第1話 元魔王子とぐうたら魔王
ぽかぽかとあたたかい。
穏やかな光が射し込む中、しかし部屋の主は光を疎むように「うぅん……」と唸って顔を背けた。
カツカツカツ、と靴音が響く。
扉の向こう、早足で近付いてくる靴音の主はその歩みを緩めることはない。
ほどなくして、一片の躊躇もなく扉が押し開けられた。
「ええい! いいかげん起きないか、ルキフグス!」
「……」
闖入者からの叱責に近い呼び掛けに、部屋の主──ルキフグスは鬱陶しそうに身じろぎした。
「……そんな大声を出さなくたって、ちゃんと聞こえてるよ。バアルくん」
あくび混じりの声で気だるげにそう言いながら、先程までよりも本格的に毛布にくるまりにかかる青年に、もうひとりの青年──闖入者バアルは額に青筋を立てた。
「貴様というやつは……っ!」
言うが早いかバアルはつかつかとベッド脇へと歩み寄り、ルキフグスの毛布を力ずくで引き剥がした。
「早く起きろ! 身仕度をしろ! そして溜まりに溜まった仕事をしろ! ……今の魔王は貴様であろうが!」
憤懣やる方ないと言った様子のバアルの声も意に介さず、魔王ルキフグスは「……あぁー、毛布……」と残念そうに呟いたのだった。
「まったく……何故俺ではなく貴様などが魔王なのだ」
ようやっと身仕度を始めたルキフグスに、バアルはなおも小言を並べた。
「歴代最強と謳われた先代魔王、その嫡子にして長子である俺を差し置いて、貴様のようなどこの馬の骨とも知れない、ぽっと出の男などが……。誰がどう見ても俺のほうが相応しいはずなのに、俺の何がいけなかったと言うのですか、父上……」
「バアルくんさ……なんでもいいけど、着替え中ぐらいは出ていってくれないかな」
心ここに在らずといった様子のバアルに、現魔王・ルキフグスは嘆息した。
──バアル。
先代魔王による譲位、もとい後継者指名の折に、魔王の傍らに控えていたのはこの男である。
──当然自分が指名される。
その確信は男の自惚れなどではなく、事実彼は非常に優秀だった。
文武両道、眉目秀麗。
長身に緑の髪。切れ長の目に収まる瞳は宝石を思わせる紅。まだ若いながらも立派な、二本の角。
女性からはアイドル的な人気があり、誰から言い寄られてもけして靡かず、それでいて無下にもしない堂に入った対応が、更なる人気を呼んでいた。
次代の魔王に相応しい教養に礼儀作法、帝王学というものを一通り修めた、おおよそ欠点らしい欠点というものが見当たらない、完璧な魔王子様だった……はずなのだ。
──次代の魔王は魔王子バアル。
魔界の誰もが、そう信じて疑わなかった。
否、あまりに当たり前すぎて、そうでない可能性など考えもしなかったのだ。
『我の後継者たる新たなる魔王、その名はルキフグス』
その宣告に、聞いたことのない名前に、民はどよめいた。
魔王子──否、元魔王子バアル。
彼の何がいけなかったのか。
誰もが──彼自身も含めて頭を捻ったが、誰にもその答えを出すことはできなかった。
それでも、父王が認めた存在であるならば。それがバアルより魔王に相応しいと誰もが認める傑物であったのなら、バアルとて納得して引き下がることができた。
……そのはずだったのだ。
父王が認めたルキフグスとはどのような男なのだろうかと、期待半分、不安半分で胸をざわつかせながら対面した時、気高き魔王子バアルのプライドは今度こそ粉々に砕け散った。
魔王に相応しい風格や威厳というものをおおよそ持ち合わせていない、ぐうたらなもやしっ子。
それがルキフグスという男であった。
造形に限れば美しい部類に入るのだろうが、深い青紫の髪はばさつき、光を吸い込む昏い瞳からは、覇気というものがまるで感じられなかった。
父の代からの配下がぼそりと「ニート……」と言っていた意味はバアルにはよくわからなかったが、あまり肯定的な意味の言葉ではないようだった。
新たな魔王ルキフグスは、放っておけばいつまでも起きてこなかった。
叩き起こして執務をやらせても、すぐに楽をしようとするところがあった。
そのくせ魔力だけは量も質も申し分なく、身を守る術には人一倍長けているようで、この不甲斐ない魔王の寝首を掻いてやろうというバアルの試みは、そのことごとくが失敗に終わっていた。
