第9話 百二十五歳、夏

 娘が亡くなったと聞いた時、正直ほっとした。子供が自分より先に天寿を全うしてしまった辛さより、俺と同じ思いをしていなくて良かったという気持ちの方が大きかったからだ。


「香夜はちゃんと、人間として死ねたのか」

 人より多少長くとも、何の違和感もない寿命。旦那は既に亡くなっていたが、子供と孫に看取られて幸せな最期だったらしい。


 葬式には行っていないし、墓参りには時期を見計らって一度だけ。これは昔慧と相談した結論なのだが、俺が現れることによって香夜のまともな人生が奇異なものになってしまうから独り立ちした香夜にはなるべく合わない様にしようと決めていた。だから娘が死んだときも、遠くで手を合わせることしかできなかった。


 別に淋しいとは思わない。俺が残される事は香夜に孫が生まれたあたりから覚悟していた事だ。写真でしか見ていないが、きっと美人に育つ。俺の子孫が呪われた家系にならなかったことが何より喜ばしい。


 同時に、妬ましい。自分の娘にこんな感情を抱くなんて父親として失格だろう。俺の子供なのに、ちゃんと人間として幸せに死ぬことが出来た娘が酷く羨ましく思えてしまう。俺だって、香夜に看取ってもらいたかった。普通に死にたかった。「もう少し生きていたい」と思いたかった。残した誰かに悲しんで欲しかった。


「それももう叶わないな・・・これで、人間の俺を知る人は全員死んだ」


 朝江壱也という人間を知る者はもうこの世にはいない。その事実に気が付くと、なんだか余計に人間が恋しく思えてきた。


「再婚、しておけばよかったかな」

 思ってもいない事を呟いてみる。


 慧が亡くなった頃、近所の可愛らしい娘さんと一度だけ恋人に近い関係になった事があった。俺にその気は無かったけれど、あの朗らかな港町は慧が俺に残してくれた最後の宝物だったから、一生懸命受け取ろうと努力した。娘さんは俺に好意を向けてくれていて、周囲の人達も俺に優しくしてくれていて、あのまま交際し、結婚していたら俺はもう一度平穏な家庭を築くことができただろう。

 ただ、交際に踏み切れなかった。俺にとって恋とは慧とするものであり、他の誰かが踏み入れることが考えられなかったのが一番の理由だ。

 あの娘と『そういう関係』になりそうだった夜、俺は心だけ年老いた自分の身体の心配や、あまり経験豊富ではないであろう相手への配慮を一切忘れ、俺の記憶にある神聖な何かが『穢される』と強く認識してしまった。彼女と・・・いや、慧以外の女性と触れ合い、惹かれ合い、好意を重ね合わせる事で俺の心の奥底にある慧と積み上げてきたものが穢されてしまうような、そんな気になったのだ。


 俺にとって恋愛のときめきや恋しさ、愛おしさ、全ての温もりは慧にのみ与えられるものであり慧だけが与えてくれるものだった。どんな人間でもその代わりにはなれないし、慧の代わりにその場所に居座る人間を俺は絶対に好きにはなれない。


 それに気が付くと、途端にこれ以上あの町で暮らしているのが嫌になった。嫌いになったわけではない、むしろ逆だ。慧のいないあの町での時間が過ぎれば過ぎる程、慧と過ごした最後の時間は薄れ、濁り、元の形が見えなくなっていく。あの町が変化していく中、俺の記憶の中の慧だけがいつまでも変わらなくて、ちぐはぐなイメージが慧を虚像みたいに見せてくるのが不愉快だった。


 だから俺は、慧と築いたあの町での人間関係を全て捨て、遠い場所に逃げた。俺が戻らなければ慧がくれた宝物のような時間はずっとそのまま、あの町の中に閉じ込めて置ける。俺が振り返りさえしなければずっと変わらずそこにいてくれる。本当はそんなわけがないし、土地開発の話が進んでいた事も充分に理解していたが、俺はこれ以上俺の中の慧を穢したくない一心で慧がくれた最期の愛の証である、あの町に蓋をした。


「高校生の頃の俺が見たら、何て言うだろうな」

 時々考えて、胸が痛む。十八歳の頃、俺は人生で愛するのは慧だけだと決めていたし、他の女性と恋愛関係になる筈がないと信じていた。そしてなにより、本気でもないのに好意ある素振りをみせたり結婚する気もないのに肉体関係を持ったりするような男を酷く軽蔑していた。今考えれば当時の学生にしては少し硬派な考えだったが、それだけ一途に恋をしていた証拠だろう。


 今の俺は慧の好意を踏みにじり、享受することに怯えて、慧が俺の事をを想って残してくれた最期の居場所すら一生開ける気のない宝箱に閉じ込めた。心が微塵も動かされていないのに一方的に好いてくれる子を慧の代替品にしようとして、それでも無理だと自分勝手に辞めて、何も言わずに勝手に去って、最低な男に成り下がった。人間と関わることを辞めて、俺はいよいよ人間じゃなくなった気がした。


「どうせもう、俺の事を知っている奴はいないんだ」


 今の俺は住む場所や職場を転々として、誰とも深い関係を持たずにただ無駄にあり余る時間を生きている。多少無理をしても死ぬ気が無さそうな身体は、ただ生きていくだけには楽だった。


「こんな俺が、人間だって言えるのか」


 自分が不老不死の人間なのか、不老不死の化け物なのかわからなくなってくる。


「でも、いい機会かもしれない」


 わからなくなって来たからこそ、俺は百年程放置していた議題に着手する気になった。娘の死がそのきっかけというのは少々ネガティブかもしれないが、ずっと避けてきた事象に目を向けるにはそれくらいの変化が欲しい。


「吸血鬼について、調べる。戻り方でも、死に方でも構わない。」


 今までソレをしてこなかった理由は一つ。

 人間に戻るために吸血鬼について調べる、という行為は自分が人間である事を否定するに等しいからだ。人間は人間になる方法を調べたりしない、だからそれをしなければ俺はまだ人間でいられるなんていう馬鹿な理論で自分を励ましてここまでやってきたが、慧が亡くなり、愛する娘も亡くなった。あの町にはもう戻らない。


 人間、朝江壱也はもう失うものが亡くなったのだ。


「あのクソ吸血鬼女。あいつのせいで俺はここまで・・・」

 残りかすみたいな感情が怒りか憎しみか、それ以外のもっと複雑なモノかわからないが、俺は寄せ集めのやる気で百年以上根を張っていた重たい腰を上げた。


「俺にはもう、そのままのイチでいいって言ってくれる奴はいないんだ」


 まずは、あのキャンプ場へ。

 どうか俺の人生を、人間として終わらせてくれ。そうしないと、慧の元に行けない。

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