夏が燻る
増田朋美
夏が燻る
ある日、杉ちゃんと蘭は、食品を買うために、ショッピングモールに行った。その帰り、道路工事が始まってしまったので、別の道から帰ることにした。道を二人で移動していると、うまそうなパンの匂いがしてきたので、食いしん坊の杉ちゃんのほうが、ちょっとよっていこうぜと車椅子を止めてしまった。
「本当に食べ物には目がないな、杉ちゃんは。」
と、蘭はその後をついていくが、
「やあ、伊能君じゃないか。うちのパンを買いに来てくれたの?」
と、玄関先で声をかけられてまたびっくり。ここは、同級生の阿部慎一君のパン屋さんだった。
「いやあ、あのねえ。」
と、蘭が言い訳を考えていると、
「丁度いいや。ここでパンを食べていくか。」
と、杉ちゃんに言われて、蘭は仕方なく、阿部君の店に入らせてもらうことにした。店の中には、ちょっとしたカフェスペースのようなところが設けられていて、パンを食べることができるようになっている。杉ちゃんと蘭は、カレーパンとウインナーロールを買って、そこで食べさせてもらうことにした。
「うん、なかなかうまいな。こんなうまいパンを食べさせてもらうなんて、幸せだな。」
杉ちゃんがにこやかに笑っていうと、
「どうもありがとうございます。」
と、阿部くんは答えた。
ちょうどその時、店の入口に取り付けてある、鐘がカランコロンとなって、お客さんが来たことがわかる。
「はいいらっしゃいませ。店内でお召し上がりですか?」
と、阿部くんが聞くと、
「はい、よろしくおねがいします。」
と、入ってきたのは、中年の男性と、小学校1年生くらいの男の子だった。多分、父親と二人で、パンを食べに来たのだろう。
「どうぞ、お好きな席にお座りください。あと、飲み物も、ご入用でしたら。」
阿部君にそう言われて、二人はサバランと、メロンパンを買った。子供さんらしい、組み合わせであった。二人は阿部君にお金を払って、杉ちゃんたちの隣の席に座った。ふたりとも、パンをうまそうに食べていた。
「お前さんたち、今日は親子二人でお出かけでもしたのか?」
と、杉ちゃんが言うと、少年のほうが、
「はい、行ってきました。」
と、苦笑いしていった。
「へえ、どこへいってきたの?」
杉ちゃんがいうと、
「はい、今日は電車に乗って、お寺の蓮をみてきました。」
父親と見られる男性が答えた。
「なるほどね。夏休みだから、毎日どこかでかけてるの?」
杉ちゃんがまた聞くと、
「はい。僕が仕事がない日は、こうして連れて行ってあげないと行けないと思いまして。」
と、父親は答えた。
「はあ連れて行ってあげないと行けないのか。なんかそこら辺、訳ありみたいだな。なにか事情があるんかな?」
杉ちゃんがそういうと、少年の表情は変わらなかったが、父親のほうが、大事なところを見られたなという顔をした。杉ちゃんと蘭は、この表情をみてなにかわけがあって、阿部君のパン屋に来たんだなということがわかってしまった。
「あの、もしよければ、僕たちも協力させていただけないでしょうか?なにか、重大な事情を抱えているみたいなので。僕たちは、放置しておけないんですよね。」
と、蘭は、彼に言った。お父さんは、弱みを握られたらどうしようという感じだったが、
「決して怪しいものでもないし、恐ろしい存在でもありません。僕たちもなにかお力になりたいんです。この阿部君のパン屋さんにくるひとは、みんなワケアリだってことは、知ってますから。だってそうでしょう。パンなんて、スーパーマーケットやコンビニに行けば買えるのに、こういうパン屋さんに来るのは、ワケアリの人でなければしませんから。」
蘭は、二人をできるだけ優しい目で眺めながら言った。
「それはやっぱりどこかで人間と言うものを眺めているから、そうなると思うんですよね。いくらリモートとか、オンラインとかそういうものが発達したとしても、人間は人間ですから。ましてや今は、人間不在が正当だと思われている世の中で、人間が作ったものを求めているということは、なにか理由があるからでしょう?」
「そうですね。よくぞ聞いてくださいました。私、ちょっとかわった名前ですが、八村と申します。こちらは息子の結。私は八村健一です。よくバスケットボールの選手と間違えられますので、すぐわかる名字だと思います。」
と、父親、八村健一さんは、そう言い出した。
「八村さんですか。八村さんという名前は、バスケットボールの選手以外に、耳にする名前だと思うのですが。」
と、蘭は言った。