せめて魔王として最低限恥ずかしくない振る舞いをしてくれと、バアルは生来の面倒見の良さを発揮し、今では彼がルキフグスを起こすのも、右腕として執務を行うのも、もはや日常風景の一部と化していた。
歴代最強の魔王の息子で、本人も民衆からの支持の厚い優秀な魔王子であったバアルは、本来であれば真っ先に粛清対象となってもおかしくないはずの存在であるはずなのだが、どういうわけか──ルキフグスの命を狙ったにもかかわらず──粛清されるようなことは一向になく、がみがみ言いながらルキフグスについて回るのをそのまま放置されていた。
魔王の寝室に無遠慮に起こしに入るのも、魔王に口煩く説教をするのも、本来であればあり得ない話なのであるが、元を正せば本人の努力の甲斐あって、家柄だけでなく実力も民衆人気もバアルのほうが格上なのである。
当の魔王が気にしていないことや、先代魔王の息子という立ち位置も相俟って、バアルの狼藉を強く諌める者は誰もいなかった。事実上の黙認状態である。
魔王の身仕度ともなれば、先代の頃は何人もの侍従が恭しく身体を清め服を着せ髪を整えていたものであるが、ものぐさであるはずの当代魔王はその形式を嫌った。
「他人に身体を洗われたり服を着せられたり髪をいじられたり、そういうの嫌なんだよね、俺」
即位して早々、ルキフグスはそう言って朝晩お決まりの儀式を廃止した。
では自ら身仕度を整えるのかと言えばそういうことはなく、彼は自ら創り出した魔導具──ベッド自体もそれにあたる──に着替えなどの機能も組み込むことで、身仕度を自動化していたのであった。
身仕度のことにとどまらず、ルキフグスは自室内に便利な魔導具を充実させていき、部屋で生活が完結するように環境を整えてしまった。
配下のひとりは「これはプロニートの仕事だ……完全に引きこもりにかかっている……」と頭を抱えていた。
バアルには相変わらずプロニートという言葉の意味を理解することはできなかったが、ともあれこのまま自室に引きこもって魔王としての仕事に差し障りが出てはたまったものではないと、以前にも増してルキフグスの世話を焼くようになった。
おかげで配下たちのバアルのイメージが『完璧な王子様』から『面倒見の良いオカン』へと変わりつつあるのだが、バアル自身はまだそのことに気付いてはいなかった。
「俺は貴様のことをまだ魔王と認めたわけではないからな、ルキフグス……!」
「またそれ? はいはい、わかってるよ。……それでバアルくん、今日の仕事は?」
「まったく。俺は貴様の秘書ではないのだぞ。いつまでもこの調子では、魔王としてあまりにも不甲斐ない。随分と書類が溜まっていたぞ。謁見希望もかなりの数が来ている。以前のものと合わせたら相当な数になるのではないか?」
それと、とバアルは続ける。
「魔王主催のパーティーだな。あれは単なるパーティーではなく、各地の統治者の意見や陳情を聞き魔界の情勢を知る場であり、魔王の権威を知らしめる場でもあるのだぞ。社交嫌いだからと言って貴様は即位以来一度も開いていないが、いい加減観念して打ち合わせぐらいはしたらどうだ。これでは魔王としての面目が立たないぞ」
秘書ではない、と言いながらも、律儀に答えるバアル。
小言を言える程度に魔王の仕事ぶりを把握しているのは、生来の几帳面さと面倒見の良さ、そしてひとえに元魔王子としての矜持ゆえである。
『俺が魔王であったなら絶対にこうして仕事を滞らせはしない、俺ならこうする』という思いが、バアルにはあった。
「あぁ、西方でひと悶着起きてるから、書類はその件かな。治安が悪いわ執政官が汚職をするわ圧政で一般市民の生活は苦しいわ公共事業は滞るわで、あそこなかなか大変なんだよね。そろそろ新調したほうがいいものもたくさんあるし」
そうは言いながらも「ね、いい加減事務処理ぐはいはこの部屋でやって良いことにしようよ。ベッドの上でも判子は捺せるんだからさぁ」と主張して移動を渋る魔王を、バアルは執務室へとずるずると引き摺っていった。
──どっと疲れた……。
そんなバアルの内心を知ってか知らずか、渋々といった様子で、ルキフグスは膨大な書類に目を通し始めた。
「……」
内容は先程想定していたものが大半のようで、ルキフグスは次々と書類に目を通していく。
当代魔王は面倒事を嫌う。
そして、社交嫌いではあるが、けして無能というわけではない。
