第5話 三十歳、夏


「すみません、年齢確認のため身分証を見せていただいてもよろしいでしょうか?」


 俺が『ソレ』に気が付いたのは、三十歳になったある夏の夜、適当に入った居酒屋でそう言われた時だ。

 同じく三十代らしき店員は隣にいる慧ではなく、明らかに俺に向けてそう言った。


「免許証でいいですよね」


 ズボンのポケットに無造作に入れてある財布を取り出して免許証を見せると、慧がまだ鞄を漁っているにもかかわらず店員は

「はい、確かに確認しました。ご注文決まりましたらそちらのタッチパネルで注文してください。また、ただいま混雑時となっておりますので二時間制となっております、ご了承ください」

 と、接客用に用意されたテンプレートを雑に投げかけて忙しそうに別の客に呼ばれていった。


「この年で未成年に間違えられるのか」

「いつも言ってるじゃん、イチは子供の頃から見た目が変わんないって」


 なんとなくその自覚はあった。しかし、都合よく見て見ぬふりをしていたような気がする。自覚していても「よくあること」として扱っていた部分はあった。どうしても楽観的に考えてしまうのは高校三年生の夏以来あの吸血鬼が俺の前に現れていないことが理由だ。


 あの日、不穏な事を意味深に好きなだけ喋って消えた吸血鬼。何か恐ろしい呪いにかけられたんじゃないかと思って暫く怯えて暮らしたけど、その後に待っていたのは何の変哲もない日常だった。懸念していた不幸は何一つ起こらず、二十八歳の夏を平穏に過ごしきったところで俺は何かから解放された気になり、慧にプロポーズした。


 そして今に至るまで、俺も俺の周囲の人間もごく平凡な日々をおくっている。


「イチの顔みてるとこっちまで女子高生に戻った気分になるよ」

 そう言って向かいの席に座る慧は、慣れた手つきでタッチパネルを操作している。


 夫婦仲良く映画デートの帰り、せっかくだから夕飯も外で食べようということで目に入ったチェーン店の半個室居酒屋。お通しが食べ放題の枝豆なのがありがたいので別店舗で利用したことがある店だ。


「そんなに変わってないか?」

「うん」


 高校生にもなれば大抵の大きな成長は終わっていて、その後さらに背が伸びるやつもいるが十八歳をピークに成長が止まる奴なんて少なくないと思う。これが小学五年生の姿だったらもっと早く確信が持てたのだろうけど、俺は気付くまで十年以上かかってしまった。


「慧、俺さ」

「ビールでいいよね」

「あ、うん」


 相変わらず俺の話を聞き流すのが得意だ。俺と違って慧は年を重ねるごとにゆっくりと変化しているのを感じる。まだ見た目で直ぐわかる老いと言えるようなほどではないが、本人曰く疲れやすくなったとか、皺が目立つようになったとか、二日酔いになりやすくなったとか、感じるものがあるらしい。その話に俺はいつも「おばさんじゃないんだから」と茶化していたけど、気が付くとそれが冗談じゃない年齢になっていた。


「俺、高校生の頃吸血鬼に会ったんだよ」


 タッチパネルに夢中の慧に向かって、見てないとわかりつつ精一杯の真剣な表情で伝えると慧はこちらをチラ見もせずに「あっそ」と無関心に返事した。


「そのとき吸血鬼に噛まれてさ。もしかしたら俺、不老不死になったのかも」


「・・・・・・」

 居酒屋の安っぽい間接照明が下を向いた慧の髪を照らす。柔らかい光が当たった時だけわかる程度に染まった紫のハイライトが、あの吸血鬼の瞳みたいだ。


「慧が・・・いや、まわりの奴等が言う衰えみたいなのも、大人になったと感じるような変化も、何もわからないんだ。みんなと同じように夜更かしして、酒飲んで、脂っこい物食べてきたのに、別に健康に気を遣ってるわけでもないのに、俺の身体だけ高校生の時と同じに強健でさ」


 童顔とか若く見えるではなく、変化しない。何かに蝕まれる事も、何かに適応する事もない、それを意識すると昨日までなんとも思わなかった自分の身体が作り物みたいに見えてきた。


「おまたせしました、生ビール二つとお通しの枝豆・・・」

 ピリッとした空気を若い女性店員がぶち壊しに現れる。二人で使うには余裕のある黒いテーブルにビールの並々注がれたジョッキが二つと、カラ入れ用の器で蓋をされた枝豆が置かれる。


