第7話
さて、その夜のこと。
道満は久々に深い眠りの中にいた。
日中の桔梗の修行の疲れが出たのだろうか、彼は深い闇の中に横たわっていた。
闇はいつも道満に優しい。深い闇は変わらず彼を包み込んでくれる。
そんな漆黒の闇の中からぬうっと真っ白い何かが出て来た。
手だ、細く白い女の手。
一体、誰の———?
道満が本能でそう思うより早く、手はまるで蛇のようにしなると道満の喉元に食いついた。
「———!!」
女のものとは思えない力で、白い手はギリギリと道満の首を締め上げる。
息を絞りとるように首元を締め上げられて息をすることも出来ず、道満は溺れる人間のようにもがいた。
その時、ぽたり、と何かが道満の頬に触れて、彼はハッとした。
泣いている———?
何故、そんなことを口走ってしまったのか、道満には分からない。
溺れる人間が助けを求めるように宙に手を伸ばすと、道満は言った。
「……………」
「今日は一段と機嫌が悪くてらっしゃいますね。先生」
ぶすっとした眠そうな顔で、朝餉に手も伸ばさず、不機嫌そうに両手を組んだ道満に困ったように桔梗が言った。
「お前が生霊などと、妙なことを言うからですよ!!」
ぎろりと鋭い眼差しで桔梗を睨みつける道満。
「え?出たんですか?生霊?」
「喜ぶんじゃありません!!」
わくわくと身を乗り出す桔梗を叱りつけると、道満は乱暴に朝餉の味噌汁に手を伸ばした。
(それにしても何だったのでしょう……あの白い手……)
今も首元に女の白い手が巻き付いているような気がして、道満は右手で喉元をさすった。
「先生、味噌汁だけではなく白米も食べて……」
言いかけた桔梗の顔が、それに気付いてさーっと青くなった。
「先生」
「何です?」
「どうしたんですか……その……首の……」
続く言葉は口にできなかったらしい、真っ青な顔面の桔梗のぱくぱくと動く口を道満は初めは訝しげに見ていたが、事態に気付くとばっと鏡の前に走った。
鏡の中の道満の首元にはくっきりと、女の小さな手の跡がついていたのである。
道満と桔梗の悲鳴が辺りに響き渡ったのは言うまでもない。
少女の白い手がくるくると、さいころをふる。
双六で遊んでいるのだろうか――少女はさいころをふりながら、何やら数え歌をうたっている。
――まるたけえびすにおしおいけ
あねさんろっかくたこにしき、
しあやぶったかまつまんごじょう、
せったちゃらちゃらうおのたな
ろくじょう、ひちじょうとおりすぎ
はちじょうこえればとうじみち――
そこまでうたうと、ころころと双六の上を転がっていたさいころを、少女は手で強く握りしめる。にっこりと少女の赤い唇が笑った。
――九条大路でとどめさす。
「……右京」
「はい」
少女の呼ぶ声に御簾ごしに男の声が返事をした。
「清明様を連れて帰って来なさい。そのためには何をしても構わないわ」
男は少女の声に頷くとそこから姿を消した。
———それからのことである、道満の周りで奇妙な出来事が起こり始めたのは。
ある時は桔梗の修行のため入った山中で大きな岩が転げ落ちてきたり、またある時は道満の歩いていた山道の傍らが崩れて崖下に落ちそうになったり———
「先生、やはり私、生霊のせいだと思うのです!!」
桔梗がそう言ったのは、とある日の昼餉を済ませたあとのこと。
「何がですか?」
「最近の先生の身の回りに起こっている凶事ですよ!!———やはりあの桃の花の文が原因ではないかと!!」
息も荒く言い張る桔梗に道満は深くため息をついた。
「またですか」
「ええ!!あれはきっと先生に想いを寄せる女性の文だったんです!!」
桔梗いわく。あの日、道満が破った文は東宮の文ではなく、道満に想いを寄せる女が書いた文だった。それを道満が破ったことで女の恨みを買い、女の生霊が道満に取り付いている、というのが彼の持論である。
「……とは言いましてもねぇ……こうは見えても私も僧侶。女とは縁遠く、文を貰う心辺りは全くないのですが……」
一方の道満は一時、浮かれたものの、冷静になれば文を貰うあてもなく、皆目見当はつかない。
「そんなだからです!!先生がそんなだから、『花文の君』は悲恋を嘆いて、滝に身を投げてしまったのです!!」
……どうやら、桔梗の中で道満に想いを寄せる女性には「花文の君」という名前がついているらしい。しかもいつの間にか、滝に身を投げている。
はあぁぁ~と深いため息を道満はついた。
「お前は絵巻の読みすぎです」
「でも先生……!!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐ桔梗を横目に、道満は考えを巡らせた。道満とて最近身の回りで起こる凶事に無関心なわけではない。ただ、桔梗のいうように自分に恋する女の生霊の仕業だとは到底考えられなかった。桔梗の読んでいた源氏なんとかとやらの主人公のように女を泣かせたことはないからである。
(大体、女を泣かせていたのは清明殿の方ですが)
清明そっくりの顔で自分をぎゃーぎゃーとまくしたてる桔梗を横目で見て、道満は思った。整った顔立ち。帝の後ろだてもあり、若くして陰陽寮の司ともなった清明を放っておく女がいるわけもなく。
(そういえば、居ましたなァ。一尺はあろうかという文を清明に送って来た女が)
とそこまで考えて道満は何か奇妙な胸騒ぎを覚えた。
(……そういえば、あの女、その後はどうなったのだろう)
道満が思い出したのは「石女の君」と呼ばれた女性のことである。
清明に想いを寄せて、長い手紙を書いた女性だが、清明に「あなたでは私の子は産めぬから」と一言書いた文を貰ったことで「石女の君」などと呼ばれ、揶揄された。
———清明が女性であると分かった今ならば、女性である「石女の君」が清明の子を産めるわけがない、というのは当然なのだが。
しかし、もしそんなことなど知る由もない女性があんな文を貰ったらどう思うものなのか。
(ふむ。少し調べますか)
「……って!!聞いておられますか!?先生!?」
ずいっと顔を覗き込んでくる桔梗に道満は頷いた。
「はい、わかりました。」
「全く先生ときたら、私の話を聞いて……ってえ!?」
「お前の言いたいことはわかりました。が、腑に落ちません。ここはやはり私のやり方で元凶を探ってみるべきかと」
はっきりとした口調でいう道満に桔梗はぽかんとした。
「先生のやり方……というと……?」
桔梗の言葉に道満は不敵な笑みを浮かべた。
「私を誰だと思っているのです、桔梗。かの安倍晴明と並び称された陰陽師、蘆屋道満ですよ?———この凶事、占ってしんぜよう」
晴明の帰還 音澄 奏 @otozumi
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