【論考】勉強って忘れるのに何のためにするのかという問いへの解答と、実践的思考フレームのマニュアル。

 2023年6月18日(日)。13時04分。


 こんにちは。井上和音です。


 朝は8時過ぎに起きた。だから眠気はあまりない。だからといって勉強も特にはしていない。


 ぼーっと天井を見たりごろごろしたりして過ごしていた。


 「なんで自分は英語を話せないのだろう」とかを考えていた。


 ツイッターでも見てみましょうか。


☆☆☆

 「単語は覚えていないけれど、フランス語でチェスと失敗は同じ単語ということだけは覚えている。言語理解のIQだけが高くてワーキングメモリーのIQが極端に低い人間の記憶のあるあるだと思われる。」


 「なんで英語が読めないのですか

 →英語をたまにしか読んでないからだ


 じゃあ英語を常に読むためにはどうすればいいのですか

 →英語を使って頭の中で思考をすることだ


 英語を使って思考が出来ないのですが

 →英語の雰囲気と単語を知らないからだ。文法ではなく雰囲気と単語を増やし続けろ」


 「思考の方法を学ぶべき対象のフレームワークで思考するようにすれば学ぶことは実は簡単になるのか。


  分かっちゃいるけれど出来ないよね」

☆☆☆


 といった感じで。


 今日は眠気が無いから思い付いたのか、ようやく勉強というか学ぶ方法とかそういうのが分かったような気がする。


 しかし、ワーキングメモリーが低かったり、とにかく記憶力が悪いために「勉強するための思考を思考する方法」を簡単に忘れてしまうために、今日は思い付いた時にさっさと書こうと思って昼間から書くことにしている。


 note はそのうちあげるから。


 勉強の方法だ。なぜ勉強してもすぐに忘れてしまうのか。なぜ興味が出てきて買ったはずの本なのに勉強が続かないのか。そもそもがこの二文にある通り、「勉強しても忘れてしまうのだから勉強しても無駄じゃない」と毎回思い至り、勉強に挫折する。


 では勉強したことを忘れないようにすれば良いんじゃないのと考えていたらツイートのような考えが思い浮かんだ。


 「思考の方法を学ぶべき対象のフレームワークで思考するようにすれば学ぶことは実は簡単になるのか。」


 具体例をあげれば英語とか。なんで英語が話せないのかと言ったら、英語の表現を忘れてしまうからだ。誰でもそうだと思う。では英語を常に忘れないためにはどうすればいいのか。簡単だ。英語で思考すればいい。後はツイートの通りだ。


 私が日本語を話せているような気がするのは、日本語で思考しているからだ。そしてその日本語は部屋を見渡せば数限りなく存在する。部屋にある日本語を見るたびに日本語を思い出す。そしてまた日本語で思考を始める。


 言葉が無ければ人間は思考が出来ないとか声高々に言う人もいるが、あれは嘘だ。


 例えば、幼児に「万引きは駄目ですよ」と言えば、それから先は「万引きは駄目なんだ」という禁止事項を思考し、万引きをするという選択を行わなくなる。この際に、「万引き」「は」「駄目」「です」「よ」といちいち日本語を分解することなどなく「万引き」「行動に移してはいけないもの」とセットで脳内に記録される。そこにあるのは言語ではなく論理式だけだ。もっと言えば「万引き」「否(×でもなんでもよくてそこに言語は必要ない。もしくは記号すらも必要ない)」と思考の判断が出来るようになる。


 話がずれたが、勉強の話だ。どうやって勉強のモチベーションを保てるか。思考のフレームワークに新しい勉強の体系を結び付けて新しい思考の方法で思考していくしか方法は無いと思われる。


 例えば英語で You are not the fool, no. You're a beautiful one. という英文を頭に思い浮かべたとして、語呂が良いなあと感じるかどうか。では、この他にも語呂が良い文章を思い浮かべるにはどうしたらいいのかを英語の言葉の中から考える。その際に英語を用いて考える。 This is crucially yes. But, that is more crucially...What is most crucially yes? For example, ... と。


 英語力が低くて申し訳ないが英語を用いて思考をすれば英語は出来るようになる。単語は覚えていないが、単語を覚えて思考していけば必ず英語は出来るようになる。


 というよりも、人間が勉強する上では思考で思考のフレームワークを新たに追加すること以外で学ぶ意味は見つからない。忘れてしまう。母国語を話せるように記憶に定着させようとする。しかしながら、思考するために必要だから母国語を学ぼうとするわけでもない。ただ、周囲に日本語が所狭しと並べられているからそのうち習得していくだけで、その記号としての日本語に自分の論理が乗っかった時に言語は思考の材料として扱われる。言語が無ければ思考が出来ないは逆だ。ただたまたま思考のフレームワークとして母国語があるに過ぎない。


