③傍らの恋人たち

 ぽつぽつと続けられる言葉。

 ――それほど大変なわけじゃないんだ、一つひとつは。耐えられないほどのことはない。


 リェーチカは頷く。それはよくわかる。

 小さな、それこそ擬音で例えたら『チクリ』程度の痛みでも。……毎日のように続くそれが降り積もって、傷口が重なって、だんだん無視できない穴になることは。

 首都で過ごした最初の一年間は、ジェニンカがいなければ耐えられなかった。


 終わりの見えない苦難を、彼は友や親兄弟のいない異国で、たった一人で戦っている。

 思わず空いているほうの手でユーリィの頬に触れた。濡れてはいなかったけど、少し冷たい。


「遠慮、しないでいいよ」

「すまない。……ありがとう」


 声のない叫びが腕の形をしている。

 急流の中で藻掻くような、息苦しいほどの切迫さで肩を引き寄せられた。リェーチカは座り直してユーリィに寄り添う。

 言葉はなくても伝わってくる。押し潰されそうな抱擁の強さが、そのまま彼の痛みとして。


 こんなときに……不適切かもしれないけれど、胸が熱くなるのを感じていた。

 彼の背中をさする指先に、高揚としか表しえない感情が灯っている。


 四人兄妹の末に生まれた。家族の中で一番小さく、弱いものとして。

 リェーチカはいつだって守られる側にいた。頼ってもらえるのは家事労働くらいで、今はそれすら家政婦に譲っている。

 初めて自分を必要としてもらえたような気がして、どうしようもなく嬉しかった。それも……愛しく思う相手に。


「リェーチカ、……もしもの話、だが」

「うん?」

「僕が耐えかねて、どうしても逃げ出したくなったとしても……他の国には行かない。ハーシに戻るだけだ」


 そこでユーリィは顔を上げた。

 湖水色の瞳にじっと見入られて、しばし呼吸を忘れそうになる。大好きな故郷を思い出す、懐かしくて優しい色に、リェーチカだけが映り込んでいる。


「つまり……君のいる場所に、帰りたい。が一番落ち着けるから」

「……ッ」


 ――そんなふうに言われて、我慢できる女の子がいるとは思えない。


 はだかの指をそっと彼の頬骨の上に添えると、ユーリィは少し驚いたように瞬きをして、それから、……どうだろう。もうリェーチカは彼の表情を見ていなかったから、わからない。

 恋愛劇ロマンスには及ばない触れるだけのキスでも、心は焼けてしまいそうだった。


 頬が熱い。こちらを見つめ返すユーリィも熟れた白桃みたいに紅潮している。

 二人とも無言で、噴水の音だけがあたりに響いていた。こうして見つめ合っているだけなら、ここが外国か故郷かなんて、どうでもいい。

 こんなに嬉しいことはない。リェーチカにとっても、二人でいる場所が一番いい。


「ちゃんと帰ってきて。なるべく早く。私、待つのって正直得意だけど、やっぱり好きじゃないから……」


 まばたきの瞬間すら惜しくて、胸の高鳴りに引きずられるように、声が震えてしまう。

 ユーリィも堪えるような面持ちで頷いた。善処するよ、と。


 ――怖くない。私はもう、何もできずにただ待つだけの『無力な妹』じゃないから。


 やりたいこと、やれることがたくさんある。学校でそのためのひかりを手に入れた。

 紋唱術だけじゃない。大好きな友人たちと知り合うことができて、何より今、こうして想いを交わせる大切な人がいる。


 ユーリィと出逢えたから、初めて心から思える。

 この人の『居場所』になりたい。すべての痛みから守ってあげたい。

 そのために待つことは、ちっとも怖くないし、つらくない。だって彼自身が『帰る場所』としてリェーチカを選んでくれるのだから。



 しばらく肩を寄せ合って空や噴水を眺めた。

 小鳥がさえずるのは、あれは誰に愛を囁いているのだろう。葉擦れの音さえ楽しげな笑い声に聞こえる。

 幸せという色眼鏡をかけてしまえば、世界はこんなにも鮮やかに輝いている。でもそれは悪いことではないはずだ。


 この気楽さはここが故郷ではないからかもしれない。マヌルドでは良くも悪くもハーシ人はすべて同じ下等民族扱いで、色の違いなんてありはしないのだから。

 それ自体は苦々しい事実だけれど、いつか越えたいその壁が、今だけは二人を守ってくれている。


「……そうだ。僕からもいくつか頼みがあるんだが、いいかな」

「うん、何?」

「君が焼いたヴァニが食べたい。……厨房女中キッチンメイドに何度か頼んだが、やはり作る人間によって食感や風味が違うんだな、ああいうものは」

「え、ユーリィって私のやつ食べたことあったっけ?」

「学園祭の片づけのとき。クラス内で配っていただろう」

「あぁ、余った材料のやつね。懐かしいなぁ。そっかぁ……よーし、じゃあさっそく戻って台所をお借りしましょ」

「……待ってくれ」


 立ち上がろうとするリェーチカを制して、ユーリィは頬を赤らめながら囁いた。


「もう一つある。……今度は僕から、させてほしい」


 柔らかい風が吹く。べたつく夏の熱気を、背の高い雲と一緒に高く高く押し上げて、鮮やかな秋を運んでくる。

 さらさら流れる噴水の上に落ちていた二つの影が、もう一度重なった。さっきよりもいくらか長く。


 楽しい季節のあとはいつだって冬だ。寂しく厳しい、真っ白な闇。

 けれどどんなに寒くて長い夜だって、手を握り合ってぬくめる人がいるなら、きっと悪くはない。自分たちは火だって水だって自由自在、必要なら獣の歌も添えて。

 どんな困難も乗り越えていけるように、これからだって、今よりもっと強く優しくなりたい。


 一緒に雪を解こう。何度でも。

 そうしていつか、あなたと過ごせる春を招こう。この手で。




〖雪を解いて春をべ〗

 番外編『初秋のまれびと』おわり

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