書類仕事については、むしろ並みより優秀ですらあった。
書類はみるみるその山を減らしていったが、しかしその光景に、バアルは額に手を遣った。
それもそのはず、判を捺すのも、魔王名義の書状の文面を綴るのも、ルキフグス謹製の魔導具たちなのである。
「……少しは自分の手で作業したらどうなんだ」
「……えー」
バアルの苦言に、ルキフグスは不満げな声を漏らした。
「元の書面の内容にはきちんと目を通して、裁決の可否の判断も書状の文面を考えるのも、ちゃんと俺がやってるんだよ? それを俺が創った俺の道具で仕上げてるだけ。その道具をコントロールしてるのも俺の魔力なのに、それの何が問題だって言うのさ」
押印や代筆を引き受けてくれって言うよりマシなんじゃないの? と付け加えられて、バアルは言葉に詰まった。
「ぐ……。し、しかしだな」
「何も心を込めて必死に手書きすれば良いってものでもないじゃない。友達へのお手紙でもなし、あたたかみよりも内容の質と処理速度のほうが大事だよ、この手の行政文書はさ。魔王本人がやってることなんだ、何も問題はないはずだよ」
一理ある。一理はあるのだが。
「それでも、魔導具を操作しながら次の書面を読みにかかるのは感心しないぞ。 注意が散漫になって、必ずどこかでミスが出る。それこそ正確性を欠いては話にならないだろう」
「うん」
それまで動かしていた手を止めてバアルを見上げ、ルキフグスは頷いた。
「その通りだよバアルくん」
「……」
──嫌な予感がする。
いつになく素直なルキフグスの反応に、バアルは思わず身構えた。
果たして、その予感は的中した。
「だからね。君には、出来上がった書類に不備がないかチェックをしてもらいたいんだ」
「……言ったはずだ、俺は貴様の秘書ではないと。俺のほうが格上で、本来であれば俺は貴様ごときに顎で使われるような立場ではないと。それを……それをこんな、こんな雑務で……!」
「まぁそう言わずに。これも魔王の威厳に関わってくることだし、俺を助けると思ってひとつ頼むよ」
それに、とルキフグスは続けた。
「曲がりなりにもこの俺が働いてるんだよ? 普段は俺にあれだけ口煩く働け働けと偉そうなことを言っておいて、いざ俺がやることやってる時にも、自分はそのやり方に文句をつけるだけ? それはさすがにどうかと思うよ、俺はね」
「……っ」
「魔王になりたかったんだよね? もし魔王になってたら、今俺がやってる仕事も君がやってたはずなんだよね? 今でも君は自分のほうが魔王に相応しいと思ってるんだよね? なら少しぐらい手伝ってくれても良いと思うんだけどなぁ。まぁ君の『元魔王子』としての仕事が魔王の俺をいびることだって言うのなら、俺も無理にとは言わないけどね」
「貴様……!」
棘のある言い回しと元魔王子という言葉選びに、バアルは激昂した。
掌より火球を生み出して当代魔王を睨み付けるが、しかしルキフグスは動じなかった。
「無駄だよ。そんなのじゃ俺を殺せない。そんなことくらい、もう君はわかっているはずだろう。……それに、このままでは大事な書類が燃えてしまうよ。そうなれば困るのは俺や君ばかりでは済まないんだ。早く火球を仕舞うといい」
「……ち」
渋々といった様子で、バアルは術式を中断した。
「……うん、良かった。危うく面倒事が増えるところだった」
ルキフグスは、なんでもないことのようにそう言った。
「俺より高威力・高精度の攻撃魔術は使えないくせに……」
「攻撃魔術は不得手だから。最高峰水準のバアルくんと張り合うまでもなく、その辺の子供のほうが攻撃魔術の威力は俺より上だよ」
さらりと認めて、「
「ご自慢の攻撃力というものがありながら、俺を殺せもしないバアルくんがそこをとやかく言うのはどうかと思うけど」
「……」
バアルの瞳に、怒りとも焦りともつかない感情が滲む。
太古の昔。
各々が悪徳の限りを尽くした混沌の時代。
永きに亘る動乱を、圧倒的な力を以て制し、力を以て魔界に秩序をもたらした。
それこそが、偉大なる初代魔王であると言われている。
そんな歴史も影響してか、基本的に魔界は実力主義である。
文明が発展した今でこそその風潮も和らぎつつあるとはいえ、魔術の才は特に絶対視されてきた。
