望郷アイスコーヒー
ハルカ
コーヒーに浮かぶ明朝体
それは、涼やかな明朝体だった。
透明なグラスになみなみとアイスコーヒーがそそがれ、氷山のように尖った氷が浮かんでいる。その隙間から、【あの夏に】という4文字の明朝体が、ふわりと浮かび上がった。
何度も目を凝らすが、美しいカーブといい、几帳面なとめ・はね・はらいといい、小指の爪ほどの大きさの
文字は僕の見ている前でふよふよ昇ってゆき、グラスのふちの高さまでくると空気に溶けるように消えてしまった。
いつもの喫茶店の窓際のカウンター席の端で、僕はいつものように座って本を読んでいた。真夏のうだるような時間帯のせいか店内には客がまばらで、他の人は誰もこの不思議な現象に気付いていないようだった。
グラスの氷がカランと揺れる。このままではコーヒーが薄まってしまう。
きっと暑さのせいで変な幻覚を見たんだ。そう思うことにして、ストローをくわえコーヒーを飲む。冷たさと苦さが口の中に広がる。
すると、今度は氷の裏側からするりと文字が出てきた。
やはり明朝体で【帰りたい、】と。
慌ててスマホを取り出し、シャッターを押す。
だが、どこにでもあるような喫茶店の風景が写っているだけで、あの不思議な明朝体はどこにも写っていない。
アイスコーヒーに視線を戻すと、文字はもう消えていた。
撮影のタイミングが遅かったのかもしれない。
なにか仕掛けでもあるのだろうかとグラスを回して観察するが、側面に水滴がびっしりついているだけで、とくに変わったところはない。コースターだって、レトロな模様と店名が印刷されている、ごく普通のものだ。
グラスの中のコーヒーは、光に透けているところもあれば、深海のように光を通さない部分もある。文字はこの一番色の濃いところから出てくるような気がした。
先ほどの【帰りたい、】という文字を思い出す。「、」があるということは、このあとに何か続くのだろうか。
今度こそ、とスマホを構え、またコーヒーを口に含む。
味は普通のアイスコーヒーだ。深い香りが鼻を抜けてゆく。
氷の隙間から、【と思う】の3文字が這い出てくる。
素早くシャッターを押したが、やはり文字だけが写らない。
あいにく筆記用具は持っていない。
仕方なく、記憶を頼りに今見たばかりの文字をスマホに打ち込んでゆく。「、」が使われているということは「。」も使われるのだろうか。それなら、まだ続きがあるはずだ。
見逃すまいと身構え、またコーヒーを飲む。
すると、ストローの左右から気取った様子で【ことが】と【ある。】が現れた。最後に「。」がつき、これでようやく一文の完成か。
スマホに入力した文字を目でなぞる。
【あの夏に帰りたい、と思うことがある。】
なんとも曖昧で、思わせぶりな言葉だ。
そもそも「あの夏」とはどの夏を指しているのだろう。
僕はまたコーヒーを飲み、浮かんでくる文字をスマホに打ち込んでいった。
そうしてグラスの中身がすっかり氷だけになる頃、画面にはこんな文章が並んだ。
【あの夏に帰りたい、と思うことがある。
湿った土のにおい。あふれるセミの鳴き声。
海の遠鳴り。誘うような波。洗われる石や貝殻。
建物に切り取られない広い空と大きな入道雲。
田んぼに映った逆さまの風景と吹き抜ける風。
友達、思い出、楽しい時間、そして心。
僕はあの土地にすべてを置いてきた。】
それは、まさしく僕自身のことだった。
■
僕は、人口一万人にも満たない小さな村で育った。
海や森や田畑が広がる自然豊かな土地だ。
でも、僕が中学のときに両親が離婚し、母に引き取られることになった僕は村を離れなくてはならなかった。やがて母は再婚し、新しい夫の――僕にとっては義父の家で暮らすことになった。
新しい家に、僕の居場所はなかった。
義父、義姉、母の三人は仲良くやっているようだったが、人見知りの僕にとって他人との共同生活は難しかった。
僕は図書館で過ごすようになり、高校に上がるとさらに家に寄りつかなくなった。居場所さえ伝えておけば母や義父から何かを言われることもなかったし、図書館は夜の7時まで開いているので時間をつぶすことは充分できた。
