第2話 ぐうたら魔王と強欲な令嬢

「今日こそ貴様の息の根を止めてやる!」

 勢いよく扉を押し開けたバアルは、そう宣言して攻撃魔術を展開した。

 由緒ある城を破壊することなく、的確に標的を仕留めるべく、威力も範囲も調整したはずの攻撃魔術は、未だに毛布を被って出てこない部屋の──否、魔王城の主へと殺到し、しかしそのことごとくが阻まれることとなった。

「ちっ、忌々しい」

 バアルは思わず舌打ちした。

 異色の当代魔王、ルキフグス。

 彼が横たわるベッドは特別製の魔導具で、これには様々な機能が組み込まれている。

 着替えも入浴も、そして悪意ある攻撃からの防衛さえも、このベッドは自動で行うことができるのだ。

 ベッドは主の眠りを妨げることなく、変形して障壁を作り、また攻撃魔術の一部を迎撃、相殺さえしてみせた。

 おかげで、魔王ルキフグスは未だに惰眠を貪っていた。

「……」

 ──本気で命を狙ったのだが。

 バアルは内心でそう呟いた。

 バアルは控えめに言っても秀才だ。

 彼の本気の攻撃魔術を受けて無傷で済む──あるいは防ぎきる──ことができる者は、そうはいない。

 それを、本人ですらない魔導具が──ルキフグス謹製で、彼の魔力で動いているとはいえ──やってのけているということもまた、バアルの神経を逆撫でする数多い事柄のうちのひとつだった。

 体力と引き換えに膨大な魔力を得たかのような謎多き当代魔王は、少なくとも防衛魔術や魔導具やアイテム製作にかけては比肩する者のないほどの実力者だ。

 一方、攻撃魔術については、魔王即位後誰よりも長く近くにいたバアルでさえ、ルキフグスが使っているところを、未だかつて見たことがなかった。

 否、正確には、あの忌々しい魔王継承の儀の日以来、であるが。

 ──そもそも、あれはどこまで本気だったのやら。

 攻撃魔術は不得手だと主張してこそいるが、それでも数多の魔導具を自在に──同時かつ精密に──操る膨大な魔力とコントロール力を考えると、攻撃魔術らしい攻撃魔術がろくに使えない、というのは、あまりにも不自然であるようにバアルには思えた。

 もっとも、魔王本人を問い詰めたところで、「俺は小細工が得意なだけだから、正面からの力のぶつかり合いは本質的に向いてないんだよ。それに、形に残る魔導具作り小細工はいいけど、形に残らないその場だけの攻撃魔術パワー勝負は、なんかやる気しないんだよね。そもそも、ろくに使ってこなかったんだから、当然まともに扱えるわけないじゃん」などと言い逃れされるだけなのだが。

 気高き元魔王子バアルは、それもまた気に入らなかった。

 ──まるで、本気で相手をしてやる価値もない、とでも言われているかのようではないか!

 やり場のない怒りにぶるりと身体を震わせて、しかしバアルはやめやめと首を振った。

 自らを落ち着けるように大きく息を吐いて、彼は厨房から拝借してきた鍋の底をガンガンと叩いた。

 けたたましい金属音が鳴り響く。

「……うぅ、頭に響く」

 そんな呻き声と共に、ベッドの上の毛布の塊がもぞもぞと蠢いた。

 しかし、それきり一向に魔王が起き出してくる気配はなく、毛布の塊はやがてすやすやと安らかな寝息を立てはじめた。

「……」

 紛うことなき二度寝である。

「……ええい、いい加減にせんか!」

 バアルは問答無用で毛布を引き剥がした。

 余談だが、ルキフグスは毛布にも魔力を巡らせており、それを引き剥がすというのはけして容易なことではない。

 バアルとしてはできるならすぐにでも燃やしてやりたいところだが、生憎あいにくこの毛布は物理攻撃にも魔法攻撃にも滅法強い。

 バアル自身の魔力そのものを直接流し込み、毛布に巡るルキフグスの魔力の流れを乱してやることで、やっと引き剥がせる状態にどうにか持っていけるといった有様だ。

 潤沢な魔力や高度な魔術の無駄遣いも良いところであるが、どうもこの魔王、怠惰でありながら──否、怠惰であるがゆえに、『快適に怠ける』ための労力は惜しまないらしかった。

 そのおかげで、すっかり日常風景と化したバアルによる魔王襲撃兼目覚ましにおいて、誰より消耗しているのは他ならぬバアルのほうなのだった。

 ──疲れた。

 そんな心の声が漏れそうになるのをぐっとこらえる。

「……あぁー、せっかく良いポジションが見つかったところだったのに……」

 せめてあと五分、とぼやく暢気な声を無視して、バアルは毛布を部屋の隅に放り投げる。

 ひゅぼっ、と小気味良い音を立てて、毛布は球状の魔導具へと吸い込まれた。自動的に洗濯が始まる様子には、さしものバアルも舌を巻く。──便利ではある。

 仮にも魔王子──先代魔王の次期後継者として生活してきたバアルだったが、侍従なしでも生活できるようにと、身の回りの一通りのことはこなせるように教育されてきた。

 洗濯。

 手洗いでは時間と労力がかかる。

 では魔術で済ませれば良い、と言いたいところではあるのだが、火球の生成のような単純な魔術とは異なり、洗濯の一連の工程の実行を術式に組み込むのも、術式展開時に繊細な部分をコントロールするのも、それはそれで大変なのだ。

 勿論、誰もが認める秀才であるところのバアルには、問題なく洗濯魔術を扱うことができた。

 しかし、そんな彼をして『毎日イチから洗濯魔術を使うのは、なかなかに骨が折れる』と言わしめたのも確かであった。

 そして、この魔界においては、バアルほど自在に魔術を使いこなせる者は数えるほどしかいないのだ。

 かつて、魔力量や魔術の才による格差は、魔界での出世のみならず日常生活の質にも大きく影響を与えていた。

 否、直結していたと言っても差し支えないだろう。

 才ある者は食糧の保存も洗濯も情報伝達も魔術でこなせるのに対して、才に恵まれない者は氷室、手洗い、手紙に頼るほかなかったという。

 こと洗濯については洗濯魔術屋に外注するという手段もあったが、やはり毎日のことともなれば、手洗いで金銭を節約するか、外注して手間を節約するかという、厳しい二択の間で揺れる者が多かった。