中でも攻撃魔術は、わかりやすい実力の指標であり、視覚的にも華々しいものがあるために、技の粋を競い合い大衆に実力を誇示する儀礼的な模擬戦が催される機会はけして少なくなかった。
そして、それに参加する度に大人顔負けの実力を示し、先代魔王を除いて魔界で右に出るものはいないとされたのが、バアルだった。
他方、ルキフグスは本人談の通り、攻撃魔術は不得手であった。
バアル様を差し置いて魔王の後継として指名された謎の男は、さぞやお強いに違いない。
そう期待する者が多い中、魔王継承の儀の最中に新たなる魔王ルキフグスと元魔王子バアルの組み合わせで模擬戦が行われた。
素性が定かでない新たなる魔王にとっては、その実力を示し箔をつける絶好の機会であるかのように思われた──。
しかし、結果は両者赤っ恥。
そう言っても差し支えのない、惨憺たるものだった。
動く的を撃ち落としてその数を競う演目では、完璧にこなしてみせるバアルと、一、二個撃ち落とすのがやっとのルキフグスとで、実力の差は一目瞭然。
炎の龍を作り出し、上空でぶつかり合わせる演目では、大きく華々しい炎を操るバアルに対し、ルキフグスのそれは今一つといった出来だった。
当然、ぶつかり合った炎の龍は、バアルのものがルキフグスのものを飲み込んで終わった。
直接試合でも、さして体術に秀でている様子もないルキフグスに、バアルが攻撃を当てるのは容易だった。
──この程度の実力の者が何故魔王に。
誰もがそう思った時、誰よりその思いが強かったバアルが、ルールを無視して高威力の攻撃魔術を放った。
『茶番もここまでだ。俺が貴様に引導を渡してやる!』
そんな声と共に放たれた渾身の一撃は、間違いなく相手を消し炭にするだけの威力があった。
『……!』
バアルの突然の暴挙に誰もがどよめく中、爆煙と粉塵が轟音と共に広がった。
しかし、ややあって煙の中から見えた姿に、今度は先程とは異なるどよめきが広がることとなった。
──あのバアル様の攻撃魔術の直撃を受けながら、傷ひとつ負っていない……!?
そう。
あの時、ルキフグスへのとどめのつもりでバアルが放った一撃は、新たなる魔王の実力の一端を白日のもとに晒し、模擬戦の間に損なわれつつあったルキフグスの名誉を、皮肉にも挽回させてしまったのである。
『先程までの頼りないご様子は、先代魔王の御子であらせられるバアル様に遠慮して、十分な実力が発揮できなかっただけなのだな……!』
『バアル様も、それに気付いておられたからこそ、叱咤の意味を込めてああして攻撃魔術を……』
『あぁ、そうに違いあるまいさ。理由はどうあれ俺を相手に全力を出さないなど魔王と言えど無礼である、とそう仰りたかったのだろう』
『友でありライバルとして、あくまで対等でありたい、ということだろうか。その立ち位置から、新たなる魔王様を補佐していこうという決意表明のようなものであったようにも思えるな』
『先代様が魔王の座を退かれ、バアル様ではない御方が後を継がれると聞いてから、一時はどうなることかと思ったが。最強の矛と最強の盾、このお二方が友誼を深め、共にこの魔界の頂点に立たれるということであれば、いやはやようやっと安心できるというものですな』
バアルにとっては不本意なことに、口々に賞賛の声が上がる。
『……お、おい!』
当然ながら、バアルはすぐさま訂正しようとしたが。
『そうでなければ、あの高潔なバアル様が不意打ちのような卑怯な真似をされるはずがないからな』
『ぐ』
『いや、でも……本気だったよな? どう見ても』
『馬鹿言え。あれは当然、あの攻撃を魔王様なら防げるという確信あっての暴挙。既に確かな信頼関係がおありで、友として魔王様の名誉を慮られたのだろう』
『……ぐぬぅ……』
時、既に遅し。
──迂闊なことを言えば、あの男を引き摺り下ろす以前に、俺の名誉が危うい。
そう悟ったバアルは、不本意ながら沈黙を選んだ。
『……』
ちら、と新たなる魔王の様子を窺い見た。
ほぼ無表情ながら、これ以上なく面倒だという感情がうっすらと顔に乗っていた。
『はぁ。……うん、そういうことにしておこう』
糾弾されなかったのは、幸運か屈辱か。
何はともあれ、そういうことになった。
そして、バアルはその後三日三晩、涙で枕を濡らしたのであった。
──あの日、あの時、あの場所で。俺が余計なことをしていなければ……!
