第6話 四十五歳、夏
さして興味もないバラエティー番組をなんとなく流しながらソファーに寝そべってスマホをいじる。そんな平凡な休日の夜、家族団らんとしたリビングに爆弾は投下された。
「私もうお父さんと二人で外歩きたくない」
娘から発せられた突然の言葉に指先はフリックの途中で硬直した。
「
怖くて香夜の顔が見えない俺は、冷静なフリをしてスマホ画面から目を離さない。当然ながら液晶に表示されているネットニュースの内容は一文字も頭に入っていないのだが。
「別に、理由は無いけど」
「理由が無いことは無いだろう。誰かに何か言われたのか?」
まだ子供だと思っていた娘も高校生、これがうわさに聞く思春期というやつか。覚悟はしていた筈なのに、いざとなるとここまで動揺してしまうものなんだな。
娘との仲睦まじかった記憶がまるで走馬灯のように思い浮かぶ。俺の身体は相変わらず健康的過ぎるくらいで、香夜が子供の頃は「若いお父さんで羨ましい」なんてよく言われていたものだ。運動会の保護者競技なんかも、現役の身体能力を持っている俺は大抵の親御さん相手には無双できて、自慢のパパだと喜ばれた。
俺に似たくせっ毛と大きな二重、慧によく似たクールで優しい性格、俺は俺なりに全力で香夜を愛してきたつもりだったが、それでも思春期特有の拒絶というものは起こりうるのか。
「何も無いってば、とにかくこれからは二人で出掛けないから!!」
「待ちなさい香夜!」
俺の制止も無視して香夜はリビングから出て行ってしまった。
「こら、話はまだ・・・」
スマホをソファーに投げて香夜を追いかけようとしたところで、やけに強い力で腕を引かれる。
「やめなよ」
俺の右腕をがっしりと握ったまま離さない、慧の視線は雌豹のような猛々しさすら感じる。
「無理に追いかけないほうがいいって」
慧はそのまま俺の腕を引いて再びソファーに座らせた。
「だっておかしいじゃないか、急に。この間も俺は若くてかっこいい父親だって・・・」
別に俺はイケメンではないが、四十代のおじさんばかりの他の父親に比べれば女子高生の価値観からして不快感の無い部類の筈だ。若さからくる容姿を褒められるたびに俺は自分の特異な体質を嬉しく思ったし、香夜だって昔は喜んでくれていた。
「俺は隣を歩いて恥ずかしく思うような父親なのか?」
それとも肉体の若さに関係なくおじさんへの不快感というものは存在するのだろうか。
「違うって、イチ」
少し呆れたようにため息をつかれる。
「落ち着きなよ」
そう言って球体氷入り麦茶を手渡される。年末のアウトレットで慧が一目惚れして買った星空の模様があしらわれた紺色のグラスだ。
「・・・」
冷房の効いたリビングなのに外気温のように熱を持った俺の内部が冷たい麦茶によって急激に冷やされる。液体に揺らめく星空の壮大さは、ちっぽけで直情的な父親を馬鹿にしているようだった。
「別にイチは恥ずかしい男じゃないよ。それは香夜にとっても同じ」
慧が同じグラスを両掌で包みながら隣に座る。
「じゃあなんで俺と外を歩きたくないだなんて言ったんだ」
我が家の父娘仲は良いもので、世間で言われているような思春期のいざこざは無関係だと思っていただけにショックがでかい。
「あー、それはちょっと」
「濁さないでくれよ」
「うーん」
言うまいか悩んでいるというよりか言葉を選んでいるといった様子で、グラスをカラカラ回してかき混ぜる。俺はというと妻の言葉を聞き洩らさないようにと唇を凝視しつつ、不謹慎にも年々増す慧の妖艶な魅力に惚けていた。
しかし、その惚けはさらなる凶悪なキーワードによって爆風の彼方へ吹き飛ばされる。
「彼氏がいるって勘違いされちゃったみたいなんだよね」
娘。彼氏。
「かかっか、彼氏だって!? 香夜に!?」
今すぐ立ち上がって机をぶっ叩いて子供部屋のある二階に駆け上がりたい気持ちだったが慧の鋭い視線に止められ、慌てて気を取り戻す。やり場のなくなった怒りとか困惑とか驚愕の気持ちを落ち着ける為に冷たい麦茶を着付け薬のごとく一気に飲み干し、パジャマの袖で口元をぬぐう。
「ど、どういうことだ」
「落ち着いてよ。だからさぁ・・・この前イチ、かぐと一緒に買い物してたじゃん」
「慧の美容院が終わるのを待ってた時か」
「そうそう。あの日にクラスの子に見られたらしくてさ」
「高校生にもなって親と買い物に行くのが恥ずかしいか?」
親馬鹿かもしれないが香夜がそんな悪ぶった中学生男子みたいな事を考えるような子だとは思わない。うちの娘は聡明だ。
「そうじゃなくて、イチと仲良く歩いてたから他校に彼氏がいるって噂が広まっちゃったらしいよ」
女子高生にとって恋バナは大きなアミューズメントであり、それは他者の事であろうと興味深々になる。付き合った別れた振ったの話が直ぐにクラスに広まるという事実は俺も高校三年の時に経験済だ。
そして、伝達の速さの代わりに失った情報の不確かさも良く知っている。
「つまり、俺と香夜が恋人に見えたという事?」
「そ」
まさか娘の彼氏と間違われるなんて、微塵も想像していなかった。
実年齢も見た目も若い親が子供と兄弟のように見られるという話ならよくあるが、高校生の娘の彼氏に見られるなんて血がつながった親子ならまずありえないシチュエーションだ。
しかし、客観的に考えてみれば俺の身姿は男子高校生のままで、外見の並びだけで見れば同じく高校生の娘と先輩後輩の関係に思われても納得がいく。香夜と出掛ける時は重たい荷物は俺が持つし一緒にいる時の支払いは当然俺がする。もしかしたらあの日の店員さんや他の客にも俺達が親子ではなく恋人か友達同士に見えていたのだろうか。
「・・・考えたこともなかった」
「あたしは、いつかこうなるかなって思ってたよ」
そう言いながらも慧は、何故か少しだけ拗ねた顔をしていた。他人からしたら相変わらずの少し不機嫌なポーカーフェイスだが、四十年の付き合いともなれば慧の表情を読み取ることくらい容易だ。とはいえ、何故拗ねているのかまでは見当もつかない。
「あの子は、香夜は子供頃からお父さんっ子だからね」
「そうだな、子供の頃は「パパと結婚する!」なんて言ってたのに、もう彼氏が出来てもおかしくない年なのか・・・」
嬉しい事に香夜は父親である俺にかなりなついてくれている。だからこそ、娘の恋愛事情の事を考えると胸が痛んだ。今回は俺の早とちりだったものの、いつか香夜に恋人が出来てさらにその先には結婚して家を出ていく未来が待っていると考えるとなんだか切ない。
「イチの奥さんはあたしだけだよ」
「ん、何だって?」
「・・・はぁ」
本当は聞こえていたけど、あまりに唐突なデレに驚いて聞き返してしまった。案の定リピート再生はしてくれず、代わりに深いため息が返って来た。
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