「・・・と、ぶつ納豆とたこわさとタルタル唐揚げと梅きゅうとマグロユッケとシーザーサラダととん平焼きと焼き鳥盛り合わせと厚焼き玉子とネギトロ軍艦でーす」


「えっ、多い」

 次から次へと渡される小鉢やら平皿を全部受け切った後、慧のほうを睨みやる。

「いっぺんに頼み過ぎじゃないか?」

 あとマグロ被ってる。


「別にいいじゃん」

 グラスに汗をかいたジョッキを一つ手渡された。受け取ると指先からひんやりとした感覚が伝わって、表面で小さくシュワシュワと泡立つ白に眼が惹かれる。


「はい、かんぱい」

「わわっ」

 一方的に押し付けられたジョッキがコンッ、と不格好な音をたてた。慧は一口目をググっと喉に流し込んだ後に「いただきます」と小さめに呟きながら唐揚げに箸を伸ばす。タルタルソースがたっぷりとかかった唐揚げを大きく頬張り、それを追撃するようにビールで流し込むと慧は無言で目を輝かせる。無暗に見栄えを気にしたり感想をべらべら喋らずにただひたすらに目の前の御馳走に向き合う彼女は、さながら一人のアスリートのような真剣さがある。

 高校三年の夏に付き合い始めてから今まで、恋人の時も新婚の時も俺には塩対応な慧だが食べ物にはいつだってデレデレなのだ。


「なに? じっと見ないでよ」

 惚れた弱みというか、出会ってからもう二十年以上が経つのにそんな姿がいつまでも可愛いと思えてしまうので俺は大人しくサラダを取り分ける。それにちゃんと俺の好物であるとん平焼きを頼んでくれているところも嬉しい。

「慧って食べるの好きだよなって思ったから」

「食事が嫌いな奴なんていないでしょ」


 そうかもしれないが、量注文するならわけてくれといつも言っている。不満そうな俺の視線に気づいたのか慧は眉をハノ字にしながら、

「不老不死ならこれくらい余裕で食べられるかと思って」

 と言ってノールックで枝豆を掴んだ。


「なんだ、聞いてたのか」

「イチは何歳になっても馬鹿だなぁって思いながら聞いてたよ」

「本気で言ってるんだよ」

「あたしだって本気で馬鹿にしてるよ」

「・・・・・・」


 俺が拗ねた顔で迷い箸をしていると、慧は頬杖をついてニマリと笑う。俺が最初に告白をしたあの日の教室の風景が思い浮かんだ。


「別にいーじゃん、不老不死。それとも何? いつまでも若いあんたからしたらアラサーになった妻が相手じゃ不満だから別れたいとか?」

「そ、そんな事考えてるわけないだろ!」


 直ぐに誤解を解きたくて、興奮して軽く立ち上がったところで慧の表情が俺をからかうモノだと気付いた。それはそうだ、俺が死ぬほど慧に惚れている事を慧本人もよく自覚している筈なのだから。


「じゃあ心配ないね。ずっと若くても、急によぼよぼのおじいちゃんになったとしても、イチはイチだよ」


 不老不死。自分でもふざけた妄想だと思うのにあまりにもそれを不安に思ってしまうのはあの夏の日に出会った吸血鬼があまりに不穏な姿をして、まるで俺を陥れようとする魔女みたいに笑ったからだ。


 でも、慧の言葉で俺は思いなおす。例え俺が何者に変わろうとも俺は俺だ。子供の頃からずっと慧が好きで、これからもそれは変わらないし、慧はそんな俺を受け止めてくれている。


「ていうかさ、不死かどうかはわからなくない? 死んでないんだし」

「それは吸血鬼のイメージというか・・・」

「イチは単純だなぁ。イメージっていうなら吸血鬼なんてプライドが高そうだしヨーロッパとかにいそうじゃん、なんで美しくもなんともないごく普通の冴えないイチにそんなに執着するのさ」

「冴えないって・・・」


 確かに言われてみればそうで、俺はただ無暗に怖がって悪い方に考え出してしまったのかもしれない。昨日までは楽観的に考えられていたんだ、気まぐれな心配事でいちいちネガティブになるのはおかしいか。


「まぁ、そうかもな」


 ひんやりシュワシュワの液体を流し込むと、ちょっとだけ舌に残った苦みが俺はもう大人だと教えてくれるような気がする。


「もし本当なら、高校生なのに居酒屋に来ちゃうなんて悪いオトコだね」

「未成年をそんな店に連れてくる慧も悪いオンナだな」


 大丈夫だ。俺はちゃんと人間で、もし何かあったとしても慧と一緒なら乗り越えられる。


 俺が彼女を想う気持ちは俺が何者になっても変わらない。慧もまた、俺の事を見捨てたりしないでずっと傍にいてくれる。これだけ確信すれば、吸血鬼の呪いも契約も幸せの誤差程度に思えてくる。




 三十歳の蒸し暑い夏にふいに訪れた不安は、当たり前の談笑に溶けていった。

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