 この“生活の質の格差”問題は、結婚相手選びや交友関係においても、魔力の多寡や魔術の才がステータスとして絶対視される大きな要因となっていた。

 これといった野心はなくとも、手洗濯や氷の切り出しに一日を使うより、できるならその分の時間を別のことに使いたい。そう思うのが人情というものである。

 そんな格差社会に転機が訪れたのは、つい数十年前、先代魔王の御代のことであるという。

 魔力量や魔術の才に乏しい者でもわざわざ手洗いしなくても済むように、との配下の助言を受けて、先代魔王の名のもとに、洗濯機が発明された。

 これは、使用者の魔力に依存しない機械類の台頭を意味していた。

 それまでは、機械類──魔力や魔術を介さない道具にできることなどたかが知れていると、軽視されてきたのだが。

 突如登場した洗濯機、そして同時代に発明された適温保管庫や映像通信機を併せた『三種の神器』は、そんな魔界の住人の認識を一変させるに足る大発明だった。

 当然、それらは爆発的に普及した。

 これにより、それまで非効率的な生活様式を余儀なくされていた家庭は言うまでもないが、魔術でどうにか一通りのことをこなしていたような者たちの生活も激変した。

 魔術と言っても、結局基本的には自分で作業していることには変わりない。

 それをスイッチひとつで代行してくれるというのは、想像以上に便利なものだった。

 とはいえ、現在普及している洗濯機や従来の手洗いよりも、その道のプロの手による──一般家庭の個人の洗濯魔術より高度な──洗濯魔術で仕上げた洗濯物のほうが、汚れ落としにおいても生地の劣化の少なさも仕上がりの肌触りの良さも格段に優れていた。

 そのため、普段は洗濯機、たまのおしゃれ着は洗濯魔術屋に、といった形で、洗濯魔術屋には今も一定の需要がある。

 格式を重んじる魔王城においても、洗濯魔術屋はまだまだ現役として重宝されていた。

 利便性の向上そのものは歓迎すべきことではあるのだが、しかし今後洗濯機の性能が飛躍的に向上し、洗濯魔術屋のそれを凌駕するまでになれば、彼らが職を失い路頭に迷うことにもなりかねない。

『三種の神器』の発案者であるところの男によれば、現行の洗濯機にはまだ改良の余地あり、とのことであったが、そうした諸事情を考慮すると、実のところ洗濯機のような機械類の性能向上を積極的に行うべきか否かについては、一言で言い表すことは難しいものがあった。

 ある種のバランスが取れていると言えないこともない現状は、ベストということはなくともベターであるとは言えるかもしれない、とバアルは捉えていた。

 尤も、当の魔王自身は自前の魔導具で事を済ませてしまっているのだが。

「……ん、何?」

 ぐにゃりと椅子状に変形したベッドで、しゃこしゃこと魔導具に歯を磨かれている魔王を、複雑な心境と共に見遣る。

「……」

 魔王謹製の魔導具は、バアルが知る限りのあらゆる魔導具や機械類の性能を遥かに凌ぐ。

 しかし、突出した機能性に比例するかのごとく、魔力の消費量が著しいものばかりであるのも確かで、ルキフグスがそれら自在に扱えているのも、彼自身の潤沢な魔力量あってのことだった。

 ルキフグスに最適化される形で調整されている魔導具たちは、当然ながらどれも量産には不向きであった。

 そんな魔界一便利な物が揃う、快適な部屋。

 隙あらばここに引きこもろうとするルキフグスの問題は、単なる魔王らしさの有無、のみにはとどまらない。

 ──民の生活の現状、その理解。為政者としての視座。

 仮にも魔王を名乗る以上、当然持ち合わせているべき配慮や素養。

 そういったものを、この男は果たして有しているのか、否か。

 あると断言できたなら、どんなに良かったことだろう。

 それならばバアルとて、自らが誰より尊敬する父が信じた新たなる魔王を素直に誇らしく思いこそすれ、魔王の資質を疑って付いて回り、ましてや命を狙うようなことなど、しなくて済んだはずだった。

 あるいは。いっそそんな資質などありはしないと断言できたなら、どんなに良かったことだろう。

 それならば、悪しき魔王の醜聞を魔界全土に広く喧伝し、魔王城も民もすべて味方につけて、先代魔王の息子の名のもとに、バアルはルキフグスを魔王の座から追い落とすことができたはずだった。

 しかしルキフグスという男は、バアルにそうした決定的な判断をさせるだけの余地を与えてはくれなかった。

 この男、何を考えているのかが全くと言って良いほど見えてこないのだ。

 何がわかっていて、何がわかっていないのか。

 何をどこまで──深く、あるいは先を見通して──考えていて、どのような意図で何をしようとしているのか。

 おおよそそういったことが、表情筋が死んでいるかのようなぼんやりと乏しい表情からは何も伝わってこない。

 ならばと問い詰めても、ルキフグスはのらりくらりとかわすばかりで、バアルが期待するような具体的かつ詳細な返答が得られたことは、未だになかった。

 それが怠惰ゆえのことで、思考の言語化や、言葉を尽くして他者に考えを伝える行為を厭うているだけなのか。

 それとも、これまでどうにかうまくいっているように思えたことは全て危うい綱渡りの連続の上に起きた偶然の賜物に過ぎず、本当はそこまで深い考えや先の見通しなどどこにもありはしないのか。

 底知れない。

 そのことが、バアルにとってはいっそ不気味でさえあった。

 仮にも元魔王子であるバアルは、個人の性格のそりが合わないというだけで誰かを敵視するということは基本的にない。

 そんな男が、どうしてここまで苛立ち、明確に敵視さえするのか。

 ──不安。

 ──この底知れない男を、魔王の座に据えておいて良いものか。

 ──信じてしまって良いのか。……本当に?

 そんな言い知れぬ不安が、バアルを何より苛立たせていた。

 その不安が、ルキフグスに対する警戒心や敵対心、ひいては攻撃性や殺意へと地続きで繋がっているのである。

 そんなバアルの胸中を知ってか知らずか。魔王らしさなど微塵も感じさせない、この怠惰なる魔王は、しかし完全な職務放棄をするでも、悪政を敷くでもなく、少なくとも魔界が立ち行かなくなることがない程度には真っ当な統治を行っていた。

 ……少なくとも、無能ではない。

 それは素直に認めなければならないだろう、とバアルは考えていた。

 本当なら。バアルとてこんな不毛なことなどせずに、安心して魔王の座を任せたかった。

 バアルは、ただ納得したかっただけなのだ。

 ──それがどうして、こんなことに……。

 バアルは声に出すことなく、内心でそうぼやいた。

「……」

「あーあ。嫌だなぁ……」

 バアルの心境を知ってか知らずか、魔王は心底憂鬱そうに呟いた。

「なんだ、何が不満だ」

 またしても神経を逆撫でされ、思わず食って掛かったバアルをよそに、ルキフグスは嘆息した。

「……ついに、ついにこの日が来てしまった」

 表情に乏しい顔も、心なしかげんなりとして見えた。

「今からでも、バアルくんが代わりにやってくれない? 謁見……」

「却下だ」

 とりつく島もない返答に、魔王はがっくりと肩を落としたのだった。


 ◆


「そこまで苦手意識があるというのであれば、なおのことコツコツ消化したほうが良かったのではないか?」

 謁見の間で、バアルは魔王にそう問いかけた。

「まぁ、俺にはそもそも、何故貴様が謁見やパーティーの類をそこまで嫌うのかが理解できないのだが」

「まったく、これだから生まれついての王子様は……」

「生まれはどうあれ、仮にも現魔王である男が何を言うか」

 やれやれ、とバアルは頭を振った。

「誰しも得手不得手はあろうが、公務は公務。公人として、そこは割り切るがいい。それに、本質的な問題は貴様の先送り癖にあるのでは? ここまで溜め込むような真似をするから、余計に着手しづらくなるのだろう。……ハードルが上がる、と言うのだったか?」