町中を歩いているときに古い喫茶店を見つけ、図書館の閉館日にはそこで過ごすようになった。
たまに天気が荒れている日は自室でひっそりと過ごすが、家の中で母と顔を合わせると「いたの」と驚かれる。そのたった一言でますます家の中に居づらくなるのに、母にはそれがわかっていないようだった。
■
最初の明朝体を目撃してから一週間が経った。
いつもの席に座り、いつものようにアイスコーヒーを頼む。
あれからいろいろ試してみて、あの文字が出現するのはこの店のコーヒーだけだということがわかった。あのコーヒーとこの店の空気が反応して文字が生まれるのだろう、というのが僕の仮説だった。
コーヒーを口に含むと、また文字が浮かび上がった。
相変わらずの明朝体。今日はノートを広げ、そこに文字を書き取ってゆく。そっと店内を見回すが、他の客は普通にくつろいでいて、僕のように文字を書いている人はいないようだ。
今日の文章はこうだった。
【小学生の頃、森の中に秘密基地があった。
セミの声を全身に浴びながら日暮れまで遊んだ。
カブトムシやクワガタをずっと眺めた。
捨てられていた仔犬を拾ってこっそり飼った。
お菓子を持ち寄って仲間で分け合って食べた。
仲の良い友達が傍にいてくれたから、
あの頃は、明日が来るのが楽しみだった。】
ひと通り書き終えて、ノートを眺める。
やはり、これは僕の記憶の中の光景だ。
そのとき、背後から声がかかった。
「お客さん。ちょっとよろしいですか」
振り返ると、そこには初老の男性が立っていた。いつもはあまり表に出てこないが、おそらくこの店のマスターだろう。
マスターは僕をじっと見て尋ねた。
「さっきから、コーヒーを覗き込んではノートに何か書いてるけど、うちのコーヒーに何かあったかな?」
僕は答えた。
「文字が、浮かんでくるので。それを書き留めています」
コーヒーの中から、とはあえて言わずに、相手の反応を見る。
マスターは奇妙なものを見たような顔をして、それから曖昧に微笑んだ。
「……文字が浮かぶ? うちの店のコーヒーを見ると筆が進む、ということかな。将来は作家先生だね」
気に入ってくれてありがとうね、と言い残し、マスターはまた店の奥へ戻っていった。
その様子を見て、僕は理解した。
やっぱりこれはただのアイスコーヒーで、この明朝体は僕だけに見えているのだと。
■
翌日は朝から荒れた天気だった。
図書館や喫茶店に行くのは諦めなくてはならない。日曜日で家族全員がいる家の中は息がつまるが、この強風では傘も役に立たない。
台所でアイスコーヒーを作っていると、母がやってきて尋ねた。
「あんた、コーヒーなんて飲むの?」
その瞬間、ひどく心がざわついた。
この人は、自分の息子がいつもコーヒーを飲んでいることを知らないのか。
「コーヒーは飲み物だよ」
飲み物なんだから、飲むのかなんて愚問だ。
そんな皮肉を返し、僕はグラスを持ってキッチンを出た。
部屋の中から「なに、あの態度」と文句を言う母の声が聞こえ、それに続いて「
僕にまったく非はないのに、どうしてそんな話になるのだろう。
苛立ちにまかせて部屋の扉を強く閉める。きっとまた、隣の部屋にいる義姉が両親に僕のことを告げ口するのだろう。
机の上にアイスコーヒーを置き、ぼんやりと眺める。
やはり自分で作ったコーヒーでは文字が浮かばない。それとも場所の問題か。
ふと、小中学生の頃を思い出した。
あの頃、僕にはとても仲の良い友達がいた。
中学でクラスが別れてからもたまには顔を合わせていたけれど、引っ越してからは一度も会っていない。
何度か手紙のやり取りもしたけれど、互いに自分の居場所で生きていかなくてはならないという思いが、次第に手紙の間隔を広げていった。
気付けば最後に出した手紙から半年、一年と過ぎてゆき、そのまま僕は手紙を出さなくなってしまった。
今、彼はどうしているのだろう。
もし高校生になった彼に会えるのなら、止まったままの僕の時間も動き出すかもしれない。
机の引き出しを開けると、彼からもらった手紙はすぐに見つかった。
便箋に住所や電話番号が書いてあったので保管しておいたのだ。
スマホを取り出し、番号を押してゆく。
