11_起死回生の一手
まさかの提言にリェーチカは困惑した。
野生動物と契約するのは初めてではないし、現に唯一の遣獣であるリスは地元の山で出逢っている。でも、そのときとは状況がまったく違う。
もちろんそれだって決して楽ではなかったが、少なくともこんな、生きるか死ぬかの瀬戸際なんかじゃなかった。
今はユキヒョウをなんとか泡の檻に閉じ込めているが、内側でかなり暴れているのを感じる。
もし少しでもこれが崩れたら、間違いなくまたリェーチカたちを襲うだろう。さっきもユーリィの喉に噛みつこうとしていた。
それほどまでに激しく敵意を漲らせた相手が、そうそう契約に応じてくれるとは思えない。
それに……ユキヒョウは、もともと警戒心の強い獣のはずだ。例のクマにそう聞いている。
絶対に彼らのほうから人間に近づくことはない。とても鋭敏な聴覚と嗅覚を持っていて、少しでも危険や妙な気配を感じたら、すぐに隠れてしまうのだと。
そんな動物がどうしてこんなに攻撃的なのかはわからないが、ますます契約は難しいように思えてならない。
それこそ『無茶』だ。
戸惑うリェーチカに、ユーリィは瞬きをしながら続けた。……もう目を開けているのもつらいのだ。
「……早くしてくれ。僕はもう、限界だ……」
「え、あ……で、でも」
「ジェニンカたちが……落石に、巻き込まれたんだと、したら、……誰も、助けを呼べない。遅かれ早かれ、君の気力は尽きて……その術が解ける……」
そうなったら僕らは全滅する――息も絶え絶えな彼の言葉に、はっと息を呑んだ。
全員の命運が、自分にかかっている。この皮手袋に包まれたちっぽけな手に。
できるとかできないとか言っている場合じゃない。やるしかないのだ。
震える膝を叱咤して、檻に向きなおる。他ならぬリェーチカ自身の血で作った、淡い紅色をした泡沫の塊。
直接は見えないけれど、今も内側でユキヒョウがもがいている。唸って、ひっかいて、怒って怒って、――獣はひどく怯えている。
何に? もちろんそれは、彼の棲み処を荒らした人間たちに、だろう。
「そっか……」
痛みを堪らえて紋章を描く。
昔、二番目の兄がこんなことを言っていた。紋唱術っていうのはいろんな存在と繋がって、その力を少しだけ借りるものなんだよ、と。
そして三番目の兄は、次兄の言葉にこう補足した。
――紋唱は神への祈りから始まった。つまり、俺たち紋唱術師は神々の力を借りるんだ。
「あまねく氷雪の獣の主、牙の将カーシャ・カーイの名のもとに問う……汝の心に備えあらんや。
願わくば
リェーチカたち水ハーシ族を含む西ハーシの民は、オオカミの神カーシャ・カーイを信仰している。銀の毛並みを持つ猛々しい荒神で、恐ろしい逸話を山ほど持ち、なおかつ旅好きでも知られる偉大な獣だ。
どれくらい偉いかというと、世界のあらゆる信仰を総括する概念宗教『クシエリスル』において、各地域の代表である七柱の盟主に数えられているとされる。
紋唱術の、とくに遣獣との契約における詩……要はお決まりの文言には、どこの地域でも必ず神の名が入るらしい。どうしてかは忘れてしまったから、帰ってから復習しなければ。
ともかく契約の言葉を唱えた。直後、泡籃が大きく震えた。
並行して二種類の術を使ったせいで集中が逸れたのだ。泡同士の結束が弱まり、ユキヒョウが飛び出そうと暴れるたび、ぶちぶちと弾けていく。
今から薄くなった部分を補強しようにも、材料は自分の血だ。これ以上はもう流せない。
血の泡が大きく爆ぜる。とうとう空いた穴は見る間に広がり、やがて食い破るようにしてユキヒョウが顔を覗かせた。
ふううぅッ! ――威嚇の声。野獣の吐息が顔にかかる。
間近にそれを受けて、血にぬめった牙を剥きだしにされながら睨まれて、怖くなかったと言えば嘘になる。
隣のユーリィは完全に沈黙していて、恐らくもう意識がないのだろう。つまりリェーチカはたったひとりで猛獣と対峙しているのだ。
広くもない背中に八人もの命を背負っている。自分も傷ついて、痛くてたまらない。
首筋を、冷たい死の予感がたらりと流れ落ちていく。
「……わ、私も……」
歯の根が合わずにがちがち鳴った。さっき噛まれたところがじんじん痛んで、熱を持っている。
紫紺の瞳を涙でたっぷり濡らしながら、それでも、語りかける。
「あ、あなたと……同じだよ」
まだ契約は為されていない。だから言葉が通じるかどうかは、わからないけれど。
「きっと……痛くて……、すごく、怖いんだよね……。ひどいことして、ごめんね……」
不思議なことに、そのとき、ユキヒョウが瞬きをした気がした。
どれくらい睨み合っていただろう。きっとたったの数秒が、永遠のように長い。
獣は即座に飛び掛かってくるようなことはなかった。
見定めるような眼差しは緑みがかった灰色で、ネコ科の獣らしく瞳に施された金色のビロードめいた光沢が、貴婦人のドレスのように美しい。恐ろしかったが見入ってもいた。
――にゃおう。
ユキヒョウが小さく鳴いた。その声はやはりネコに似ていて、今度は地鳴りがしなかった。
『……どうしておまえが謝るんだ?』
ふいに男の子の声がした。
ユーリィでも、はたまたオーヨでも、ギュークやセーチャのそれでもない、知らない誰か。
目の前の獣はまだリェーチカを見つめているけれど、もう怯えてはいなかった。
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