「……わぁ。特に苦手なことなんてないデキる奴が言う台詞じゃん、それ」

 君は実際そういう奴だけどさ、とルキフグスは嘆息した。

「皆が皆、器用万能オールラウンダーってわけじゃないんだよ、君と違って」

「ほう、貴様が素直に俺を褒めるとはな」

 バアルは少しばかり気を良くしたが。

「……いや、どちらかと言えば貶してる、かな」

「貴様……」

 そう言われては看過できず、バアルは腕でルキフグスの首を締め上げにかかった。

「ぐぇっ!……ちょ、ギブ、ギブ!」

 魔王は口ではそう言ってみせるが、その表情は余裕そのもので、大して効いていないといった様子だった。

 締め上げているバアルの側も、手応えのなさを感じ取っており、「ちっ」と舌打ちをして腕を下ろした。

「体力知力、運動神経に戦闘センス、魔術の扱いと魔力、それから気力に使命感。すべてがそつなく高水準で備わっているような変わり者は、そうはいないよ。好き嫌いだってあるしね」

 ルキフグスの言葉に合わせて、デフォルメされたイメージを魔導具たちが描き出す。

「何事もそういうものの組み合わせでしょ。魔術のコントロールは上手でも、魔力の総量が少ないからすぐガス欠になるとか。ムキムキの力持ちだけど殴り合いには勝てないとか。悪いことでしか頭の良さを活かせないとか。戦闘力はずば抜けてるのにやる気がない、とかね」

 君はそもそもポテンシャルが高いから、『できない』とか『できるけどやりたくない』とか、そういうことで困ることはほとんどないんだろうね、とルキフグス。

「君は無駄にツンデレを発揮して、俺のことを無能じゃないとよく言ってくれるけど」

「あ?」

「『やりたくないこと』は君より遥かに多いし、『できること』も君ほど多くはない。好き嫌いも激しいし、気力も使命感も薄いから、……噛み合わせが悪いって言うのかな。できないわけじゃないけどやりたくないとか、やるのが嫌なわけじゃないけどデキがいまいちだとか、君からしてみれば合理的じゃないような組み合わせがたくさん出てくるわけ」

「そこで開き直るんじゃあない」

「うーん……。やりたいこととできることが噛み合ってないと結構辛いものがあるって話、これは本当なんだけどね……」

 そうぼやくルキフグスをよそに、バアルは「それで」と問いかけた。

「貴様の中で謁見の位置付けはどうなっているというのだ」

 決まってるだろ、と魔王。

「デキは……よくていまいち。そして、出来の良し悪しにかかわらず、疲れるしやりたくない」

 はぁ、とバアルは嘆息した。

「……先程も言ったことだが、ならば一日にまとめてやろうとせず、少しずつやればいいだろう。小さな成功体験の積み重ねこそが苦手意識の克服や成長に繋がる、という話はあながち馬鹿にはできないと、俺は身を以て知っているぞ」

「……うわ、嫌な響き」

 魔王は露骨に顔を顰めた。

「なんだと」

「やめてよね、そんな育て直しみたいな……教育的指導と言う名のお説教は」

「俺は貴様の親になった覚えはないぞ。……というか、幼稚なことを言っている自覚はあったのだな……」

 多分これはバアルくんには言ってもわかってもらえないと思うんだけど、と魔王は前置きした。

「よその人と会うの、それだけで気力も体力もごっそり持っていかれてしんどいんだよ……。それに、かっちりした公的な場面でそれらしく振る舞えって言われるのも、苦痛なんだよ、俺には。その両方が合わさる謁見やパーティーともなれば、もはやさながら地獄だよ」

 ここ魔界だけど、と魔王は付け加えた。

「そんなものが、小分けになって毎日立て続けに控えてるだなんて……、そんな状況、俺には絶対堪えられない……。というか、もしそんな状況に追い込まれたら、多分辛すぎて失踪するね、俺は」

「……」

「どうしても人と会わなきゃいけないような予定は、極力一日にまとめたい。外向きの堅苦しい予定もそう。そんなものに頭を悩まされなくていい日は、多ければ多いほど良い。そういうものなんだよ、俺にとっては」

 バアルはやれやれと頭を振った。

「理解に苦しむな」

「……こればかりは、わかる人にしかわからないと思う」

「……貴様が魔王でさえなければ、貴様のその主張をとやかく言うこともなかったのだろうがな。とはいえそうも言ってはいられないのが魔王業だ。内心気が進まないというだけなら構わんが、好き嫌いを理由に政を滞らせるようなことは、絶対にあってはならないことだ」

 端正な顔をずずいっと近付けて、職責を全うしろ、とバアルは凄んでみせた。

「それができないというのなら、お前の末路はふたつにひとつだ。俺に魔王の座を譲り渡してこの城を去るか、俺に殺されて魔王の座を力ずくで奪われるか」

「んー……、殺されるのは嫌だなぁ。生にそこまで執着はないけれど、死ぬときは自分の意思で、がモットーだもんで」

 相変わらずののらりくらりとした反応に、バアルは嘆息した。


 ◆


「どうか、……どうか、私を妻として、ここ魔王城にお迎えくださりませ!」

 謁見の間。

 魔王を前に上げられたその声に、バアルは思わず目を剥いた。

「……えーと。マモン嬢?」

 ルキフグスは額に手を当てながら問うた。

「すまない。連日の公務の疲れからか、少しばかり耳の聞こえがおかしくて……な」

 ルキフグスにしては珍しく、外面を取り繕ってみせたのだが。

「あら、それは大変ですわ! やはりここは私がお支えして参らねばなりませんわね! 妻として! 公私共に!」

「うおぉ……」

 どうか聞き間違いであれ。

 そんな僅かな希望を砕かれ、ルキフグスとバアルのどちらからともなく、微かな呻き声が漏れた。

「あー、マモン嬢。君は東方の貴族の娘であろう」

「ええ、バアル様」

 そう言って、豪奢な衣装に身を包んだ令嬢、マモンは優雅に一礼してみせた。

「それはそれは。遠路はるばる、ようこそお越しくださった。しかし失礼ながら、これまで魔王……様とは何か、例えばふみのやり取りなどはなさっていたのだろうか? そのような話は耳にしていないのだが」

(ええい、ここは割り切るのだ、俺……!)

