26_季節は世界を彩りゆく(結)

 ちょうど職員室からユーリィが出てくるところだった。彼は近づいてくるリェーチカに気づくと、春の日差しでも見たように目を細める。


「お疲れ様。あと、卒業おめでとう」

「ありがとう。それと、君も卒業おめでとう。……もしかして僕に何か用かな」

「うん、少し話したくて。いい?」

「もちろん」


 二年間の留学。その言葉の重みを、たぶんリェーチカが一番よく知っている。

 何しろ行先はマヌルド帝国だ。大陸じゅうで一番進んでいる学術機関なのだから当然の選択肢とはいえ、そこがどんなに苛烈で苦難に満ちているであろうかは、先んじて次兄が証明してくれている。

 それでも。……すべてユーリィ自身の選択なのだから、その意思を尊重したい。


 きっと彼は戦いに行くのだろう。リェーチカが卒業試験で彼との事実上の決闘を望んだように、かつて苦渋を舐めたマヌルドに再び赴いて、そこでもう一度やり直したいのだ。

 強くなったことを証明する方法は、きっと他にはないから。少なくとも今の自分たちには。


「なんか……あっという間だったね、この一年間。……すごく色々あったけど、今こうして振り返ってみると、楽しかったなあって思うんだ」

「そうか……僕が言うのもなんだが、良かった」

「ふふ、何その謙遜。私はユーリィとのことも含めて言ってるんだよ?」


 少し面食らったようにこちらを見る、まるく開かれた水色の瞳に、思わずふふっと笑ってしまう。まさか『氷の王子』のこんな緊張感のない表情を見られるようになるとは、夏までは思いもしなかった。

 嬉しくてくすくす肩を揺らしていると、ユーリィも困ったように微笑む。


 話しながら歩いていると、真っ白な漆喰塗りの廊下が短くなったように感じるのは、名残惜しさがもたらす錯覚だろうか。

 壁には動物や、紋章を装飾して描かれた絵画がずらずら並んでいる。いかにも紋唱術学校の校内という風景だ。

 ここを彼と二人で歩くのは、もうこれが最後。


 いや、なんならこの先もわからない。今の二人はどんなに良くてもただの学友で、卒業後にも個人的に連絡を取り合うほど親しい仲かと言われると、色んな意味で少なからず疑問が残る。

 だからリェーチカにとっては、今日しか伝えられるときがない。


「あのね、ユーリィ」


 いざ口にするのは勇気がいる。立ち止まったリェーチカに、彼も足を止めて振り向いた。

 挑むように、あるいは祈るような気持ちで、その瞳を見据える。


「私、……私もその、……あなたが、……す……好き、です。……異性……として」

「っ……」


 ユーリィが息を呑む。向かい合うリェーチカも、呼吸を繋ぐのに苦労するほど、胸が詰まってしまっていた。


 やっと言えた。とうとう言葉にしてしまった。

 今この瞬間、リェーチカの想いはユーリィの胸の中に具現したのだ。


 もう取り消せない。伝える前の世界には、二度と戻れない。

 それでも、……後悔はない。

 だってリェーチカは、この気持ちと向き合うために彼と闘ったのだ。これまでのしがらみを清算して前に進むために。


 ……とはいえ。


「えっと……もちろんその、わかってるよ。部族長家とはいえ水ハーシだし、客観的には釣り合わないってことは……」


 目標を達成できたのはいいけれど、にわかに現実がいたたまれなくなって、ごそごそ言い訳をし始める。

 部族差別が根強いこの国で、あまりに無謀な恋をしてしまった。たとえユーリィが今もこちらを悪しからず想ってくれていたとしても、彼の周りの人たちはリェーチカを受け入れないだろう。

 それは彼が一番よくわかっているはず。


 色よい返事など期待しようもない。それも彼の生真面目な性格を思うにつけ、断るにしてもさぞ頭を悩ませるだろうと、申し訳なさが募る。

 告白したのはこちらの勝手なのだから、せめて逃げ道を用意しなくては。


「あ……あとね、もうユーリィの気が変わったんだったら、いいの。私は大丈――」


 などと冷静な部分で畏縮し出したリェーチカの、手を取った人がいた。

 大きな両手で包むように。まるで大事なものを守るように優しく、温かく、力強い。


「……変わっていないよ。今この瞬間も、僕にとって一番大切な女性ひとは君だ、リェーチカ」


 胸が焼けそうな言葉だった。

 誰でしょうか、この人を氷の王子だなんて呼んだのは。そんな渾名が似つかわしかった冷酷な暴君はもうどこにもいない。

 今ここにいるのは、湖水色の瞳をこぼれそうなくらい滲ませた、とっても生真面目な男の子だけ。


 握られていないほうの手をそっと彼のそれに添える。やっぱり温かい。

 触れ合ったところから胸の鼓動が繋がって、心地よい拍の重なりが歌のようだ。


 紋唱術師は、万物の理を紋章と詩で描き唱えて、奇跡を熾す。

 一人でだって色々できる。二人でなら、もっと難しいこともできるかもしれない。

 今すぐは無理だったとしても、進むことを諦めなければ、いつかは。


 冷たく凍り付いた湖も、春になれば必ず融けるように。どんなに長い冬だって永遠には続かない。

 自分たちは春を創り出す力と叡智を授かった。


「教室に行こう。みんなにも挨拶をしたい」


 そうして今は二人、並んで歩く。


 ――苦しいときは言ってね。いつでも、どこからだって駆けつけて、傍で支えるから。

 嬉しいことも教えてほしいな。あなたの笑顔をたくさん見たいから。

 それから、……それから……。



 話は尽きない。

 名残惜しさが絡まって、指を解くタイミングもわからない。寂しくないと言ったら嘘になる。


 この先、互いに踏み出していくのは別々の道だ。向かう場所や見える景色はきっと全く違っている。

 でも怖くない。目指す方角が同じなら、心は離ればなれじゃないから。

 遠回りになっても、いつかきっと。


「ねぇユーリィ。私ね、……正直言って二年も待てない。ずっとお兄ちゃんたちのこと待ってたから、もう、そういうのは嫌なの」

「うん……僕からも頼もうと思ってた」


 ハーシわたしたちは、永らく分断されてきた。その苦難の時を乗り越えて、ようやくふるさとで巡り合った、オーロラ色のきょうだいたち。



「会いに行くね」


 二人は頷き合う。そうして一緒に、みんなが待つ教室の扉に手を掛ける。


 ドアノブをひねる寸前、開け放たれていた背後の窓から、ふわりと風が吹き込んだ。

 色とりどりの花びらを抱いた、温かな春風が。



 

〖雪を解いて春をべ〗 了

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