「なかなか、珍しい名字なのでお尋ねしますけど、八村佳子さんという女性と、なにか関連がありますか?親戚とか、血縁者とか、そういう感じですか?」
「はい、間違いなく、八村佳子は私の妻で、結の母親です。」
蘭の質問に健一さんはすぐに答えた。
「はあ、あの有名な女郎みたいな女優が母親なんだ。それは大変なことになるでしょう。それは確かに問題だと思うよ。」
と、杉ちゃんが言った。
「女郎みたいというのはちょっと大げさですが、たしかに八村佳子さんといえば、映画やテレビドラマで引っ張りだこの女優さんですね。それに、色気もたくさん持っている。あまりにも忙しすぎて、結君のことをかまってあげられないのではないですか?小学校一年生の子供さんにとって、母親がそばにいないのは、一大事ですよね?」
蘭は急いでいった。
「はい、学校の養護教諭の先生にも同じことをいわれました。しかし女優として、映画主演の仕事ばかりしているものですから。それでは行けないと何回も言い聞かせたんですけど、とても改める様子はありません。」
健一さんは、困った顔でいった。
「まあそうなるだろうね。八村佳子といえば、子供の時から子役として芸能人をやっていて、言ってみれば、子供を経験しなかった女優だよ。禿はどっちにしろ、女郎にしかなれないからね。それといっしょだったから、子供時代、親がいなくて寂しかったということをまるで知らなかったんだろう。禿だったときに、映画で大ブレイクして、おとなになっても更に美しさがまして大人気なんて、一般のやつとしては、とてもたどり着けない域だからな。」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「そうですね。確かに八村佳子といえば、みんなが憧れる美女ですが、そういうところでは美女ありきに被害が出るってことですね。確かに、クレオパトラも楊貴妃も、私生活では幸せになれなかったですし。それのせいで、一番被害を受けているのは、結君なのではないでしょうか?」
蘭は、健一さんに問いかけるように言った。
「はい、事実そのとおりなんですよ。第一今日ここへ来たのも、学校の先生に言われたからでした。学校の先生が、一日中家の中で一人ぼっちでいる結がかわいそうなので、なんとかしてやらなくちゃいけないと、お叱りになったからなんです。私も仕事があって、朝早く出なくちゃならないし、佳子は、女優のために昼も夜も関係なく出てますのでね。結は一人で朝食を食べ、一人で学校に行き、一人で学校から帰ってきて、一人で風呂に入って眠るという生活なんです。それでは、いけないと学校の先生からお叱りがありました。結は、ただ、大人のワガママに、振り回され続けているだけだと。」
健一さんはそう言いながら、だんだん小さくなってきた。
「それなら、結君のことを見てくれる、手伝い人でも雇ったらどうですか?昔の制度で言えば乳母です。そういう人を付けてあげることも、結くんには必要だと思うのですが?」
「ええ、私も、そうしようかと思ったこともありましたが、なかなかそうすることができない事情がありまして。」
蘭がそう言うと、健一さんはすぐそういった。
「はあ、事情って何かな?」
と、杉ちゃんは、そこに突っ込む。
「ええ、ちょっと他の人には言えない事情がありまして。これだけはどうしても他の方にはいえなんです。」
そういう健一さんに、杉ちゃんは事情を話してみろといったが、蘭はかわいそうだから、ここまでにしてあげようといった。
「そうなんですか。じゃあ、一つ提案なんだが、この阿部君のやっているパン教室に通ってみてはどうだ?お前さんだけの、いや、正確にはお前さんと結君の時間を持つことも大事なんじゃないのかな?お前さんだって、あんまり家の中に縛られているのもどうかと思うぞ。」
と、杉ちゃんがでかい声で言った。
「ここでパン作りを教えてもらえるんですか?」
と、健一さんは驚いた顔で言う。
「はい、パンを自宅で作りたい人のために、手捏ねでパンを作る方法を教えています。中には、親子で参加してくださる方もたくさんいますよ。」
阿部くんがにこやかに笑ってそういうことを言った。
「生徒さんの中には、親子の絆を取り戻したくてパン作りを習う方もいらっしゃいます。大半は女性同士が多いのですが、男性の方もたまに見えられます。珍しいことではありませんよ。」
「まあ言ってみれば、人間関係を構築するための、パン作りを通したセラピーと言うことですね。」
と、蘭は阿部君の話に付け加えた。
