第8話 八十四歳、夏


「こっちが、息子の壱也です」


 慧が海の見える場所に住みたいと言ってから半年後、無事引っ越しを終えて町内散策をする余裕が出来た俺達に最初に話しかけてきたのは向かいで鮮魚店を営むおばさんだった。慧の第一声が理解できなくて唖然とする俺をよそに、慧は香夜に話しかけるみたいな甘ったるい声を出しながら小突いた。


「ほら、挨拶」

「あっ、えと、どうも」

 困惑する様子を照れているだけだと解釈されたのか、鮮魚店のおばさんはニコニコ顔で「よろしくねぇ」と言ってくれた。

「壱也君は二十歳くらいかしら、大学生? うちにも中学生の娘がいるんだけど、今度勉強教えてあげてくれると嬉しいわ」

 おばさんの言葉で俺は自分の耳が壊れたわけではないと気付かされる。慧は俺との関係を親子だと紹介した。夫婦ではなく、母と息子の関係。

 直ぐに否定したい気持ちは当然あったが、慧が嫌味やボケでそんなことを他人に言う女性ではないことを俺はよく知っているつもりだ。湧き出る不満や疑問を押さえつけて俺はその場で『女手一つで育ててくれた母親を大事にする二十歳の息子』を演じた。


 その後、慧に問いただしても納得のいく理由は教えてもらえなかった。だが、ハッキリと答えないということがある意味答えだ。俺には言い辛い理由、年の離れた夫婦として後ろ指をさされる生活が嫌になったという事だろう。


 この町には俺達の過去を知る人はいない。新しい土地、新しい人間関係。親子という新たな関係性を被って平凡な家族として生きていこう。それが慧の望みなら。

 悔しさはある。先に相談してくれなかった事への不満もある。だが、親子という嘘をついてまで俺と家族であることを選んでくれた事がなにより嬉しかったので、笑ってその嘘に付き合う事にした。免許証を見せる機会なんて殆ど無いし、履歴書の生年月日を偽る程度で手に入る安寧ならありがたいものだ。


「母さん。荷物持つよ」

 愛する妻との親子ごっこというのは、お互いがあと六十歳くらい若ければそういうプレイにもなったかもしれない。自分の母親になんとなくの罪悪感を持ちながら、俺は慧と新たな関係性を築いていった。

「夫を名乗る事すら許されないのかよ、俺は」

 それで慧が笑顔でいられるのなら、いくらでも嘘を重ねるし道化になりきる。




 全部慧の為、そう思っていた。慧が隣にいた頃は。


「ご愁傷様です」


 という言葉すらもう言われなくなった。慧が亡くなってからもう一か月が過ぎるのだから当然だ。

 この街に越して来てから十四年、享年八十四歳。現在日本人女性の平均寿命は九十一歳と言われているが、減ってしまった五年は俺が気苦労をかけ過ぎたせいだろうか。俺のせいで慧の人生は不幸だったんじゃないだろうか。そんな無意味な自問自答をもう三十日以上は繰り返している。


「あたしをイチのお嫁さんにしてくれてありがとう」

 猫は死を予感すると大切な人の目の前から姿を消すと聞いたことがあるが、慧は最後の夜まで俺の隣にいてくれて良かった。身体が弱るたびに甘ったるく優しくなる慧の言葉が苦しくて、耳をふさいでしまいたくなったが「後悔するから辞めときな」といつもの厳しい口調で止めてくれた。

「実はさ、あたしのほうが先にイチに惚れてたんだよ」

 親伝手に聞いて俺と同じ高校と大学を選んだ事や、キャンプ場で迷子になったあの日からずっと好きだった事、素直になれなかった高校時代の事、告白された時は緊張のあまり冷たい返答だったが内心大喜びしていた事。

「イチがもっと早く告白してくれていれば、修学旅行一緒に行動できてたのに」

 口をとがらせる慧は、あの頃よりも可愛らしかった。これ以上惚れ直すことは無いと毎回思っているのに何度も慧にときめいてしまう。慧は死ぬまで俺の心を力強く握りしめて、一度たりとも手放してはくれなかった。


 俺の人生において慧が占める部分があまりに大きすぎて、慧が亡くなった事実を受け入れられてもこの先の自分が全く見えない。慧を好きじゃない頃の自分が思い出せないし、想像も出来ない。


 一人になった部屋でただ寝て起きてを繰り返し、もしかしたらこのまま餓死するんじゃないかと期待してみてもそんな日は来ず、ただ時間だけが無暗に過ぎる。

「そっか、俺。不老不死だったんだ」

 栄養失調症でぼやける視界、痺れる指先。立ち上がればふらつくし脳みそに酸素が届いていないような感覚が永遠と続く。もう明日には目が覚めないかもしれないと思う程に疲労が溜まっても、自然と目が覚める。

「たぶんこれ、死ねないやつだ」

 このまま慧を想う気持ちだけ持って全て終わらせたいくらいには自棄になっていたのに、俺の身体は息苦しさだけ与えるばかりで死ぬ気は一切ないみたいに思えた。ただ、包丁でざっくり刺してみる勇気は無いあたり俺はまだ本気で死のうと出来ていないのかもしれない。