 大いに不本意そうにルキフグスに様付けをしたバアルの問いに、マモンは「まあ!」と声を上げた。

「私、恋文こいぶみでしたら何通もしたためておりましてよ! 残念ながら、お返事を頂戴することは叶いませんでしたけれど、表舞台にほとんど姿をお見せにならない謎多き魔王様はどのような方なのかしらと、私は日々想いを募らせておりましたの」

「……」

 マモンの言葉を受けて、バアルは玉座のルキフグスにひそりと耳打ちした。

「……おい。貴様、身に覚えはあるか?」

「……俺宛の手紙、中には公的文書には書けない類の告発や嘆願が含まれているかもしれないからって、基本的には一応すべて目を通すことにしてるんだけどね。その……ラブレターは、一切読んでなかった。全部未開封。……というか、ちょっと燃やした」

「……何故」

 バアルは頭を抱えた。

「だって面倒くさいじゃないか。会ったこともないような魔族から、ひっきりなしに縁談が持ち込まれるの。こちとらラブレターの『お慕いしております♡』って文章を追うだけで気が滅入るんだよ? それに、君も覚えがあるだろうけど、相手によっては身体の一部とか、性質の悪い呪術の触媒とかを同封して送ってくるじゃん。俺嫌だよ、本当無理。封筒すら見たくないもん。焼却処分が妥当」

 ルキフグスはいやいやと首を振った。

「……まぁ、部分的に共感できる箇所がないではないのだが。……その結果がこのざまか」

「……」

 魔界の頂点に立つふたりの青年は、内心げんなりとしながら、令嬢に視線を戻した。

此度こたびはそんな雲の上のお方とのお目通りをお許しいただくことが叶いましたから、やっと私の想いを直接お伝えできる好機が巡ってきたと思い、馳せ参じた次第でありますわ」

 マモンはそこでわざとらしく咳払いをして、改めてルキフグスの顔を見据えた。

「……重い腰を上げてこうしてお会いいただけたということは、ぶっちゃけ脈アリですわよね? 私のこの想いにお応えいただけると、期待してしまってもよろしいんですわよね? この際、第二、いえ第三夫人の立場でも構いませんわ」

「うわ怖い……」

 勢いに気圧されながら、ルキフグスは傍に立つバアルへと、乞うような視線を向けた。

「バアルくん。良いかな俺、外向きの対応やめても……。ここは無礼講ってことにしちゃ駄目かな……」

「俺が駄目と言ったところで、貴様は聞かんだろう」

「あ、バレた?」

「はぁ……」

 呆れるバアルをよそに、ルキフグスはマモンに目を向けた。

「魔王っていう肩書きや地位に惹かれてのことだろうとはいえ、会ったこともない相手に、こんな思ってもないこと、よく言えるね。本気でそう思ってたらそれはそれで怖いけど、君の場合はそうじゃない。それは君自身が一番よくわかってるよね」

「あの……魔王様?」

 マモンは首をこてりと傾げるが、魔王はとぼけることを許さなかった。

「そもそも俺の何を知って求婚してるんだって感じだよ。世間は知らないのかもしれないけどさ、俺は究極の面倒くさがり、ものぐさなわけ。縛られるのが嫌いで、甲斐性もなにもあったもんじゃない。マジで地位だけの男なんだよ、俺は」

やれやれといった様子で首を振りつつ、魔王は続ける。

「勝手に期待だけ膨らませて、それでいて少しでも期待と違ったら幻滅したとか言われるのには、もういい加減ウンザリしてるんだよね。でも、そもそも会ったこともなかった君とは、それ以前の問題だろ」

「そ、そんな……」

「……」

 ──恋文未読の焼却男が、よく言う。

 バアルは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「お互いの立場上仕方ないとはいえ、建前だけ話して取り入ってやろうって感じが気に食わない。疲れる。相手が魔王だからって気にしなくて良いから、本当のところを話してくれない?」

「……ひどい。私はただ、貴方のことをもっと知りたいとお思い申し上げただけですのに……」

「……お、おい。ルキフグス……」

 俯いて肩を震わせるマモンを流石に気の毒に思ったバアルが小声で咎めるが、魔王は表情を変えず──否、嫌そうに「よく見なよ」とマモンを指し示した。

「何を言って……」

 促されて顔を向ける。

「……ちっ。泣き落としも通用しませんのね」

「……マモン嬢?」

 舌打ちと共に顔を上げた彼女は、涙など一滴たりとも流してはいなかった。

「ええ、魔王様の仰る通りですわ。魔王という肩書き、地位に名誉。それがなかったら、誰が貴方など相手にして差し上げるものですか」

 先程までのしおらしさは何処へやら。

 マモンは一転、高飛車な態度で、不遜にも開き直ってみせた。

「どうしてそこまでするの? 君の家、昔は傾いた時期もあったとは聞くけど、今はそうでもないだろう?」

「ええ。両親共に健在で、跡継ぎとして補佐に入った弟もなにかと優秀ですから、そのご心配には及びませんわ。事業や生活が立ち行かなくなるということはまずないでしょうから」

 とはいえ何かご支援を賜ることができるということであれば、それは願ってもないお話ですけれど、とマモンは付け加えた。

「……そう」

「ええ。ですから、私がこうして行動しているのは、あくまで自分のため」

「……というと?」

「嫌ですわね魔王様、とっくにお気付きでしょうに」

 マモンはロールヘアーをふぁさりと軽く掻き上げて、ふてぶてしくも胸を張った。

「狙うは玉の輿、ですわ! 強欲上等、あわよくば富と地位と名誉を手に入れて、夫となるべきキラキラした殿方から、蝶よ花よとチヤホヤされたい! そう、さながら絵本のお姫様のように!」

「……」

「……」

 ルキフグスは、はぁ、と大きく嘆息した。

「欲望に忠実なのは大いに結構。はっきり言ってくれただけ良かったよ。俺と無理矢理結婚に漕ぎ着けたところで、君が夢見るような生活は実現しないって、この様子だと君も察しはついただろうし」

「……」

「お、おい、ルキフグス?」

 黙り込むマモンにバアルは慌てたが、当の魔王は意に介さなかった。

「いやさ。自分で言うのもなんだけど、そもそも俺こんなんだよ? キラキラもお姫様扱いも、俺に求めるのはどう考えても間違ってるでしょ」

 ルキフグスはやれやれと言いたげに、ひらひらと手を振った。

「……」

 ──無駄に説得力はあるが、さも当たり前のように自分からそのように言うのは、どうかしている。

 どんな神経をしているのかと、バアルは端正な顔を顰めた。

「第一、魔王っていうのも、先代から指名を受けたからやってるだけで、俺自身は名家の出でもなんでもないからね。貴族教育も受けてないし、由緒ある家特有の太いパイプがあるわけでもないしさ。俺を手に入れたところで、特にステータスになるわけじゃない。とにかく俺はおすすめできないし、そういう意味では、そこにいるバアルくんのほうがよっぽど優良物件だと思うんだけど?」

「は?」

 水を向けられて、バアルは内心憤るが。

「ええ、そうですわね」

 マモンは首肯した。

「ここ魔界において、バアル様の人気は絶大ですもの。れっきとした王子様で、秀才かつ眉目秀麗。何かと注目されるお立場でありながら、これまでこれといった醜聞もお聞きしておりませんし。まさに憧れの的、という感じですわね」

 とはいえ、と令嬢は首を振った。

 横に、である。

「どこが、とはうまく言葉にはできないのですけれど、バアル様を殿方として見ることが、私にはどうしてかできないんですの。……だからこそ、未知数だった新魔王、ルキフグス様に一か八かでアプローチをかけましたのに、とんだ見込み違いでしたわ。こんなの論外ですわ、論外! 嗚呼……っ、こんなことなら、おとなしくバアル様にしておくんでしたわ!」

