第十九話 緊迫の虎口 

「大勢が決してしまったやもしれぬ」


家康の焦りの根本はこの大戦の行く末にある。小田原城を辛くも脱し、兵力を十分に温存できたことは不幸中の幸いとも言うべきだが、本領帰還の道は未だ遠い。

あの秀吉公が誅殺されたこともとうに存じてはいたが、それ以上に恐怖が勝っていた。


「あと少しで三増峠に到着いたします。伸びに伸びきった兵站と長い後続の兵もじきに追いつきます故、どうかお心の乱されることなきよう......」


家康は携帯していた水を飲み干し、まだ飲み足りないといった様子で天を仰ぐ。憎らしいほどに澄み渡った空に、麗しき田野が延々と続いてゆく。人影は一切見られない。


家康にはその一つ一つ、村々の営みの跡すらも憎らしく感じられた。異郷の地とは思い入れの無い人間にとっては恐怖の対象でしかない。戦場ならばなおのことだ。


「一刻も早く三増峠を渡り本領へ戻らなくては...。幸い、小田原の秀次殿ら豊臣本軍は混乱状態にあってしばらくは立ち直れないことであろう。酒井ら先遣隊が上手くやっておれば良いのだが。」


家康は照りつける日差しを背に苦衷を漏らす。

「ムゥ...そもそもの話、だ。そもそも本軍が十何万といるのには理由がある。小田原制圧のための万全な準備であることはもちろんのこと、それはになり圧倒的な権力を政権が持つようになるからだ。」


家康の目的はただ一つ。

次なる動乱に備えて、すでに崩壊すると確信している現政権を一刻も早く離れることに他ならない。


それに、現政権から抜きんでるための競争はすでに始まっている。故に絵図を塗り替えさせる暇も与えてはならないのだ。本領に帰還し、固く門を閉ざしてやる。徳川領をまずは守り抜き、それから関東にでも手を伸ばせばよい。


北条がなんのとか、豊臣がなんだとかは二の次、三の次。


この行為は、お家を絶対につぶさないことと、荒れ果てた戦国の世を何としても生き残るという家康の強い意志の表れでもあった。


時間は有限。それは亡き信長公を見れば明らかなことであった。



家康には強い覚悟がある。家康には時期を見る鋭い目がある。

だからこそ、このままくたばる訳にはいかない。いかなる時も、人を上手くだますことが至上である。


「うむ、よかろう。然らばわしも策を講じようではないか。」


「わしは戦勝祈願をする!各自離散し行動せよ!わしが敵を欺く!」


「ははっ!」






~黒田陣営~

「して、その作戦とはいかなるもので?」


「......まあ待て。まずは状況を把握しようじゃないか。急いてはことを何とやら、であろう?又兵衛殿。」


「いかにもその通り。時が迫る現状なれども、決断するは今しかない。退路や殿と合流する糸口をも、つかむべきであろう。」


一同はもとの冷静沈着の様子となっていた。北条に、徳川までもが迫る中、焦りこそが禁物であると諸将はよく理解している。現在も峠は危険とみて本営を後方の津久井城に移したところである。


「現状、状況は厳しいことこの上ない。北条勢がまもなく到着するやもしれぬし、その後には徳川勢が本腰を入れて来るやもしれぬ。三増峠の西方に志田峠もあり、見下ろす下には平野が広がっておる。格好の野戦場でもある。......しかし数はこちらが圧倒的な劣勢。」


緊迫は諸将の顔に泥でも塗りたくったかのようで、その眼には次を見据える余裕など無かった。


そして窮した一人が口を開く。


「...それがしは北条につくことこそ上策と心得た。兵力に窮乏する北条勢は我々と共に戦うことが可能なはず。徳川打倒のため、利害一致で戦うべきかと。」


諸将はこれに頷く。しかし又兵衛はつまらなそうな様子で目線をとっとと切り替えてしまう。


「...うむ。一理ある。他に?」


「ではそれがしから。それがしはこの戦、無謀と心がける。我らの本望は主君と共に死すことなり。ここは戦力温存も兼ねて逃げるべきかと考える。」


今度は又兵衛がその言にすかさず言い放った。


「...それはならん。主君の厳命はこの峠を死守することにある。任を放棄するとはこれ臣下の礼に反すること。それに兵站が危機にさらされてはいかに我らとて飢えには耐えられぬ。逃げることはもはや叶わぬ。」


こうもなればもはや大勢は決したも同然である。


「然らば、やはり北条につくべきですな?」


又兵衛は諸将がこれを言うことなどお見通しのようににやりと笑んだ。

喉からゴクリと音を鳴らし、額の汗に滲んだ目をぎらぎらと輝かせて言葉を放つ。


諸将もまた覚悟を決め、粛然としつつも、思いを新たにする。



「......我らは、!」






~北条陣営~

「伝令!津久井城に敵影あり!津久井城に敵影あり!」

「っな!?」


氏規はとっさに背後を見やる。予定外。計画外。それは予期せぬ敵勢の存在であった。


「後方か?後方なのか、もしや徳川か?」


「いえ、それがどうにもわからず......」


氏規は衝撃のあまり顔を紅潮させ、また次の瞬間には蒼白となった。ここにきて、ここにきて敵勢の出現はあまりにも、重い。


「失念しておった......」

氏規の狙いが露と消えた瞬間である。頭を抱え、戦況を整理するが、それは筆舌に尽くしがたい惨状であった。


徳川であろうとなかろうと、不利なことには違いはない。敵勢が三増峠の奥深くにある津久井城にいるとなると、正面の敵と挟み撃ちとなる。さらには、峠を要塞となして、至る所に伏兵を置くことも十分に考えられる。


あとは数と、将兵の質だ。例え数が少なくとも、強兵となればてこずるに決まっている。戦ともなれば、峠防衛に必須となる眺めの良い高地を獲りあうことになる。こちらが地形に熟知していようがいまいが、先に到着したほうが有利なのだ。


戦えるのか?この状況下で...


「......いや、それはありえん。」


氏規はそこまで思考した段階でようやく矛盾点に気づいた。

いくら何でも、現状その危険性を実現しうる軍など存在しないということを。


「いやもしくは謀反か...」

しかし氏規は、ことさら臆病にならざるを得なかった。

一事が万事。氏規にかかる期待は大きいのだ。


耐えかねて臣下は一人悩む主君に進言する。

「殿、ここはまず正面からやってくる徳川に専念すべきでは?」


「......」


しばらく考えたのちに、彼は重々しくもそれを承諾した。


「まったくもってその通りやもしれぬな。」


「ではここは...徳川の様子を見ることとする。新たな敵に関しては、我が兵力の三割をこれに充て戦わせよ。戦術は追って指示する。」


「ははっ!」


徳川が第一目標ならばまずこれを迎え撃つ。それが氏規の命題でかつ勝利への糸口である。ならばまずは情報をそろえてから足並みをそろえるべきではないだろうか。

それからでもまだ遅くはない。


深謀遠慮の氏規ならではの状況判断であった。





だがしかし、ここにきて徳川軍の奇策が見事に命中する。

家康の鶴岡八幡宮戦勝祈願をはじめとする数々の不可解な行動が、戦場を揺さぶる大きな鍵となったのである。


いよいよ三つ巴のそれぞれの思惑が色味を帯びてきた。

誰が何を思い、戦うのであろうか。

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