表面の麦わら帽がぽっかりと置かれていることをどこかに思い出しながら、明日私はまた沙希子ちゃんにしょうもない嘘を吐くのだな、と視界の上方にぼんやり思い、好物を口に運んだ。
乳白色の天板はいつになくしっかりとしている。両手を広げれば難なくその内に収まるが、箸で煮魚に切れ込みを入れるにはやや広い。入り込む匂いや空気と、跳ね返って咲羅の顔に差し込んで来る鋭さが混ざり合っている。続きの見えない水盤は人には教えられない泉。熱いご飯を口に入れながら、箱の底面から反対側の机の端まで、視界の内で幽かに呼吸をするみたいに視点を滑らせる。岸辺を少し眺めて、くるりと向きを変え、食器の向こうで白い暗闇に沈潜していく。
田んぼを超えた松林、街の端、陽の落ちた暗い砂浜に、穏やかな波が打ち寄せる。
帽子を被って、両肩から知らぬ間に白く大きな翼を生やし、今砂浜を抜けて、ラベンダー人間が強く手を繋いで飛び立った。それはもう後姿になった、その星空を風が一回りして、網の下に帯をなして花弁と匂いが零れる。その広がり、それだけを一瞬の内に頭の中に取り込んで、同時にご飯を食べ終わり、波音が鳴って、夜の始まりを知った。咲羅は乳白色の長方形の上でゆっくりと呼吸をした。そして食器を脇にどけ、樹上に夜の静けさを見渡しながら、少しだけ幸せな想いに浸った。
オンディーヌ 天池 @say_ware_michael
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