「……」

 ──本人を目の前に言うことか? これが……。

「ふふ。バアルくん、何もしてないのにフられた感じになってるし」

 バアルは若干憮然としながらも、鼻を鳴らした。

「貴様こそ。論外の男が何を言うか」

「や、でも変に夢を見られて、期待を胸に擦り寄られるよりよっぽど良いよ。向こうから諦めてくれるなら、楽で」

「……貴様はもう少し、体面というものを大切にすることを覚えるべきだ」

 バアルは嘆息し、やれやれと首を振った。

 ルキフグスは若干忍び笑いをしながらマモンに語りかける。

「俺の件はともかく、バアルくんについては、あれだね。強欲お嬢様の嗅覚も、なかなか侮れないというか」

 くっくっと喉が鳴る。

「義務感の強い堅物石頭で、世話焼きの苦労人と言えば聞こえは良いけど結構口うるさくて、それでいてプライドが高いし。バアルくんの育ちの良さは本物だから、礼儀作法としてのエスコートはできるんだろうけど、肝心なところでデリカシーがないからね」

「あぁ……。なんか、わかりますわ、それ……。なんとなく、ではありますけれど」

「悪口……!」

 バアルは頭を押さえて低く呻いた。

「いや、これは褒めてるよ。文武両道、公明正大、眉目秀麗の本物の王子様。それでいて、いざ話してみると意外と庶民的で親しみやすい。それでいてお人好し。時々鬱陶しいぐらいで、特に欠点はないって言ってるようなものだし」

「ええ。この上なく完成されていると言いますか、一般的にはかなり需要が高いタイプの殿方であることは間違いありませんわ。私の需要とはマッチしなかったというだけのこと。バアル様におかれましては、どうかお気になさらず」

「……」

 ──なんだろう、釈然としない。下手をすれば、普通に罵倒されるよりもどことなく惨めでさえある。

 やり場のない感情に、バアルは拳をぎゅっと握ることしかできなかった。

「ま、そんなわけで。バアルくんに飛び付いても、君が期待するような蝶よ花よのお姫様扱いは、本当に期待できなさそうだ。というか、なまじ本当に王子様だから、俺たちの言う『お姫様扱い』にも、いまひとつピンときていないみたいだし?」

「ぐぬぅ……。上に立つ者には、相応の義務と責任が発生するものだろう。魔王や王子、その縁者になったからといって、それが消えてなくなることはまずない。いや、むしろ……と言ったところか。この男はともかくとして、これはマモン嬢も知らないはずがないことだと思うのだが。……この男はともかく」

「わ、そういうことじゃないんだよ。わかってないなぁバアルくん。俺たち、もっと夢や浪漫のある話をしてんの」

「そうは言っても、夢や浪漫で立場が務まるわけでも、生きていけるわけでもないからな。特にルキフグス、貴様は夢や浪漫を語る前に、もう少し地に足を付けて魔王の務めを果たせ」

「うへぇ」

 ルキフグスの表情がぐにゃりと溶けた。

「なんだ、その顔は」

「いや……」

 それでも、とマモンは胸を張った。

「都合良く、良いとこ取りで、すべてを欲しがること。これは決していけないことではない、というのが私の主義ですの。我が儘は言った者勝ち、夢を見るのもまた自由、ですわ」

「まぁ、俺としては。ターゲットをバアルくんに切り替えた君が、この魔王城をどう引っ掻き回してくれるのか、正直なところ興味があったから。その光景を見られそうにないのは、少しだけ残念だけどね。……ね、今からでもバアルくんを狙ってみない?」

「なっルキフグス貴様……! どうして貴様はいつもそうやって……!」

 厄介事の気配に身を強張らせるバアルだったが、マモンは「いいえ」と首を振った。

「ルキフグス様。これは貴方のせいでもありましてよ。私の本性というものを、私がこうして自ら露(あらわ)にしてしまった以上。今からどう取り繕ったところで、バアル様と仮初めならぬ関係となれる目はないでしょう。望み薄というものですわ」

「いやいや。バアルくん、これで結構チョロいから。案外、押せばなんとか」

「そういうものでしょうか?」

「うん」

 いけるいける、と頷く魔王を横目に、バアルは項垂れた。

「やめてくれ……」

「ま、バアルくんを相手にやるかどうかはともかくとして、だ」

 ルキフグスはぱん、と手を叩き、マモンに呼び掛けた。

「取り繕い、猫を被り続けて。それで本当に君の欲しいものは手に入るのかな」

「……どういう意味ですの」

「君が望んでいるのは、一回手に入れたら終わりの、ただの物ばかりじゃない。玉の輿に乗って、お姫様扱いしてくれるキラキラした男とくっついて。そこまではいいけど、その後は? 猫を被り続けるのかい? そんなの、それこそ悠々自適な生活とは程遠いだろうし、きっとどこかでボロが出る」

「……」

「そうならないようにと、手に入れた途端に猫被りをやめたらやめたで、心証が悪くてその後に響くだろう。猫を被った君の幻想を餌に釣っておいて、釣った魚に餌をやらないのは嫌がられるよ。やれ騙されただの幻滅しただの、そういう謗りは免れないだろうし、婚約破棄かはたまた離婚、果ては慰謝料請求だとか、色々ゴタゴタしそうじゃない」

「それは……」

 口ごもるマモンのほうへ玉座から身を乗り出して、だからさ、とルキフグスは続けた。

「都合良く、良いとこ取りで、望むすべてを手に入れる。それが君のポリシーだと言うのなら、いっそ変に猫を被って強欲さを隠して取り入ろうとするんじゃなくて、むしろ正直に見せていってみたら? そこも引っくるめて君を受け入れてくれる相手こそ、君が望む『夫となるべき殿方』ってやつなんじゃないかって、俺なんかは思うんだけどね」

「……!」

「……」

 目を輝かせるマモンと、沈んだ面持ちになるバアル。

 対照的な反応を見せたふたりだったが、両者のうち先に口を開いたのはマモンだった。

「確かに。割に合わない我慢をしようとすまいと、私が欲しいのは結果。望むなら徹底的に、納得が行く形で、と。なるほど、そのほうが筋が通っていると考えても良い気がいたしますわね……」

「お、おい……! ご令嬢相手に無責任なことを言うんじゃない……!」

 バアルは慌ててルキフグスを窘めたが。

「主催者である魔王様がこう仰っているんですもの。きたるパーティーでは心機一転、正々堂々と戦いに臨むことにいたしますわ……!」

「た、戦い……?」

 困惑するバアルに、マモンは不敵に微笑みかける。

「あら。バアル様ほどの御方が、まさかお心当たりがおありでない? あれほど引っ張りだこですのに」

 マモンは言葉を切る。

「一見お淑やかな方であっても。案外、腹の底には虎を飼っているものですわ。令嬢同士の腹の探り合いに、さりげない牽制と、マウント合戦。出しゃばりすぎても控えめすぎてもいけない、殿方へのアピール合戦。将来性のある殿方をめぐる、ええまさしく戦いに他なりませんわ」