 その母国語のようにして、学ぶ体系を掴み取っていけばいい。


 周囲の環境が脳のフレームワークに影響を与える例は自分の中にしかないが紹介します。例えば実家のトイレには世界地図が貼ってあって、トイレに行くだびに世界地図を目にするのでだいたいの国の位置などは特に努力をしなくても覚えています。それを覚えているからこそ、その世界地図の国の構図が思考するためのフレームワークになっていて、また記憶に定着します。ただ、その世界地図は少し古いためにコソボ共和国などは描いてありません。だからコソボ共和国とはどこだ? と記憶に留まっていないだけではなくて思考する際のフレームワークの中にも入っていません。コソボ共和国はヨーロッパにあるバルカン紛争の末に出来た国、ぐらいの知識しかありません。


 書きながら忘れてきました。とにかく、歴史、数学、言語などを学ぶ際には学んだ後に思考のフレームワークとして使い続けることが重要だと、忘れてしまった自分にも、これから先忘れていく自分にも思い出して貰いたく書いて残しておきました。


 ただし。この思考をするための思考のフレームワークは気持ち悪さとの戦いになります。例をあげると、少し昔のマクドナルドの包装紙には多言語でアラビア語、中国語、英語、韓国語、ドイツ語、日本語……とありとあらゆる言語がプリントされていました。それを見てとても気持ちが悪くなった幼少期を思い出します。マクドナルドとはどこの言語で、どこの国に本拠地を置きながらファストフードを作っているのか。どこの国でもない着地点の無い研究所かどこかで作られた科学的な少し気持ちの悪い食べ物なのではないか。そんな風にあらゆる言語が書いてあって、自分の思考のフレームワークの中に存在しない言語が書いてあるとどのように受け止めていいのか分からず。また、子どもの判断として、自分の知り得ない言語でパッケージが描かれている食べ物は安心して食べられるものではないという拒否感が生まれてしまっていました。例えば、アラビア語で書かれたクッキーを親戚がお土産で持って来たり、友人がハングルで書かれた韓国のりをお土産で持って来たり。どうしても自分の思考のフレームワークの外側にあるものに対して安心感を持つことが出来ませんでした。


 と、具体例を淡々と上げましたが。思考をするための思考のフレームワークを複数持つということは、今まで考慮なしにフレームワークで信頼していた日本語と同列に他の言語や、数学を同じものとして扱わなくてはいけなくなります。するとどうなるかと言いますと、周囲にある日本語が母国語には見えなくなってしまいます。例えば、ROASSO と書いてあったら「ロアッソ」と日本語やローマ字が母国語ならばそう読むでしょう。ところが、フランス語のような思考のフレームワークを持ってしまうと ROASSO が「ルワッソン」のように読んでしまいます。本当にフランス語で読んだらそう発音するかは置いておいて。ROASSO=「ロアッソ」というローマ字の思考のフレームワークを破壊しなければいけなくなります。周囲の漢字も実は読めていない漢字などではただのおかしな記号に見えてしまいます。あまりに思考のフレームワークを持ち過ぎると、幹となる思考のフレームワークの重要性が薄くなり、そもそもの論理の引き出しも幹から瞬発的に出されていたものがあらゆる思考のフレームワークから持ち出されて検索されることになります。すると、会話をしながら瞬間的に対応すべき言葉が出なくなることもあり得ます。


 このように、母国語のフレームワークすらぐらぐらと揺れる可能性があるので、新たに追加しようとする思考のフレームワークもぐらんぐらんと揺れていくことは間違いありません。現実世界の中で新しい思考のフレームワークが通用しない場面に出くわすと「やっぱり勉強って意味が無いのかな」と自信を失うことも多々あります。しかし、勉強してそれが役に立つまで記憶に定着させるには思考のフレームワークとして、勉強した内容に自分の論理を乗せる練習をしていかなければいけません。実は日本語も、自分の知らない分野の単語が多く連発させられる環境の中にいると、自分は日本語が使えないと感じる瞬間は多くあると思います。そのように、思考のフレームワークは深化させていくと枚挙にいとまが無いと言えるほど果ての無いソフトウェアとなってしまうのですが、その新しいソフトウェアを身に付けるためには、新たに学んだ勉強を思考のフレームワークとして敷いて使っていくことでしか学びを進める方法は無いのです。


 勉強の意味の一歩目を踏み出しましょう。

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哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき 井上和音@統合失調症・発達障害ブロガー @inouekazune

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