「どんなパンの作り方を教えてくださるんですか?」
健一さんが聞くと、
「はい、オーソドックスなバターロールから始まって、子供さん向けならアンパンなども作ることができます。それに、毎日のお食事として有利な食パンなどもつくれます。もし、病気などで小麦のパンを食べれないというのでしたら、ドイツパンと呼ばれるライ麦のパンを作ることもできますので、お申し付けいただければ。」
と、阿部くんは答えた。
「そうですか。小麦以外のパンもあるということですね。」
健一さんはちょっと考えるように言った。
「誰か、アレルギーの人でもいるんですか?」
と、蘭が聞くと、
「はい、以前、学校給食のパンを食べて、蕁麻疹を発症したことがありましたから。」
と、健一さんは答える。
「それ、本当かなあ。何かそれよりも、大事なことをごまかしているような気がするけど?」
と、杉ちゃんが言うと、
「いえ、そんなことはありません。ただ、そういうことがあっただけで。」
と、健一さんは慌ててなにか打ち消すように言った。
「まあ、小麦が食べられなくても、パンというものが食べられるから安心しな。ライ麦のパンであれば、アレルギーの人でも問題なく食べられるから。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「ありがとうございます。僕はこのパン教室に通って、美味しいパンを作れるようになります。宿題の作文に乗せることもできるかもしれません。嬉しいです。」
嫌に大人びた言い方だったけれど、結君がそういうことを言った。とても小学校の一年生の言い方とは思えない。
「僕も、パンを作れたら、誰か食べたい人に作ってあげることもできるでしょうしね。」
「おう、もちろんだとも。月に二回か三回くらいここへ通ってさ。ちょっと気分転換するといいさ。小麦のパンが食べられなくても、ライ麦のパンとか、しっかり教えてくれるから、平気で食べられるようになるさ。安心しな。」
杉ちゃんは、結君に向けてカラカラと笑った。
「まあ、僕らも人助けができてよかったな。」
そう言っている間に、阿部くんがパン教室の入会申込書を持ってきた。こうなったらもう逃げられないと思ったのか、健一さんは、入会申込書にサインをした。
それから、数日後のことだった。
杉ちゃんと蘭は、また用事があってショッピングモールを訪れた。
「そういえば、あの親子はどうしているかな。また、阿部くんのパン教室で楽しくやっているかな?」
帰り道、道路を移動しながら蘭がそう言うと、
「ほんなら寄ってみるか。」
と、杉ちゃんが言ったため、二人は阿部君のパン教室に言ってみることにした。暑い中でも、二人は、阿部君の店のある方へ車椅子を走らせていった。阿部君の店は、パンの匂いがいつもするので、どこにあるかすぐに分かってしまうのであった。店のまえにつくと、二人は、店の入口から中へ入らせてもらった。
「やあどうも。ちょうど、結君のレッスンが終わってね。今、お昼を兼ねて、試食しているところなんだよ。」
店のカフェスペースでは、阿部君が、結君と一緒に、席に座ってパンを食べていた。結君は、顔中を粉だらけにしていて、パン教室をやっていたことがわかった。
「こんにちは、今日は亀さんのパンを作らせてもらいました。」
作ったパンを嬉しそうに見せてくれる結君であるが、そのかおに子供らしさはどこにもなかった。そういう雰囲気がどこか変な子という雰囲気を感じさせた。
「なんか妙に大人びてるな。もっと可愛くてもいいんだぜ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「確かに。」
と蘭も困った顔をした。
「そうじゃなくてね。もっと、明るく、僕は今日、亀さんのパンを作ったよ!みたいな感じで、言うことはしないのか?」
と、杉ちゃんがそう言うと、
「はい!」
と、軍隊の部下みたいに結君は言うのだった。
「うーん、しっかり返事をしろなんて少しも言ってないぞ。それより、子供らしく、うんとかおうとかそういうことを言ってもらえないかな?」
「確かに、一生懸命やろうとしてくれるところはとてもいいんだけど、もうちょっと楽しそうにやってもらわないとね。それは難しいのかな?」
杉ちゃんが続けると、阿部君も不思議そうに言った。
「それに彼は一人できているの?あのとき一緒にいたお父さんは?」
蘭が言う通り、店の中には結君一人しかいなかった。父親の健一さんの姿はない。どこへ行ってしまったのだろうか?