 そう言って、マモンはどこか吹っ切れた様子で、恭しく頭を垂れた。

「魔王陛下、そしてバアル様。努々ゆめゆめお気をつけくださいませ。私が言えたことではございませんけれど、皆様見かけと違って結構ガツガツしていらっしゃいますから。ハニートラップで既成事実を、ですとか、手段を選ばない御方は……なんというか、本当にえげつないですわよ。……それこそ、先程までの私の所業が可愛く思えてくるくらいには、ね」


 ◆


 溜まりに溜まった謁見希望の量は相当なものであったが、ともあれこの一日でかなりの数を捌くことができた。

 謁見を通じて把握した、魔界各地の現状と課題、そして嘆願の内容を頭の中で整理しながら、魔王とバアルは城の廊下を歩いていた。

「西方はゴタゴタが山積みだけど、それでも課題や対策がわかりやすいだけまだマシって感じだね。北方の連中はどうも腹の底が読めないっていうか……どうもキナ臭い。少し探っておかないとだ」

「あぁ。それと──」

「お兄様」

 バアルが何かを言いかけたその時、背後からそう呼び掛ける者の姿があった。

「アスタロト」

 緑がかった銀の髪と、鮮血を思わせる紅の瞳の持ち主は、バアルに名を呼ばれにこりと微笑んだ。

 それはまるで花開くように可憐な笑みであったが、同時に見る者の背筋に冷たいものが走るほどの妖艶さを孕んでいた。

「お兄様、そしてルキフグス様。本日のご公務、誠にお疲れさまでございました」

 そう言って優雅に一礼するアスタロト。

 バアルの妹である彼女は、兄の身長には及ばないものの、魔族男性として比較的小柄であるルキフグスを悠に超える長身である。

 抜群のプロポーションを持つ彼女には、白と黒を基調としたドレスと、薄い紫でまとめられた化粧がよく似合っていた。

「うん、君も警護をありがとう。本来ならそういうことをする立場じゃないのに」

 ルキフグスの言葉に、アスタロトは「いいえ」と首を振った。

「先代魔王の娘とはいえ私は私。城の一員として、しっかり働かせていただきますわ。……それに私、強いですし」

 そう言いながら、心なしか胸を張るアスタロト。

「今の聞いた?」

「おい、聞いたか」

 魔王とバアルはほぼ同時にそう声を上げ、顔を互いに見合わせた。

「先代の娘という立場に驕ることなく、城の一員として頑張ってくれるんだってよ? バアルくんも『俺のほうが魔王の座に相応しいのに~』とかいつまでもいじけてないで、兄として少しは見習ったらどう?」

「なっ……! いじけてなどいない、いないぞ。そんなことより、貴様こそ。アスタロトの勤勉さに倣って、少しは真面目に働いたらどうなのだ」

「……勤勉、ねぇ」

「?」

 微妙な顔をするルキフグスに、バアルは首を傾げるが。

「……あぁいや、なんでもない。こっちの話」

 ルキフグスは誤魔化すように首を振った。

「それより」

 アスタロトは笑みを少し控えめなものにして、言葉を紡ぐ。

「先程、……マモン嬢でしたかしら? ご令嬢とお話をされていたのを聞いていて、少しばかり気になったのですけれど」

 アスタロトは僅かに言い淀むようにして言葉を切った。

「おふたりは色恋や縁談というものを、どのようにお考えなのでしょうか? 噂らしい噂も私の耳に入ってきてはおりませんけれど……、気になるお相手などはいらっしゃるのですか?」

 その問いに、バアルは腑に落ちないといった様子で眉を寄せ、ルキフグスはほんの僅かに身を固くした。

「俺は、良い話があれば検討はしようと思っている。だが、政争の道具にされて危険が及ぶ可能性を思えば、妻子をもうけることには慎重にならざるを得ないというのが正直なところだ」

「あれ意外。バアルくんのことだから、てっきり子供を担いで俺を引き摺り下ろそうとするんじゃないかと思ってたんだけど」

 ルキフグスの言葉を受けて、むっとしたような、それでいて複雑な表情が、バアルの顔に浮かぶ。

「母上であればそうしただろうさ。母上がご存命であったなら、そうするように仰っていただろう、とも。だが、俺自身はあまりそういったことをしたくはない。それこそ俺が魔王でさえあったなら、我が子をいち早く後継者候補とするべく、そろそろ然るべき相手と婚姻関係を結んでいた頃かもしれないが。不本意ながら、今の魔王は貴様なのだ」

 バアルは渋面のまま続ける。

「現状、俺が貴様より先に妻子をもうけることは、不和の種にしかならないだろう。先代魔王の直系にあたる幼子は、何かと狙われやすい。貴様自身の指示はなくとも、命を奪おうとする輩がいないとも限らない。交渉材料の人質として拐われて、挙げ句反体制派の御輿として担ぎ出されでもしたら……」

「あぁうん。幼いうちに暗殺するなり、誘拐して操り人形に仕立て上げるなりする手は、有効ではあるよね。まぁ俺はまずやらないけど、各地の諸侯のお歴々がどう出るかはわからないというか」

「あぁ。その幼子が『魔王の子』でさえあれば、却って立場が身を守ると言うべきか、大手を振って護衛を固めることもできようが、生憎そうではない以上、利用価値や危険に比して、難しい立場に置かれるであろうことは間違いない。それがわかっていながら、そう易々と妻を迎え入れようという気にはなれん」

 俺の沽券に関わるからな、とバアルはどこか誇らしげだ。

 ふぅん、とルキフグス。

「つまり君は、俺から魔王の座を奪い取るか、俺が君も認める立派な魔王になって先に妻子を作るかしないと、安心して結婚もできやしない、と?」

「……結婚は俺にはまだ早い、と思う理由はなにもそればかりではないが」

 バアルはそう前置きして言う。

「とはいえ、仮に良家のご令嬢から求婚があったとして、俺が受け入れるのを躊躇う理由としては、それが一番大きくなってくるだろうな」

 なるほど、とルキフグス。

「で。そう言う貴様はどうなのだ、ルキフグス」

 そう問われ、ルキフグスは一瞬言葉に詰まる。

「いや、俺は貰ったラブレターを火にくべる男だよ? 恋愛も結婚も、当分予定はないな。疲れるし、面倒だからね」

 それに、と続ける。

「さっきも言った通り、俺みたいな甲斐性なしを好き好んで伴侶にしたがるような物好きなんて、魔界広しと言えどもそうそういないよ」

「……」

否定しがたい、とバアルは思った。

「それに、仮にそんな物好きが現れたとして、俺と本当に合うって保証もないしね。だからさ、結婚が俺より先だとどうとか後だとどうとか、あんまり意識されても困るな。バアルくんの事情はわからないでもないけど、これでも不穏勢力の炙り出しは進めてて、バアルくんが家庭を作って平穏に暮らす分には心配いらないぐらいにはなりつつあるんだから」

