第7話 七十歳、夏

 俺には四歳年下の従弟がいるのだが、妻は従弟の顔を見ると切なそうな愛おしそうな、そんな複雑な表情をする事を俺は知っている。

 捻くれた目で見ればそれは恋する乙女のような真剣な眼差しだが、決して二人が不倫関係にあるわけでも、慧が叶わぬ恋をしているわけでもない。


 ただ、俺の親戚の顔を見て年老いた俺の顔を想像しているだけだ。


「一緒に年をとりたかったな」

 逆の立場ならきっと、俺は考えなしにそんな事を言ってしまうだろう。しかし慧は一度も、俺が『普通の人間』であることを望まなかった。


 パートナーがいつまでも若々しくて嬉しく思うのなんて精々四十代くらいまでで、その先は苦労の方が多い。腕を組んで歩いていると何も知らない野次馬からはいい年して未成年のような若い男を囲ってると陰口を囁かれ、中途半端な親しさの隣人は俺を愛人だと勘違いする事さえあった。

 不道徳な事をしている人間相手なら何を言っても良いと勘違いする者は意外と多くて、世の中は俺が思った以上に少数派への悪意に満ちていた。


 俺はいつしか、慧の隣を歩く自分が嫌いになった。


 若さという新鮮な美しさとは違う、積み上げていった歴史と苦悩の分だけ身に付く人間としての魅力。もう何度惚れ直したかわからないくらいに慧は美しいのに、隣にいる俺はいつまでも能天気な男子高校生の顔をしている。


 少しでも慧に似合う男になりたくて、似合わないグレーのポロシャツを着て見たり英国紳士みたいなベストを羽織って見たり、伊達老眼鏡をあててみたり、ダサいハンチング帽をかぶって見たりもした。外を歩くときは少しだけ腰を曲げて、慧の歩幅に合わせてゆっくりのろのろ歩いたり、口調もそれにあわせてわざと遅くしてみたり。本当は分厚いステーキもソースたっぷりの濃い味も大好きだけど爺さんみたいに柔らかくて薄味のものばかり食べてみたり。インターネットで調べた演劇用の老け顔メイクも試して、喋り方も仕草も工夫した。

 一生懸命『年相応の老人』を演じようとした。


「やめなよ、イチらしくない」

 慧の言葉に「俺はお前のために」と言い返そうとして俺は直ぐに辞めた。姿鏡に写った似合わない服を纏って老人ごっこをしている馬鹿な若者の姿が、あまりにも滑稽だったからだ。


 いくら取り繕っても、俺は慧に相応しい姿を手に入れることはできないのだと悟った。



 娘が結婚して家を出てさらに十五年、七十歳の定年を迎えた。職場という神経質なコミュニティでは道行く他人ほどわかりやすい悪意を向けてくることは殆ど無かった。それでも不自然な肉体は不気味に感じるようで、全身整形だの訳ありコネ入社だの身分証偽装だの、見当違いの噂が出回ることはあった。

 テレワークという文化が無かったら、俺は正社員を諦めていたかもしれない。顔を合わせる機会さえなければハツラツとした老人を演じる事もできなくはない。


「あたし達が子供の頃ってさ、定年って六十歳くらいじゃなかったっけ?」

「そうだっけ? 覚えて無いな」

「少なくとも今みたいにここからここまでっていう幅は無かったと思う」

「六十五歳から七十歳で選べるもんな」


 再雇用の話もあったが、これ以上付き合いを長くしていつしか今まで親しく接してくれていた人間にまで怖がられるかもしれないと思うと耐えられなくて断った。いい思い出のまま、元気なおじいちゃんとして職場を去ることができたのは俺の身の上においては上々な第一の人生の締めくくりだったんじゃないだろうか。


「家にイチがいるから楽だね」

「今まで無茶させてたんだし、好きなだけ楽してくれよ」


 仕事を辞めて慧と二人でいる時間が増えると、俺は自分の姿を気にしないで済むようになった。慧が家にある鏡を殆ど撤去してくれたり、リビングに飾る写真を学生時代のものに変えてくれたりした事もあって、家の中にいる間だけは俺は慧の旦那であるという自信が持てた。


 ゆっくりと身体が老いる慧の為に、俺はあり余る若い肉体を活用した。傍から見れば介護だろうけど、俺からすればいつも迷惑ばかりかけている恋人を労わっているだけだ。

「いつもありがと」

 皺の増えた顔をくしゃりとさせて慧は微笑む。昔と比べて表情が柔らかくなったのは彼女の性格が丸くなってきたということだろうか。


「イチの身体は若いんだから、ちょっとくらい浮気してきてもいいよ」

「するわけないだろ」

「本気になってイチが返ってこなくなったら悲しいから、プロの人相手とかにしてね」

「行かないから」

 どこまで本気で言っているのかわからないが、慧は弱気になるとよくそんな事を言う。


「浮気くらいなら許すけどさ。あたしが死ぬまでは、あたしを一番にしててよ」

 いつもと同じ、口癖みたいに気軽に出てくる『死ぬ』という言葉が段々と重たくなっているのを俺は感じていた。

「死ぬとか言うなよ」

 俺の口からでる『死ぬ』は、相変わらず軽薄で意味のない言葉なのに、慧の言葉の一つ一つが、どれも苦しく思える。「慧はまだ若いんだから」をつけ足せる余裕はいつの間にかなくなっていた。


 見た目だけでなく、俺の中身はいつまでも子供みたいに能天気で、こうして二人きりになっても慧をよく悲しませた。考え知らずで、物分かりが悪くて、わがままで、気が利かない。


 慧が相手だと俺の精神年齢は二人が恋人同士になった十八歳の夏と同じ、慧のことばかり考えて後先を見れないガキになる。青春の一言で片づけられてしまいがちな盲目は、『大人』になった慧からすれば子供の我儘に見えてしまう。溢れ出す感情や愛の言葉を受け止めるだけの危うさを、慧はもう持っていない。


「あたしさ、海の近くで暮らしてみたいんだよね」

「海?」


 だから、慧の口からわがままが出るとなんとしてでも叶えたかった。一瞬だけでも対等になれたような気がしたからだろうか。


「そう。港の近くの・・・漁村って言うの? 別に村じゃなくてもいいけどさ。窓を開けると海の匂いがするようなところがいいな」

「いいね。この家も二人じゃ広いし、引っ越そうよ」


 いや、俺なんかと一緒になった事を後悔して欲しくないだけだな。

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