「これからどうすんだよ・・・」

 慧がいなくなって初めて気付いた『不老不死』という言葉の絶望感。長生きする意味も元気でいる理由もなくなった今、俺は何のために不老不死でいればいいんだ。慧のいない世界なんて一年でも長すぎるぐらいなのに、俺はこれからどうやって時間を消費すればいいんだ。


 ピンポーン、と。俺の他に帰って来る人がいない、鳴る筈のないドアチャイムが狭苦しい部屋に響いた。


「壱也さん。いますか?」

 この声は鮮魚店の娘さんか。


 どうしよう、居留守を使ってしまおうか。彼女が中学生の頃は何度か勉強を見てあげた仲ではあるが、今は優しいお兄さんの仮面をかぶる余裕はない。大体親が死んで苦しんでる独り暮らしの男の家に何の用事だ。出会った頃は中学生だったのに、今では喪に服す男に気を遣える立派な女性になったとでも言いたいのか。

 嘘をつく理由が無いのに、俺は『慧の息子』を演じなくてはいけない事にも腹が立つ。俺は慧の為に親孝行の二十代息子を演じていたのであって、慧がいなければそんなの全て無駄だ。無意味だ。いっそのこと胸糞悪いくらいに優しいあの娘さんに全てバラシて驚かせてしまおうか、お前が平気で親しくしてた男は実は御年八十四歳の化け物だと。そうすればあの穏やかで平和ボケした顔も歪むだろう。直ぐにおばさんにも話がいって俺はあっという間にこの町の住人から奇異の目で見られるだろうな。


「その、ずっとお部屋から出てこないので、倒れているんじゃないかって・・・」

 俺が何を考えているのかなんて知る由もない彼女は、扉の向こうで一方的に話始める。

「えっと、あの、簡単に立ち直れるものではないとは思いますけど、このままじゃ壱也さんの御身体にも悪いんじゃないかと・・・あっ、すみません、私なんかがわかったような口をきいて」

 元々口下手な子だ。大方年の近い人が行ったほうがいいとおばさんに言われて様子を見に来たのだろうけど、俺には今更若い娘の言葉に共感できる感性なんて持ち合わせていない。

「でもっ、少しだけ、外に出てみたほうが、いいと思います」

 彼女から見たら俺は子供の頃から知っている優しい年上のお兄さん。親孝行で働き者で、母親を失い途方に暮れている可哀そうな男。哀れで、か弱くて、今にも死んでしまいそうだとでも考えているんだろう。何もかもが見当違いな説得が俺に響くはずもない。

 彼女から見える俺と、実際の俺はあまりに遠過ぎるのだ。

「その・・・もしよろしければ、私が、お付き合いしますので。あ、いえ、そういう意味ではなくて、気分転換、って、これも失礼か。えっと、その、誰かと話している方が明るくなれるかもしれませんし、私でよければいつでも話し相手になります、から」

 ここに来たのが誰かの後押しだとしても、彼女の善意は本物のようで、ぎこちない言葉が胸の内にある優しさを一生懸命かき集めてくれているのがわかる。気遣いの下手なセリフも、下手に臭い綺麗な言葉よりはいくらかマシだ。


 それでも、俺は扉を開けることも彼女に返事をすることもしない。俺が失った者は他人の綺麗な善意くらいで埋められるものじゃないんだ。


「・・・わたし」

 がさり、と薄い扉の向こうから何かが擦れる音がした。

「壱也さんのこと、好きです」


 その音が、ドアノブにビニール袋がかかった音だと理解した。

「・・・っ、こんな時に言う事じゃないですよね。ごめんなさい。私なんかの気持ちじゃ、壱也さんの淋しさを埋める事なんてできない事はわかています」


 同時に、の意味も理解した。


「それでも、壱也さんの事をずっと待ってる人が、こ、ここに、少なくとも一人はいるって事、覚えておいてください。壱也さんの辛い気持ち、私は全部わかってあげられませんけど、私にできることならなんでもしますので、支えになりますので。だから、このままだと、本当に死んじゃうかもしれませんから、だから、少しでいいので、元気出してください」


 泣きじゃくる声。俺が本気でこのまま餓死してしまうんじゃないか、下手したら既に扉の向こうには死体が眠っているんじゃないかと心配している声だ。願っても出来ないのに。


 そして、俺が理解した言葉は彼女の気持ちの事じゃない。

『息子の壱也です』

 慧がついたあの嘘は、慧のかわりに俺を愛してくれる人が現れるように願ったものだと知った。


 俺は今この町の住人で、新たな職場も、人間関係も、俺を普通に受け入れてくれる。慧を失ったのに俺には居場所があって、この居場所はあの嘘が無ければ成り立たないものだ。


「結局、俺の為かよ」

 最後くらい慧の為になれたと勘違いしていた。慧の我儘だと思っていたここでの暮らしは結局全部、俺の為だった。ここに引っ越してきたのも、周囲の目を欺く関係も、全部全部慧が、自分が死んだ後に俺の居場所が亡くならないように仕組んだだけだった。


 俺は、慧の為に何もできていなかったのか。


「これ以上、好きにさせないでくれよ」

 もう何度惚れ直したかわからないのに。これ以上は無いと思っていたのに、死んでも尚俺の心を放してくれない。

「悪いオンナだなぁ・・・」


 俺は立ち上がり、扉を開ける。慧が残してくれた最後の愛情を享受するために。




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