「……」

 ルキフグスの言葉を受けて沈黙するバアルをよそに、アスタロトは、ふむ、と頷いた。

「……それで? アスタロト、わざわざ俺たちにそんなことを訊くなんて、いったいどういう風の吹き回し?」

 どこか嫌々といった様子のルキフグスにそう問われ、アスタロトは微笑んだ。

「いえ。興味が半分、打算がもう半分といったところでしょうか」

「?」

 首を傾げるバアルに、アスタロトは問う。

「バアルお兄様。もし、私がルキフグス様と伴侶として連れ添いたいと言ったら、お兄様はどうされますか?」

「……!」

「……」

 その言葉にバアルは凍り付き、ルキフグスは呆れた様子で小さく息を吐いた。

 温かく見守ってくださるのでしょうか、と続いたアスタロトの言葉も、もはやバアルの耳には入っていない様子であった。

 ギギギ……とゆっくりと振り返り、バアルはルキフグスを睨み付けた。

「貴様、俺の可愛い妹に何をした……!」

「えー……」

 ルキフグスは不服そうだ。

「ア、アスタロト。悪いことは言わない。この男だけはやめておきなさい」

 バアルは狼狽しつつも説得を試みた。

「あら。我ながら悪くない考えだと思っていたのですけれど。……と、言いますか、実のところ政略結婚の相手としてはお互い筆頭候補なんですよね、私たち」

 さらりと言うアスタロト。

「失礼ながら、ルキフグス様はこれまで魔王を輩出してきた家系のお生まれではないでしょう? 歴代魔王の血を色濃く継いでいる私たちと血縁関係になることで、先代お父様やお兄様とで分け合う形になってしまっている民衆の支持というものを、ご自分のもとに集約していく足掛かりを得られることでしょう。私たちも単なる『先代様のご子息・ご息女』ではなく『当代魔王様の身内』としての恩恵に浴することができるわけですからね。利害や目的がわかりやすい分、黒い思惑を隠して近付いてくる有象無象よりも、余程信頼できましょう?」

「……」

 一理ある。

 あるのだが。

 つらつらと淀むことなくそう語るアスタロトを前に、バアルは再び硬直し――やがてプルプルと震え出した。

「アスタロト……、いつの間にそこまで考えて……! いやしかし、お前がそんなことを気にする必要などない、ないのだ……! 妹の幸せを願うただの兄としては、この男と結ばれるなど、俺は到底容認できん……!」

 そう言いながら、ふらりとよろめいて、バアルは口許を押さえるようにしながら「アスタロト。悪いが、少しひとりで考えさせてくれ」と震える声で呟いた

「いやぁ。心配性だね、は」

「貴様を弟に持った覚えはない!」

 へらりと笑うルキフグスに、バアルは食って掛かる。

「そしてこれからも、そんな予定ありはしない。貴様がどんな手を使ってアスタロトを誑かしたのかは知らんが、認めない、俺は絶対に認めないからな……!」

 そう捨て台詞を吐いて、バアルは闇に融けるようにして姿を消した。

「……行ったね」

「ええ。転移魔術……近くに気配はありませんわ」

 顔を見合わせてそう確認した後、ルキフグスは「ぶはぁ」と大きく息を吐いた。

「城の一員として精一杯働かせていただく、だっけ? よく言うよ……。アスタロト」

 本来の君は勤勉という言葉には程遠い、怠惰で狡猾な悪魔だろうに。

 ルキフグスの言葉に、アスタロトは「あら。何のことでしょう?」と肩を竦めた。

「……。良い子ちゃんを気取るのはまぁ良いとしても、俺をダシにバアルくんの気を引こうとするのはどうかと思うよ……」

「仕方ないじゃあないですか。バアルお兄様が鈍感すぎるのがいけないんです」

「あー……。それはそう。君からどんなに率直にアプローチをかけられても、兄妹としての親愛の情だと信じて疑わないから、暖簾に腕押しもいいところなの、あそこまでいくと逆に凄いよね」

 はは、と乾いた笑いを漏らしながら、ルキフグスはバアルとアスタロトのこれまでのやり取りを思い返す。


『お兄様。お慕い申しておりますわ。兄としては勿論、……その、一人の男性としても』

 アスタロトからそう告げられ、何を言い出すかと思えば。

 バアルは『ふふん。わかってくれたか。そうだろう、そうだろうアスタロト。俺は兄として、男として、妹のお前に恥じない振る舞いを常に心がけてきたのだからな』とどこか誇らしげな顔をしていた。

『ええと……?』

『俺はな、アスタロト。多感な年頃のお前に嫌われたら……嫌いだとか臭いだとか近寄らないでだとか、そんなことを言われたらきっと立ち直れない。そう思ったからこそ、そうならないように努力を重ねてきたのだ』

『……』

『俺の努力に気付き、よもや認めてくれるとは。いやぁ良い妹を持った。兄冥利に尽きるというものだ。……?』

 なんとも言い難い空気が流れていることだけは察知したらしいバアルは、首を傾げた。

『……あぁ。勿論俺も、アスタロトが立派に育ってくれたことを、誇りに思っているぞ?』

 違う、そうじゃない。

 なおも『目に入れても痛くない、俺の自慢の妹だ』などとのたまうバアルをよそに、その場に居合わせていた誰もが内心そう突っ込んだ。

『……。ではお兄様、式はいつにいたしましょうか。国を挙げて盛大に、良い式にいたししましょうね』

『? ……式? 何のだ?』

『……』

 アスタロトは笑顔のまま沈黙したのだった。


「バアルくんのアレ、あそこまでいくと本当にすごいよね。わかっていてとぼけてる……って感じでもなさそうだし」

「ええ。きちんと認識できていたなら、『俺たちは兄妹だぞ?』とかなんとか、とにかく常識的なことを仰るでしょう。それをすっ飛ばしてとぼけることができるようなお人柄ではありませんから」

「……。そのくせしっかりシスコンだし、鈍めとはいえバアルくん自身が絡む話でさえなければ色恋沙汰の話も理解はできるみたいだし。……もしかして、そういう認識操作でもされてるとか? 何かの呪い?」

「さぁ……。なにぶん幼少のみぎりからあの調子ですから。生来の性分と言ってしまっても差し支えないかと」

「……」

 それはアスタロトの側も幼少期からああして告白、もとい求愛を繰り返してきたということだろうか。

 ──生来のものというより、色恋沙汰もわからないような歳から長年アスタロトに猛アタックされたせいで、彼の中で何かが麻痺したのでは?

