第2話 八歳、夏


 十年前の夏、俺と慧は事故にあった。俺が吸血鬼に出会ったのもその時だ。

 親に連れられてやってきた山奥のキャンプ場。テントの設営や夕食の準備に追われる大人たちに退屈した俺と慧は、キャンプ場の敷地内から出ない・暗い所には行かないという約束でその辺を散策することにした。


 当時小学校三年生、俺達は兄妹のように親しい仲で、俺も慧もこの日をとても楽しみにしていた。そんな期待と興奮と、子供特有の恐れ知らずな好奇心が災いして俺達はあっという間に入ってはいけない区域に迷い込んでしまった。後からキャンプ場の管理人に聞いたが、前週の台風の影響で立ち入り禁止区域を示すロープと看板が飛ばされてしまっていたようだ。


 そんなありがちな不運が重なって、俺達は足場の悪い藪の中に足を踏み入れてしまった。


「ねぇ、そろそろ戻ったほうがいいと思う」

「ここまで来たんだから行けるところまで行ってみようぜ。怖いなら慧だけ先に戻ればいいじゃん」

「嫌、ついてく」

 あの時の慧はまだちゃんとクールぶれないところが可愛かった。逆に俺は典型的なガキだったな。


 段々と薄暗くなる周囲と歩き辛い山道、女子の手前強がっていた俺も少しずつ不安になって来て、次に慧が戻ろうって言ったら引き返そうかなとか考えていたタイミングだった。


「きゃあぁっ!!」


 突然、俺のすぐ後ろをついて歩いていた慧が姿を消した。

「慧!? どうした、おーいっ!」

 俺は酷く動揺し、足元も碌に見ないでむやみやたらに走り出す。


「うわああっ!!」


 生い茂る草で見えなかったのだろう。強く踏みしめた脚が空中を空かして、俺は殆ど崖みたいな急こう配の坂道を転げ落ちた。

 ずざざざざざ、という音と共に身体が地面に擦れ、岩や木の枝が俺の身体を容赦なく傷めて付ける。


 どすん、という重たい音と腰の痛みが同時にやってきたところで俺はゆっくりと目を開けた。

 俺が落下した先はさっきより深くて暗い、森の中。けもの道すらない、人気の全く感じられないその場所で俺は子供ながらに『死ぬかも』と冷静に恐怖した。

「痛い・・・痛いよぉ」

 数メートル先で呻く声には直ぐに気付いた。

「慧!」


 声の方へ駆け寄ると、慧は大量の血を流して横たわっていた。


「イチ、痛い、痛いよ、助けて・・・」

 目をうっすらと開けて縋るように俺を見る。

「待ってて、今助けるから!」

 安心させたい一心で発したその言葉に力なんてなかった。俺は既に全身震えていたし、落下の時に背中を擦ったせいで服はボロボロで血も出ていた。落ちた時に腰をぶつけてしまったせいか立っているだけで辛い。この場をどうにかできるような身体じゃないし、小学生の俺には正しい応急処置の知識も無かった。

 俺と同じような場所から落ちたはずの慧が重症だった理由は、慧の姿を見れば子供の俺でもわかった。


 慧の胸から首にかけたあたりに、大きな木の枝がしっかりと突き刺さっていた。転げ落ちる途中で刺さり、そのままへし折れてどんどん奥に押し込まれてしまったのか乾燥した薄茶の太い枝は慧の左胸をかなり深くまで貫いている。


「痛い、痛い、痛い、痛い。死んじゃう、助けて、はやく抜いて」

 目に涙を浮かべてぐしゃぐしゃに成りながら懇願され、俺は胸にささった枝に手をかけた。

「ま、待って、いま、今助ける」

 ガタガタと臆病になる右手を左手で支えて、俺は一気に力を込めた。

「ああああああああぁっ! 痛い! 痛いいたいいたいいたい!!」

「ご、ごめん!」

 痛みによる絶叫と、ほんの少し動いた枝と慧の肌の隙間から急に溢れ出した血液に、俺の臆病は増して手が止まる。後から知ったが、あのまま枝を引き抜いていたら出血多量で慧は死んでいただろう。幸いなことに俺はその光景にすっかり怖くなってしまい、自分の手で助けることを諦めた。