バアルにとっては、苦い思い出であった。
「……ま、魔王様。そろそろそのくらいに……」
あの日の事を思い返して表情が沈んでいくバアルの様子を見かねてか、成り行きを見守っていた老人が、そう進言した。
「アガレスさん」
「じいや」
長年に渡り『魔王』に仕えてきた老人、アガレス。
今でこそルキフグスに仕える立場であるものの、先代魔王の息子であるバアルとは、それこそ生まれた頃からの付き合いである。
「書類の確認でしたら、よろしければ私が引き受けさせていただきましょうぞ」
「いい。……俺がやる」
バアルは無愛想にそう言った。
「話がそうと決まったのなら、いい加減座りなよバアルくん。折角椅子を出してあげてるのに、君ってばいつも座ろうとしないんだから」
ルキフグスはそう言って足元の椅子を指し示すが、バアルの反応は芳しくなかった。
「それは当然だろう。遺憾ではあるが、一応今の俺は貴様の臣下ということになっている。臣下が魔王の執務室で着座して過ごすなど、聞いたことがないぞ。事情を知らない者に見られでもしたら、何と言われるかわかったものではないだろう」
「その魔王が良いと言ってるんだから、気にする必要はないんじゃないの。……そもそも、魔王の後継問題なんて、魔界ではあまりにも有名で、知らない者はいないんじゃないかと思うんだけど」
「む。それは……そうだが」
それに、とルキフグスは続けた。
「立ったままだと疲れない? 俺自身も、自分だけ座ったままで立った相手と話すのは結構疲れるんだけど」
「そうか……?」
あまり考えたことがなかったと言った様子で首を傾げたバアルは、しかしややあってルキフグスの用意した椅子に、すとん、と腰を下ろした。
「あれ。一体全体どういう風の吹き回し?」
「手と魔導具を動かせ、ルキフグス。先程から止まっているぞ。……いやなに、こんな押し問答、続けるだけ時間の無駄だと思ってな。魔王の仕事はこれだけではないのだ。さっさと片付けるぞ」
表情の乏しいルキフグスには珍しく、しばし虚を突かれたような顔をして、ややあって微笑した。
「ありがとう、バアルくん。助かるよ」
「貴様に礼を言われる筋合いはない。魔王の称号に瑕がつくようなことがあっては困るというだけのことだ。貴様はせいぜい黙って魔王としての責務を果たすんだな」
口ではそう言いながらも、感謝されて悪い気はしないようで、バアルは得意気に胸を張り、ふんふんと鼻歌を歌いさえした。
気を良くする彼に、魔王はこれ幸いとばかりに畳み掛ける。
「それじゃバアルくん。謁見やパーティー主催の件も君に任せたよ。俺がやるより、社交場のことをよくわかっていて、立ち居振舞いや風格が様になっている君のほうが、どう考えても適任だからね」
「それとこれとは話が違うだろう。俺とて頼まれれば補佐くらいはしてやらないこともないが、
「……ちぇ」
目論見を看破され、ルキフグスは首を竦めた。
「本当に嫌なんだよ。人前に出るのも、外面を取り繕うのも。面倒だし、何より向いてないってこと、俺自身が誰よりわかってるからさ。適材適所って、確かにあると思うんだ。……それにしても、『サボる』なんて言葉、勤勉実直な君がよく知ってたね」
「……これだから俺は貴様が嫌いなのだ。ベルフェゴールもかくやという怠惰の身でありながら、口からは調子の良いことばかり」
ルキフグスが魔導具で仕上げた書状を確認しながら、バアルは眉を顰めた。
どの書状にも、特段のミスは見当たらない。
……気に食わない。
──そもそも器用なのだ、ルキフグスという男は。
バアルは当代魔王に対して誰より厳しかったが、それと同時に彼を誰より認めてもいた。
──それこそ最初から真剣に取り組みさえすれば、大抵のことはそつなくこなせるはずだろう。そうでなければ、父上が後継者に指名などするものか。