すぐに繋がったかと思ったが、電話の向こうでは「おかけになった電話番号は現在使われておりません」というアナウンスが流れるばかりだった。
いつまでも同じ場所に立ち止まってはいられない。
そう言われた気がした。
それなのに、僕の周りだけ時間が止まってしまっている。
机の上のアイスコーヒーは、氷が溶けて色が薄くなり始めていた。
このまま氷がすっかり溶けて、コーヒーがすっかり薄まって、最後には味も香りもほとんど消えてしまっても、僕はこのまま動けないでいるのだろうか。
■
次の週、僕はまた喫茶店に行った。
いつものように窓際のカウンター席に座り、アイスコーヒーを頼み、浮かんでくる文字をノートに書き留める。
明朝体の現れ方は少しずつ違っていて、勢いよく出現することもあれば、ひっそりと現れることもあった。
そのどれもが、中学生まで過ごしたあの土地の思い出ばかりだった。やはりこの文字は僕の望郷の思いからにじみ出たものなのだ。
僕の心は、まだあの土地にいる。
ぼんやりと考え事をしていると、僕が座っているカウンター席の隣に誰かが座った。僕と同じくらいの年頃の若い男性だ。珍しいことに店が混み始めているようだった。グラスのコーヒーはすっかり空になっていて氷ばかりが残っていた。少し長居しすぎたかもしれない。
僕は急いで店を出た。
■
ノートを忘れたことに気付いたのは、家に着く直前だった。
鞄がやけに軽く感じて中を確認したら、入っていなかった。
忘れたのはあの喫茶店だ。中を見られるのはともかく、捨てられたり、誰かに持っていかれたりするのは困る。あの中には僕の思い出が詰まっているのだから。
急いで店に引き返すと、店内はさっきよりもいくらか空いているようだった。
自分が座っていた席に視線を向けるが、ノートは見当たらない。いや、よく見るとその隣の席に座っている人がノートを持っていた。あれはたしかに僕が忘れていったものだ。
あの人は、さっき僕の隣に座った若い人だ。彼は頬杖をつき、ぱらぱらとページをめくっていた。
「あの……」
僕が声をかけると、相手はしげしげとこちらを見つめた。
そしてこちらにノートを差し出す。
「これ、お前の?」
初対面でお前呼ばわりするとは、ずいぶん失礼な奴だ。そう思ったが、相手はなぜかとても嬉しそうだった。
「はい。忘れてしまって」
会釈してノートを受け取り、立ち去ろうと背中を向ける。
そのとき、うしろから声をかけられた。
「ユッタ」
それは、小学生の頃に遊んでいた友達しか知らないはずの、僕のあだ名だった。
振り向いた僕に、男性が言う。
「やっぱりユッタだ。……僕さ、ユッタの家に電話したんだ。そしたらおばさんが出て、図書館かこの喫茶店にいるって。図書館は休みだったからこっち来たんだけど。ユッタ変わってなさ過ぎ。びっくりした」
……まさか。
思い当たる名前を、そっと口に出す。
「……シュウ?」
相手は笑った。
「正解。忘れられてたらどうしようかと思ったよ」
まあ、忘れてないよな。と彼はノートを指した。
このノートには、彼との思い出もたくさん書いたのだ。
「シュウ? え、ほんとに?」
「本物、本物。イケメンになっただろ?」
「わざわざ来てくれたの? めっちゃくちゃ嬉しいんだけど」
「泣きそうな顔で言うなよ~」
からかうように笑うと、シュウは隣の席を指した。
僕は頷き、彼の隣に座る。
ウェイトレスさんが注文を取りに来たので、少しだけ迷い、またアイスコーヒーを頼んだ。
シュウは、隣の県に引っ越してきたから会いに来たのだと言った。
そして地元の友達の近況も話してくれた。
「ほらこの写真の犬、ユッタが拾った犬だよ。今はケンが飼ってくれてるって。ずいぶん大きくなったよね。あっちゃんは実家を継いで農家をやってるって。それと、
彼の話を聞いているうちに、僕は自分の時間がゆっくりと動き出すのを感じた。
あの不思議な明朝体は、きっともう現れない。
相槌を打ちながら、ふと、そんな予感がした。
望郷アイスコーヒー ハルカ @haruka_s
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