 ルキフグスは訝しんだが、口には出さないでおくことにした。

「それに。今は亡きお母様も、厳格なお方でしたから。潜在的な女性恐怖症の気があって、無意識に理解を拒んでいらっしゃる節はあるのかもしれません。尤も、お母様はお兄様が九つの頃に身罷られましたから、私としては記憶も朧気で、今となってはお兄様とお母様の間に何があったのか、もはや思い出すことも叶いませんが……」

「ふぅん?」

 なるほど、そういうことであればあの不自然なまでの鈍さにも得心が行くというものだ。

 とは言っても、限度はあるが。

 要は一種の防衛本能のようなものなのだろう。

 それにしても、と魔王は声には出さずに内心で呟く。

 ──女難の相、と言って良いのかはわからないけど。バアルくん、苦労してるなぁ。

 現在進行形で振り回している自身のことは棚に上げて、しみじみとそう思いながら、ルキフグスはアスタロトにじっとりとした視線を向けた。

「まぁ、俺は君が実の兄に懸想けそうしていたからって、それを咎めるような立場にないし、そんな気もないけどさ。……君たちの恋愛事情に、俺を巻き込むのはやめてもらえないかな。俺と君が結婚するとか、何あれ。思ってもないことは言うもんじゃないよ、ぞっとしたよ、本当に」

「……ええ、本当にその通り。思ってもいないことは、冗談でも言うものではないですわね。先程は自分で言っていて、思わず虫酸が走りましたわ」

 ルキフグスは、冷ややかな笑顔を崩さないアスタロトとじっとりと睨み合った。

 当代魔王ルキフグスと、先代魔王の娘アスタロト。

 バアルや他の魔族の手前、表向きは当たり障りのない関係であるように見せてはいたが、実のところ両者は犬猿の仲であった。

 ルキフグスとバアルの間のそれとは異なり、特に決め手となる出来事があったわけではない。

 しかし、決定的に『合わない』──同族嫌悪に近いそれを、ふたりは互いに肌で感じ取っていた。

「……。あと、謁見の間での警護。あれも体のいい口実で、君の目的はバアルくんへの縁談チェックと、ご令嬢への牽制だろう?」

「ええ」

 にこり、と刺のある微笑みを浮かべるアスタロト。

「よくお分かりで」

 ルキフグスは小さく嘆息した。

「多少のことは黙認しようと思ってたけど、流石にご令嬢に向けて殺気を放つのはやめてよね。度を越してる。なんでもないように振る舞ってはいたけど、あの現金なマモン嬢でさえ怯えてたよ? 可哀想に」

「あら、それは申し訳ないことをいたしましたわ。……とはいえ、お兄様に万が一のことがあってからでは遅いですから。仕方のないこと、ですわ」

 口とは裏腹に、さして悪びれる様子もなく微笑むアスタロト。


 彼らには知る由もないが、時を同じくして。魔王城近郊の別邸へと向かう魔導馬車の中で、マモンはぶるりとその身を震わせていた。

「……お嬢様、いかがなされましたか」

 従者のガープの問いに、彼女は首を横に振った。

「いいえ、少しばかり寒気が……」

 そう応じながら、彼女は謁見の最中のアスタロトの様子を思い返していた。

(あの異様なまでの威圧感、そして殺気……。元魔王女殿下、アスタロト様。バアル様に悪い虫がつかないようにと、常に目を光らせているという話だけは耳にしていましたけれど、なるほど噂に違わぬ隙のなさ。バアル様がこれまでご令嬢たちの毒牙にかかっていないのは、本人の鈍感さだけではなく、手強すぎる妹アスタロト様の奮闘によるところも大きいのでしょうね)

 尤も、とマモンは小さく息を吐き、窓の外へと目を向けた。

(あれに気付かないバアル様も、どうかしていると言いますか。空恐ろしくさえありますわね)

「今度のパーティーも、どうなることやら……」

 強欲令嬢は人知れずそう呟いたのだった。


「今度のパーティーも、どうなることやら」

 先が思いやられるよ、と当代魔王ルキフグスは首を振った。

「仮にも主催側の一員のはずの君がその調子じゃ、参加者に死人が出るよ。……ちなみに、今からでも参加を取り止めたりは……」

 ちら、とアスタロトの表情を窺うルキフグスだったが、やがて諦めたように肩を落とした。

「しないよね……」

「それこそ愚問ですわね」

 アスタロトはさらりと即答した。

「平時であればいざ知らず、賓客が入り乱れるパーティーですよ? お兄様の心を奪う者が万が一、億が一でも現れたらと思うと、私だけ不参加など、考えるだけで正気を保てそうにありませんわ。許しません。お兄様狙いの不届き者どもに、牽制……いえ、制裁をしなければ、私の気は済まないでしょう」

「またそんなこと言って……バアルくんの鈍さなんて、君が一番良く知ってるだろうに。まず心配いらないでしょ、あの朴念仁は」

 ルキフグスのその言葉を受けて、アスタロトの表情がぴくりと強張った。

「……ルキフグス様。見逃して差し上げようとは思っていたのですが……。先ほどから、愚弄していますか? お兄様のことを」

 表情だけは笑顔を保ったまま、凍て付くような殺気を放つアスタロト。

 対するルキフグスは、降参といった風にひらひらと手を振った。

「まさか。君も知っての通り、俺は自分の欲望に忠実だからね。面倒だなぁサボりたいなぁって、いつだってそれだけの男だよ、俺はね」

「……そうですか」

 くれぐれも、と魔王は念を押した。

「穏当に頼むよ、アスタロト。俺だって君の恋愛事情に口出しなんてしたくはない。まして手出しなんて、頼まれたってやりたくないんだよ。パーティーだけでも憂鬱なのに、これ以上仕事を増やしてくれるなってこと。……はぁ、逃げ出したい。今すぐにでも」

「あら。私としては一向に構いませんけれど? お兄様も晴れて魔王の座に就いて、きっと大いに喜ばれることでしょうし」

 アスタロトは鼻で笑ってみせたが。

「バアルくんが魔王になったら、妹の君がバアルくんと結ばれる目は、完全に失われそうだけどね……」

 その言葉に、彼女は笑顔で数瞬ほど凍りつき。

「……善処、致しますわ。つつがく、穏当に、粛々と。夜会が無事執り行えるように、精一杯努めさせていただきます」

 渋々といった様子で、そう応えたのだった。


 ◆


 カツカツカツ、と靴音を響かせて、バアルは魔王の寝室へ、その歩調を緩めることなくまっすぐに向かっていた。

 いつもの通り、勢い良く扉を押し開け──ようとして。

「……?」

 開かない。

 違和感を覚えつつも、もう一度押す。やはり動かない。

「ええい! どうせまた性懲りもなく寝ているのだろう! さっさと開けろ!」

 ガンガンと扉を叩きながらそう呼び掛けるバアルであったが、依然として部屋の主の応答はない。

「なんとか言ったらどうなのだ……!」

 力任せに扉を殴りつけたその時、それまでびくともしなかった扉が、あっけなく開いた。

 つかつかと寝台へと歩みより、バアルは毛布に手をかけた。

「ええい! 小癪な真似を──」

 バアルの言葉が止まる。

 常の攻防であれば、魔力が網のように巡らされている毛布を引き剥がすのは容易なことではない。

 そのはずだった。

 しかし、ありうべき抵抗というものが、一切感じられないまま。力んだバアル、その勢いのままに、あっけなく毛布が取り払われ、そして──。

「──、」


 おびただしい量の血。

 見開かれたままの虚ろな瞳。

 ベッドに広がる赤黒い染みの中に横たわる青年──魔王ルキフグスの亡骸が、そこにはあった。

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