24_雪を解いて春を招べ③
まずい、――と思った直後にはもう、リェーチカは
結界壁に背を打ちつけ、再び雨水の底へ沈みながら、口内にくぐもった鉄色の悲鳴が滲む。あちこち痛んで痺れるようで、ろくに声も出せなかった。
それでも震える瞼を無理やりにこじ開け、薄らぼんやりと霞む視界の中で、なるべく情報を掻き集める。
荒れた水面の上下。太い枝、いや、蔓が伸び茂って、その大本は
その頂にあのヘラジカがいる。樹属性か。
銀緑色のがさついた凶手は、まだ終わらないというようにブーツの先を捉える。咄嗟に引っ込めようとしたけれど疼痛に引き留められて叶わない。
「ッう……ごぼッ!」
絡め取られて引きずられかけたところで、まだ抱えていたままだったユーニが腕の間から這い出した。
『その不躾な蔓を退けなッ!』
一喝が悪夢を焼き払う。湖面を裂くように、青みがかった橙の牙はヘラジカ目がけて一直線に迸り、そのまま一気に水面の半分近くが地獄の様相を呈した。
物理法則を無視した尋常ならざる燃え方に、獣は恐れて後退る。
ひとまず危機を脱せたのはいいが、ユーニはそのまま燃え盛る蔓の上を駆け出してしまったので、リェーチカはそっと苦笑した。
本当に、彼女はいつだって予想の何倍も上をいく。自分の元に置いておくのが勿体ないくらいの戦士だ。
だが今は――今のリェーチカは、そんなユーニの闘志に応えられる。
「ふたりとも! 例のやつ、いくよ!」
『はいよ、アタシはいつでも構わん!』
「……ふふっ、だろうね」
少し遅れてサペシュが駆け降りてくる。白銀の毛並みは汚れているが、とくに大きな負傷はなさそうで、しなやかな跳躍の軌跡は美しい弧を描いていた。
マングローブの島に降り立った彼に、さすがのヘラジカも後退る。なんなら自然界では喰う喰われるの関係もありえる組み合わせだ。
『空を飛ぶハクチョウに決まった足場から攻撃を当てるのは、ちょっと難しい。……こっちのほうがやりやすそうだ』
『やれやれ、三対一は勘弁願いたいね』
「ううん」
ユーニがサペシュの頭の上に駆け上がる。
「――三対三だよ。
ユキヒョウを追って降下してきたユーリィたちを横目に紋章を叩く。
紋唱光は白。雨水が結界中に吹き上がって、霧の中に虹が差す。
同時になんとも言えない匂いが鼻をくすぐった。不快というほどではないが、奇妙に甘酸っぱい、何かを
ユーリィは奇妙な術に訝りながらも、すぐさま防御の構えを取った。それとほとんど同時に。
『
『
獣たちが揃って空中に吼える。
炎が
「くっ! ぅうッ……
炎と熱気の
――燃える霧の正体は
雨水の中に落ちたあと、その半分ほどを
全部じゃないのはリェーチカの身も危なくなるからだ。ぐっしょり濡れた制服を加工して防護鎧にしているが、もし染み込んでいるのが水ではなくアルコールだったら、今ごろこちらまで火だるまになっていたろう。
属性的にいくらか余裕のあるビョルネンが消火に回っているものの、燃料はまだまだある。彼自身が散々降らせてくれた雨水が原料なのだから。
霧に変えることで広範囲に拡げられ、かつ一度にすべて放出されないので持続性が高い。
(とはいえ、……あんまり長く続けたら酸欠になりそう)
一瞬だけ、視界がくらりと揺れて滲んだ。
結界内は密閉されているわけではないが、それでも何も壁がない状態よりも換気されづらいだろう。大量の炎を長時間燃やし続ければ酸素濃度は下がる。
ただでさえ短時間とはいえ潜水していたあとで、リェーチカの体力は限界に近かった。
もう今ここで決めなくては。
とどめの一撃を、描かなくては……。
『ぅぅ……ぁあッ!』
ヘラジカが呻くようにして哮った。またあの枝の鞭がしなり、辺りの炎を纏わせながら振り抜かれる。
左肩に重い衝撃が走り、気づけばリェーチカは再び壁際に転がっていた。防護服のお陰でさっきより
制御を失した酒霧がゆるやかに止む。合わせて火の勢いが落ちたのを見て、ユーリィも反撃に出た。
「
「
結晶化した雨水がリェーチカに殺到する。対するリェーチカも剥がれた防護を掛け直しつつ、泡の壁を構築した。
その場の資源を上手く活用するのも紋唱術師の習いだ。互いに奪い合うようにして、水や氷を主体とした複属性の術が乱舞する。
視界の端ではユーニがヘラジカとやり合っている。サペシュは上を向いているから、ビョルネンの相手をしているのだろう。
これでいい。
人間は人間同士。決着をつけるのは、やっぱり一対一がいい。
「――
「
「
「〜ッ
氷のヤドリギが振るわれる。それを灼熱の泥で受け留め、押し返した勢いのまま
目の眩む閃光を伴った雷撃には、溶けるほどに熱した鏡を向ける。
互いに一歩も引くことがない。攻防の境すらない激しい術の打ち合いが、息つく間もなく重ねられていく。
描いて唱えて、身体じゅうが震えた。胸が高く鳴っているのがわかる。
痛いくらいの軋みを上げて心が叫んでいる。
きっと今、リェーチカは笑っている。
だってユーリィも、荒れ狂う熱波の向こうで、かすかに微笑んでいるのが見えるから。
――もっと見せて。あなたの笑顔。
もしかしたら、初めて出逢った瞬間から惹かれていたのかもしれない。
けれどその頃の彼は、冷たく凍りついた冬の湖のような瞳をした、哀しい氷の暴君だった。古傷の癒えない心を守るために、周りを遠ざけてばかりいた。
リェーチカも傷つけられてきた。個人としても、水ハーシ族としても。
正直言って嫌な出逢い方をしてしまったと思う。
でも、今は。
お互いのことを知った。歩み寄って、触れ合うことだってできるようになった。
だから、これもたぶんそう。
試験という場を借りて、戦いの形をしているけれど――自分たちは心で語り合っているのだ。
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