「そうだ、大人。大人を呼んで来るから。絶対呼んでくる、だから慧はここで待ってて!」

「い、行かないでよ、一人にしないで」

「大丈夫。絶対大人を連れて帰って来るから。俺の事信じて」

「いや、やだ、怖いよ」

 暗い森の中、動けない身体と悲鳴をあげるほどの痛み。こんな状況に普通の子供が耐えられるわけがない。大人だって同じ状況になれば絶望してしまうだろうが、あの頃の俺達にとって『大人』というのは何でもできる万能で頼れる存在に見えていた。

「ここに居て、痛い、怖い、置いていかないで」

 不安と痛みで涙が止まらなくなった慧。俺も泣きたかったが精一杯の男気で我慢して、慧の手を握り、力いっぱいに説得した。

「死んでも慧を助ける。約束するから、お願い!」

 不安にさせないための下手糞な笑顔だったと思う。慧は何も言わずにこくりと頷いて俺を送り出した。


 落ちてきたところを登るのは明らかに不可能だった為、俺は闇雲に声を張り上げながら山道を走り回った。多分どこかの骨は折れているし、身体のあっちこっちが傷だらけで死にそうだし、一歩歩くたびに膝とかめちゃくちゃに痛かったけど、とにかく誰かに見つけてもらおうと必死で叫んで回った。

 ただ、俺達が落ちたのはキャンプ場の立ち入り禁止のさらに奥。俺の声は両親のいるキャンプ場には届かないし、山奥に人がいる気配もなかった。

「だれか、誰か助けてください!」

 もし俺一人だったら冷静に帰り道を探したりできたかもしれないけど、その時は体力なんて気にせずに慧を助けなくてはという気持ちでいっぱいだった。とにかく死ぬ気で声を荒げた。何度も叫んだ「助けて」が暗い森に吸い込まれるたびに心が折れそうだったけど、俺が倒れたら慧も死ぬんだと思って限界を五回くらい超えて叫んだ。


「だ、だれがぁっ、ごほっ」

 喉は枯れるし、脚はもう走れないし、慧のいる方向も曖昧になってきた。

 それだけ頑張っても、俺達を助けてくれる人は現れなかった。



 その代わりに『人』ではない誰かが助けに来てくれた。



「助けてあげようか、人間の子供君」

「えっ」

 それは幼い俺の目の前に、突然現れた。


 アニメでしか見たことがないようなハッキリとした銀髪にアメジストみたいに綺麗な濃い紫色の瞳。レースたっぷりのケープと紫色のドレス姿は、当時馴染みが無かったゴシックロリータのような衣装。小さな二つ結びと、細かく巻かれた後ろ髪。明らかに何かを隠すためにつけられた黒い革製のマスク。

 ここまでならちょっと個性的な人間のお姉さんに見えただろう。ただ彼女の背中には大きな蝙蝠の羽のようなものが生えていた。それが精妙な作り物ではないことが子供にも理解できるほどに神秘的で、生き生きと動くものだから、俺は一瞬で彼女の正体が人間ではないと信じ込んだ。


「ちょうどお腹がすいていたんだ、血をわけてくれるなら助けてあげるよ」

 見た目の割にラフな口調だったがそう言いながら髪をかき上げる仕草は気品に溢れ、森の中にいるというのにここが宮殿の中と勘違いしてしまう程に優雅な佇まいだ。

「血?」

「そう、人間の血が好物なの」


 そう言うと彼女は、分厚いマスクの鼻先を指に引っ掛けて、クイとあごの方にずらす。妖艶に開かれた口内には、肉に穴をあけるためと一目でわかる程に鋭い牙が生えていた。可憐で儚さすら覚える彼女の容姿から露になったその牙は獰猛で凶悪なもので、当時の俺はソレに噛まれる想像をして一瞬だけ怖くなった。

 けど、彼女の吸い込まれそうな程に深い紫の瞳や優しく上げられた口角を見て俺は直感的に彼女は悪人ではない、例え悪人だとしても信じても良い相手だと感じて軽々しくもその誘いに乗った。


「なんでもいい。血ならいくらでもあげる、あげるから助けて。お願い」


 俺は土と切り傷に塗れた自分の右腕を差し出した。

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