「お父さんは仕事へ行ってしまいました。仕事が忙しくて、パン教室で待っていろというので、そのとおりにしています。」
「なるほどねえ。」
杉ちゃんは腕組みをして大きなため息を付く。
「本当はね、おいていかないでと言って、大泣きするのが普通なんだよ。それは本当のことだからね。保育園に行く子が、お母さんのことを寂しがって泣くみたいにね。」
「そうだねえ。もっと泣いてもいいんだよと言っても、わからないかもしれないけどね。」
阿部くんも、心配そうに言った。杉ちゃんも蘭も阿部くんも、この少年のことが本気で心配になった。普通のこどもだったら、このパン教室に連れてこられたことが、どういうことなのか、理解できるはずなのだ。つまり、結論を先に行ってしまえば、結君は父親にも母親にもじゃまになるということで、このパン教室に来ている。捨てられたということになるからだ。この教室に来たということはそういうことだ。父親も母親も仕事が忙しいという口実で。
「しかし、親はどうして、子供を捨てて仕事に行くようなことをしてしまうのだろうか?お母さんがあれほどの有名人であれば、収入にはさほど困らないと思うけど。」
蘭が小さなこえでいうと、
「違うよ!お母さんのお母さんが、病院に長い間いるから、そのためにお父さんもお母さんも働いているんだよ!」
と結君は、両親をかばうように言った。この言葉は、杉ちゃんや蘭もある人物と似ているなとおもってしまった。
「お祖母様がなにか体の悪いところであるの?」
と阿部君が聞くと、
「暇があれば、ビールとかそういうのを飲んでます。」
結君は答えた。
「そうなんだね。それじゃあ、本当にお父さんやお母さんがいなくて、寂しくないの?」
蘭ができるだけ怒りを堪えて優しそうにそういうことを言うと、
「はい、だって、優しいおじさんたちがそばに付いていてくれるもん。お父さんやお母さんがいなくたって寂しくないよ。夏休みの作文の宿題は、おじさんたちのことを書くつもりなんだ。他の子は、家族でどこかに行ったことを書くんだろうけどさ。僕は、おじさんたちとパンを作った思い出しかないから。」
と、結君は答えた。
「そうなんだね。それならそう書けばいい。結君の思い出がそれしかないんだったらそれをかけばいい。でも、その中で、おじさんたちとパンを作れてよかったなということを書くのではなく、本当の気持ちを書いてくれないかな。お父さんやお母さんが、気がついてくれるように。」
蘭は、結君を励ますように言った。
「必ず、お父さんやお母さんが、気がついてくれるように、正直に書くんだよ。それは、君のような人であれば、絶対できるだろう。」
結君は小さな子供ではあるが、同時に一人の男でもあるんだと思いながら、蘭は続けた。
「せっかくの夏休みにここに預けられて、どこにも行けないのは辛いもんね。子供は辛いよって、正直に書いてね。」
と、阿部くんも彼に言うのだった。彼もまた、結君が、正直に、お父さんやお母さんがいないことを、書いてくれることを望んでいた。
「さあ、夏休みの思いで作るために、パンを食べるか。」
と、杉ちゃんがカラカラと笑って、パンを手にとった。亀のパンは、ライ麦がかなりはいっていて、おいしそうだった。結君が、ここに来て、やりきれない寂しさとか、怒りとか、そういうものと忘れていってほしい。蘭も杉ちゃんもそう思っていた。
「ああ、今日は、そういえば、暦の上では秋ですね。ちょうど、立秋だ。」
阿部君が壁にかかっているカレンダーを眺めながらそういうことを言う。
「そうか、もうそんな経つのか。月日は経つのは早いねえ。でも今日は、夏が燻っているような暑さだぜ。やれやれ、夏は暑いなあ。残暑というのは困ったもんだ。」
杉ちゃんが、パンにかぶりつきながら、そういうことを言うのだった。確かに、今日は、立秋ということになるのだが、暑い夏がまだ燻り続けているかのように、陽の光が、街の中に、金の光を振りこぼしているのであった。ああ夏の宿題は、まだ終わってないんだなと、思うようなそんな暑さだった。今日から、夏の最終章と言える晩夏というものになる。夏が終わってしまうということは、なんだかちょっと寂しいなということにも当てはまるのであった。夏は、まだまだ燻り続けるのである。そういうことなのだ。
夏が燻る 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます