第8話 おかえりなさい、宮井さん

 それから二年。ほのぼの荘は運営チームがまとめた答申の通り、生活訓練施設になった。専任のスタッフが配置され、陸はほのぼの荘の運営からは離れることになった。旧ほのぼの荘は、閉鎖となり、信子たち長期間の入居者は、一年くらいをかけて、それぞれ一人暮らしを始めたり、家族との同居に戻ったり、地域のNPOが運営するグループホームに居を移したりした。

 新しくできた生活訓練施設ほのぼの荘は、鉄筋三階建の立派なものだった。一階部分には「ランチショップほのぼの」という事業所も併設された。授産施設、という種類の事業で、職業の訓練をするための通所施設である。信子や明美も、近くにアパートを借りて生活の場を移したが、その「ランチショップほのぼの」には通うことになり、新しい生活が始まっている。信子の料理の腕前は大したものである。宅配弁当を作る「ランチショップほのぼの」でも、それは遺憾なく発揮され、おふくろの味、として結構評判にはなっていた。

 陸の方と言えば、さらに新しい法律ができて、精神保健福祉士、という国家資格をとることになった。すでに現場で働いていた陸たちは、養成校に行きなおさなくても特例で用意された講習を受けることで受験資格が与えられることになった。その上結婚もして公私ともに忙しくなっていたが、ほのぼの荘に時々、昼ごはんを買いに行くのが習慣になった。

 国家試験に合格したんですよ、と言うと、明美は

「へえ、ほんだら陸ちゃんも先生て呼ばなあかんなあ。ところで、それ、何の先生なん?今までの仕事と変わるん?」

 と気怠そうに鋭い質問をしてくる。

「別に先生とちゃいますよ。仕事も、今までと変わりません。あえて言うなら、精神保健福祉士、と名乗れるようになった、ていうことですかね」

「はあ、それはそれは、今日び、名乗るのも大変やねんねえ。はい日替わり弁当お待ちどう」

 てんで相手にされていない。自分でも、よく分からないなあと思っているので仕方ない。

「そういえば、前のほのぼの荘ですけどね。いよいよ、取り壊されることになったんですよ。僕夕方に荷物とか整理しに行くんですけど、誰か一緒に行きます?」

「ウチ行く」

 明美が食いついた。「ウチも」「俺も」旧ほのぼの荘の住民たちは厨房の奥から声を上げた。

「みんな、自分の住んでたとこやもんね」

 管理課から鍵を預かってきた陸は、午後四時に元入居者の面々と入口で待ち合わせた。閉鎖が決まり、一人また一人と退居していくほのぼの荘は、どんどん寂しくなった。最後まで住んでいた花岡信子が退居したのは半年前になる。

 その後、無人になったほのぼの荘では宿直者も不要なので、入口が南京錠で施錠され、取り壊しの時を待つことになっていた。半年ぶりに立ち入ったほのぼの荘は、以前にもまして、古びていた。電気や水道も止めてあり、締め切られていた建物の中はほのかにかび臭い。歩くと板張りの床がギシギシと鳴った。

「くつは?」

「そのままでいいですよ。どうせ誰も住んでないし、引っ越しのドタバタで色々散らかってるから、何を踏んづけるか分からへんしね」

「何を踏んづけるかって、気色悪いこと言わんといてや」

 結構怖がりな明美は入った時から及び腰で、信子の腕にしがみついている。今、宮井さんの話したら、泣き出すやろな、と陸はちょっと愉快な気分になりながら、奥へと入っていった。雨戸を開けないことには真っ暗で見えない。匂いといい、質感といい、完全にお化け屋敷のそれになっている。

「人が住んでへんかったらこんなもんやねんなあ、家って」

 ふいに、一番後ろにいた明美が叫んだ。

「ぎゃあああ」

「ど、どおしたんですか」

「なな、なんかおる。動いた」

 食堂の方を指さす。するといつの間に入り込んでいたのか、猫が二匹、彼らは彼らで驚いて、警戒しながらこちらを見ている。

「猫ですよ。びっくりさせんといてください。窓開けましたからそれぞれお部屋とか見るなら見てきてください。日のあるうちでないと見えへんからね」

 陸はそういって、自身は宿直室に向かった。元々荷物なんかは置いていないが、何冊かのファイルがそのままにしておいてあったはずである。正式なアルバムが特になかったので、ほのぼの荘の色んなイベントの記録やみんなの寄せ書きなんかに写真を貼り付けたりしていたものだ。いよいよ取り壊しになるにあたって、記録として置いておきたいと思って、取りに来たのである。宿直室の引き戸を開ける。キュルキュル、と懐かしい音がした。のぞき込む。陸は思わず息を呑み、一拍おいてから思い切り悲鳴を上げた。

「うああああおえええ」

 陸の目は宿直室の奥にくぎ付けになった。ベッドがある。確かに、自分の手でバラバラに解体し、病院の資材置き場に置いてきたはずだった。悲鳴を聞きつけて集まってきた面々が、

「どうしたん?陸ちゃん。またネコか」

と問う。陸は、

「ベッドが……」

 とかすれた声で言いながら恐る恐るベッドに近づく。枕元にMの字が彫ってあるのを確かめて、へなへな、とその場に座り込んでしまった。宮井と一緒に組み立てた時に、イニシャルを彫ろう、ということになったが、宮井のイニシャルが「SM」になるので、Mだけにしてください、と言われたのだ。そのやりとりさえ、はっきり思い出した。

「帰ってきたんや……宮井さんのベッド……」

 怪訝な顔をする一同に、陸が一連のことを説明すると、さらに一拍おいて、今度は全員の悲鳴が廃墟一杯にこだました。


「うーん」

 翌朝、陸の報告を聞いた森田は、しばらく腕組みをして考えていた。

「どうしましょう。やっぱりお祓いとかした方がええんとちゃいますか」

 陸が思い切って切り出すと、森田は老眼鏡ごしにじっと陸を見つめながら静かに問い返した。

「丸山君は、宮井さんのこと、祓いたいんか」

 問われて陸は、自分が何気なく口にした「お祓い」の対象が、あの宮井なのだということにはじめて気付いた。迷わず、

「そんなわけないやないですか」

 と言い切る。森田は、老眼鏡を外してにっこり笑い、

「うん、それで十分や。ほんだら、行こうか」

 と歩き出した。慌てて後を追いかける陸に、森田は管理課に行って軽トラックと旧ほのぼの荘の鍵を借りて来る様に、と指示してから、営繕係の倉庫に向かった。

 陸は、森田と一緒に再び旧ほのぼの荘の宿直室に来た。やっぱり、ある。もしなくなってたらそれはそれで怖いが、あってもやっぱり怖い。すると森田は営繕係から借りてきたらしい大工道具を取り出して、手際よく、ベッドを分解し始めた。同じようにもう一回捨てに行くのか。資材置き場に置いて、また戻ってきたら、やっぱり真剣にお祓いをしないと、と思いながら、森田を手伝って、みるみる木材に変わっていくベッドのパーツをとりまとめた。森田はそれらを軽トラックに積むように指示した。ところが、動き始めた軽トラックは、病院の資材置き場には向かわない。まさか。案の定、橋を渡って川向うの生活訓練施設「新」ほのぼの荘に到着した。

「森田さん、どうするんですか」

 恐る恐る尋ねる。

「まあ、ね。ちょっと待ってて」

 そういって、森田はトラックに陸とベッドのパーツを残したまま、事務室に入っていった。ほどなく、「新」ほのぼの荘の岸谷施設長と談笑しながら戻ってきた森田は、借りてきた道具箱の中からのこぎりを取り出し、木材となったベッドに当て始めた。森田と同年配らしく見える岸谷施設長も、一緒に鼻歌を歌いながら、楽しそうに作業をしている。

「ここ押さえててくれるか」

「そこのヤスリ取ってくれるか」

 陸も指示されるままに手伝って一時間半ほどすると、かつてシングルベッドだったそれは、全く異なるモノに形を変えていた。

「なあんということでしょう」

 と冗談めかしく言いながら、森田は全身の切りくずを掃った。出来上がったのは、カウンターテーブルだった。

「前に資材置き場に捨ててあったのを見た時からちょっと思ってたんや。カウンターにちょうどええなあ、て」

 岸谷施設長もニコニコしながらうなずいている。

「うんうん、いい感じ。白木のまま、ていうのが清潔感あるな。ちょうどこんなん受付に欲しかったんや」

「結構日曜大工とか、好きやからね。丸山君、そっち持って。運び入れるで。ここらへんかな。ほら、サイズもピッタリ」

 陸が手伝って生活訓練施設ほのぼの荘の入口にそのカウンターテーブルは設置された。出来栄えは「日曜大工が結構好き」のレベルではない。大したものである。新しい施設の入り口にでん、と居場所を確保したそのカウンターテーブルは、まるではじめから予定されていたかのように、たちまち周囲と馴染んでしまった。

 陸は、あのクリスマスの夜に、旧ほのぼの荘の仲間たちに、

「みなさん、今日はほんまにありがとうございました」

 と言って頭を下げた宮井の姿を思い出していた。不器用だけれど、やさしくて暖かい風景だった。あの時から宮井は、ほのぼの荘の仲間たちの中に自分の居場所を見出していたのだろう。そして多分、それは陸自身の居場所でもあったのだろう。だから「丸山君は、宮井さんのこと、祓いたいんか。」

 という森田の言葉を即座に否定した。それは陸自身がこれから彼らとどう向き合っていこうとしているのかという決意表明でもあったのかもしれない。ここ数年の目まぐるしい環境の変化についていくだけで精いっぱいだった陸は、そんな自分の原点を思い出させるために、このベッドが戻ってきてくれたんじゃないだろうかと思った。これからも色んなことが変わっていくのだろうけれども、確かに自分があの場にいたということを、決して忘れないようにしたい。ひとり、納得した陸は、新しいカウンターテーブルに向かって、そっと言った。

「宮井さん、おかえりなさい」

 隣にある「ランチショップほのぼの」から、いい匂いが漂ってくる。そろそろ、お昼休みである。今日の昼食は、お弁当を買って、ほのぼの荘で食べさせてもらうことにしよう、と陸は思った。


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宮井さんのシングルベッド 十森克彦 @o-kirom

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