第二章

第6話

「道満殿!!」

自分を呼び止めた声に振り向くと、そこには泣き出しそうな瞳をした青年がいた。――いや、泣き出しそうな、というのは自分の欲目かもしれない。

「おやぁ、これは晴明殿。どうされました?」

煮えくりかえる腹のうちも見せず、涼やかな声で答えると、晴明は俯いたまま絞り出すような声で言った。

「帝の御所に……清涼殿に呪符があったと……!道満殿の筆であったというのは……本当ですか!?」

「おやおや、さすが晴明殿。耳が早くていらっしゃる」

――不思議なもので、燃えるような怒りというのは、度を超えると冷たい氷のようになるらしい。青白く燃える焔を飲み込みながら、道満がからからと笑うと、晴明は道満に掴みかかった――いや、今思うとあれは抱きすがる形に近かったのかもしれない。

「嘘だ!!嘘です!!貴方が――道満殿がそのようなことをするはずがない!!」

「そうですね。私はしておりません」

え……と驚いて顔を上げた晴明に、道満はにやりと笑う。

「帝はよほど私が気に入らないとみえる。呪符は誰の筆だかわかりませんが、私を都から追い出す良い口実です」

「そんな……」

「あるいは何処かの陰陽師の筆によるものかもしれませんね――帝に寵愛された晴明殿、あなたのような」

言ってすぐに道満は後悔した。この策略が、目の前の真っ直ぐな瞳をした青年によるものでないことは道満にもすぐ分かったからだ。

晴明はといえば、道満の言葉に花のように美しい顔を悲痛に歪ませている。彼が何か言おうと口を開くと、道満はすぐにそれを手で遮った。

「忘れて下さい。今のはただの八つ当たりですので」

しばらくの沈黙の後、晴明が口を開いた。

「……本当に都を出て行かれるのですか」

こくりと道満は頷くと

「でなければ、首が飛びますので」

と笑ったが、晴明は変わらず暗い顔をしている。

「いつ……発たれるのですか?出発の際には私も必ず……」

晴明のその必死な様子が何か可笑しくて道満はふふふ、と笑った。

「敵の都落ちに見送りとは、晴明殿はお優しくていらっしゃる」

「敵だなんてそんな……!」

道満は晴明の手首をぐい、と掴むと晴明に耳打ちした。

「敵でなければなんでしょう?宿敵?宿世?――私は貴方の何です?」

――陰陽寮の司となり、今や晴明の右に出るものなし、と歌われたこの少女のような顔をした陰陽師の、私は一体何だったのか――。

敵であり得たのか?

いや、敵にすらなり得なかったのか――。

今、帝の後ろ盾を失い、都を追われようとしている道満にとって、それは切実な問いだった。

晴明を憎み、我が宿敵とすることにより、陰陽師として生きてきた道満である。都を追われることは、すなわち陰陽師としての死であった。自分の陰陽師としての死は、晴明に何がしかの爪痕を残せるものなのか、否それすら叶わぬものなのか――

様々な思いがよぎるなか、返ってきた晴明の答えは意外な物だった――

「道満殿――貴方は――私の……」


「……い!……先生っ!!起きて下さい!!」

先生――っ!!という声で道満は目を覚ました。

目をぱちくりと開いて、目の前に見えた青年の顔はどこか懐かしい。

「晴明……殿?」

道満の言葉に青年は深くため息をつくと

「も~~先生、まだ寝ぼけてらっしゃるんですか!?早くしないと、ご飯冷めちゃいますよ!」

「あ……桔梗……いま!今起きます!」

どたばたと身支度をしながら、道満は

(朝からあの顔を見るのは、まだ慣れませんね…)

と一人、胸の中で呟いた。


法師道満の朝は早い。朝から写経、禊、もちろん陰陽術に関する本を読んだりなど、彼に休む暇はない――はずなのだが。

「先生、この頃お加減すぐれないみたいですが、大丈夫ですか?」

ふあーあ、と情けなくあくびをもらす道満。

春の陽光が降り注ぐ庭に面する一室で、眠そうな道満に桔梗が首を傾げた。

「いえ……この頃、明け方夢を見るようで……どうにも朝、眠く……」

「ようで、とは?」

「夢を見るには見るらしいのですが……起きると全く覚えていないのです…全く、奇妙なこともあったもので……」

ふーむと考えこんでいた桔梗は

「もしかして、その夢に母上が出てきたとか?」

と言って、道満は飲んでいた味噌汁を危うく吹き出すところだった。

「なんっ…何故っ……!?」

口をぱくぱくとさせている道満をジトーと桔梗は横目で見ると

「だって最近、先生を起こしに行くたび、『晴明』と呼ばれるんですよ?分からない方がおかしくないですか?」

――『桔梗』というこの青年、実は男装して陰陽師をしていた晴明と今上帝の間に生まれた子供である。顔は晴明に瓜二つである。

「違っ…違いますよ!!…大体、覚えてないのだから、晴明が出てきたかどうかも分からないじゃないですか!」

あっそっか、と言って考えこむと、桔梗はすぐにぽん、と手を打った。

「ではあれですね!生霊!」

「……笑顔で恐ろしいことを言いますね、お前という子は」

「…恐ろしいですか?生霊?」

「恐ろしいでしょう!?生霊!!」

……桔梗が言うことには。「源氏物語」なる物語では、主人公である光源氏の通っている女性、六条御息所が、光の君の正妻である葵の上に生き霊となって現れて最終的に葵の上を取り殺してしまうらしい。

「おっそろしいですが!?」

「それほどまでに女性に恋慕われる光源氏ってすごいですね!私もそんな風に女性に思われてみたいなぁ…」

「いや、だから恐ろしいのですが……」

うっとりと何か間違った恋愛論を語る桔梗を道満は困ったように見た。

「あ、生霊で思い出しました!」

「何を!?!?」

言うと桔梗はごそごそと自分の袂を探った。

「先程、使いの者が先生宛に文を持って来ました!……私が思うに、女性からの恋文ではないかと!」

「恋文!?」

びっくりして桔梗を見た道満は、ふうぅうぅと息を吐いて自分を落ち着かせると

「まあ……?都を追われたとはいえ??いっときは晴明殿と一、二を争った陰陽師の私ですから??文の一つや二つ、届いてもおかしくはありませぬが……」

道満の一人言は全く聞いていないらしい桔梗が袂から文を出すと道満に渡した。

「可愛らしい桃の花がついた文です!!さあ先生…」

「燃やしなさい」

言うなり陰陽術で出現させた炎で文を焼く道満。

「ぎゃ――!?!?先生!!なんてことするんですか!せっかくの文を!!」

「東宮殿の文が来るとロクなことがありません!!見なかったことにするが得策!!」

……東宮(とうぐう)は、道満に文を書く際、決まって桃宮(とうぐう)をもじって桃の花をつけて来るのだが、未だその文が道満に読まれたことはない。

(全く……大方、桔梗の近況を知らせろ、とかそんなとこでしょうが……ん?)

ふとその時、道満は何か奇妙な気配を感じて庭の方を見た。が、そこには当然ながら誰もいない。

気のせいか……?

道満が神妙な顔で庭の方を見ていると、桔梗が何やら深刻な声で言った。

「東宮様からの文……ということは、先生は東宮様と……??」

「違いますっ!!」

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