……なればこそ。期待をかけられておきながら、それに応えられるだけのポテンシャルというものがありながら、いつまでもぬるま湯にその身を浸して、まるで怠慢の概念そのものにでも成り果てたかのような、今の在りようが腹立たしかった。
──選ばれたからには、引き受けたからには、それに相応しい姿を見せろ。真面目に責務を果たして、正当な実力というものを広く示して見せろ。……そうでなければ、選ばれなかった俺が惨めに思えるだろうが。
それでも、それを口にしてしまったら本当に何かに負ける気がした。
怠惰で、省労力・時短に目がなく、手が抜けることはとことん手抜きをし、その他の性格も最悪に近いとはいえ、しかしルキフグスの治世は、歴代最強の先代魔王──バアルの父の時代と比べても、どうしてか安定してさえいた。
認めるべきところはある。しかし、認めたくとも認めたくない部分があまりにも多すぎる。
「貴様のそれは、単なるものぐさと好き嫌いだ。人前に出るのも、外面をそれらしくするのも、訓練と慣れ次第でどうとでもなることだ」
『サボる』なる言葉には馴染みがなかったが、貴様や臣下の話を聞く中で覚えたのだ、とバアルは付け加えた。
「ふーん」
相変わらず表情は全く変えないままながら、箱入りの元魔王子様はこうやって俗世に染まっていくのかと、ルキフグスは人知れず感慨に浸っていた。
「……ま、俺はバアルくんのこと、嫌いじゃないんだけどね」
「あ?」
「いやさ、君がここまで口喧しいヤツでさえなければ、俺たちきっと良い友人になれていたと思うんだよ」
「……奇遇だな。俺も貴様がもっと魔王に相応しい存在であったなら、喜んで交誼を結ぼうと思えていただろうと思うぞ」
「……そっか、それは残念」
「あぁ、本当にな」
皮肉の応酬は止まるところを知らなかったが、しかし先程までの険悪な雰囲気は、いつしか影を潜めていた。
「……」
『バアルのことは嫌いじゃない』
そんなルキフグスの言は、けして嘘というわけではないのだろう。
アガレスは思い返す。
基本的に無気力な当代魔王は、何を思ってかバアルのことを気に入っているようで。付き合わされるバアルにしてみればたまったものではないだろうが──敢えてバアルを焚き付けるようなことを言っておもちゃにするようになってからというもの、無表情は相変わらずながら、以前より楽しそうな様子が増えていた。
一方のバアルはと言えば。自分から魔王の座を奪った、どこの馬の骨とも知れない、どう見ても自分よりも魔王に相応しくないはずの男。そんなルキフグスに対する感情は、言葉では到底言い表せないほどに複雑である。
これまで公私共に次期魔王として相応しく在ろうと努めてきた元魔王子の心中はけして穏やかとは言い難かったが、公私共に張り詰めていた頃とは違い、近頃は年相応の青年らしい表情を見せることも随分と増えていた。
──これが少しでも良い方向に作用すれば良いのですがな。
アガレスは、内心でそう呟いた。
とはいえ、明らかにバアルはルキフグスと相性が悪い。
……当代魔王、ルキフグス。彼はただ怠惰なだけでなく、おそらくは単純に性格が悪かった。
バアルはいっそ不憫なほどに、そんな男に振り回され通しなのだった。
──おいたわしや、バアル様。
性悪な魔王にこれからも振り回されるであろう貴公子の気苦労を偲んで、老いた忠臣は人知れずひっそりと涙を流したのだった。
歴代最強と謳われた先代魔王の息子と、当代魔王。
勤勉なる元魔王子と、怠惰なる魔王。
立場を奪った者と、奪われた者。
命を狙った者と、狙われた者。
これは、本来相容れないはずのふたりが、魔界のトップとして日常を送る物語である。
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