10_大混乱③

 議論している暇はないから、リェーチカは二人の返事を待たずに飛び出した。

 今ここに田舎育ちは自分だけ。どう考えても最適任だ。

 それに正直、オーヨに頼んだ緩衝材クッションの用意を手伝うほうが、リェーチカにとっては難しい。


 山なら慣れている。小さいころ、兄たちとよくこういう自然の中で遊んだ。

 彼らが紋唱術を習ってからは、遣獣たちにも相手をしてもらった。


(懐かしいなぁ)


 とくに三番目の兄が契約していた、優しい性格のメスのクマには世話になった。

 リェーチカが十歳のとき、長兄が族長を継いだのと同時に両親が首都に移ってしまったので、ときどき母代わりにもなってくれた。

 彼女ら獣たちと山の中を駆けまわり、生態や習性を教えてもらったのだ。


 リェーチカは岩山を駆け上がる。獣ほど軽やかではないが、ほとんど危なげない動きで。

 そして高らかに手を叩いた。ユキヒョウの気を引くために。


「ほら、こっちだよ!」


 その声に気づいて、ユーリィも顔を上げた。


「ッ……な、何……してる……」

「今、ジェニンカたちが下で受け止める準備をしてくれてるから、合図したら手を離して! ……っていうより、それまでなんとか我慢してね」

「……無茶だ」


 枝を握り締めるユーリィの手はぶるぶる震えていた。袖が真っ赤に染まっている。

 こうして間近に見ると思っていたより出血が多そうで、リェーチカは喉がきゅっと絞まるような不安を感じた。早く手当てしないとまずい。


 憂慮を嘲笑うように、ユキヒョウが跳躍した。


 にゃああーん……。猫に似た、いくらか低い鳴き声がして――頭を殴られたような衝撃が走る。


「っ……!?」


 世界が回った。


 感覚がない。何が起きたのか、どちらが上で下なのか、自分が今どうなっているのかわからない。

 ぐるぐるぐにゃぐにゃと視界が歪んで、にわかに気分が悪くなった。

 遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。


 そして最後は唐突に、衝撃と痛みで終わった。



 ***



 ユキヒョウの攻撃で、岩山が崩落している。

 気づけばユーリィは瓦礫の散らばる中心でひっくり返っていた。予め己にかけておいた防御の術が、役目を終えて消えていく。


 逃げなくては。頭でそう思っても、身体が思うように動かない。

 まだ動かせる片肘を衝いてなんとか上体を起こしたものの、土埃が舞って視界はすこぶる悪く、わかるのはすぐ隣にナマズと呼ぶ少女が倒れていることだけだった。

 そのうえ自分は脚が落石の下敷きになっている。防護のおかげで無傷ではあるが、被さった岩は片腕で退かせる大きさではない。


「いたた……」


 隣も意識はあるらしい。せめて足手まといにはなるなよと思いながら、ユーリィは痛む腕を持ち上げた。

 よりによって利き腕をやられている。


 紋章のひとつも描けないうちに土煙が晴れ、獣が顔を出した。

 灰碧色の美しい瞳をぎらつかせ、ユキヒョウは牙を剥いて、地鳴りのように低く唸る。紛れもなく、獲物を前にした獰猛な捕食者の顔だった。


 あらわな殺意にユーリィは思わず息を呑む。

 間に合わない。この傷で獣の速度に対抗できるはずもない。


 殺、され


「――ぅあッ!」


 直後、目の前で赤いものが散った。



 ユーリィは困惑しながら、顔に降ってきた生暖かいものを手袋の指先で拭う。

 血だ。けれど自身のものではない。


 殺されそうになっていたのは自分なのに、なぜか、ナマズ女が割り込んで身代わりになっていた。


 まったくわけがわからない。というか、助けに来た人間が進んで負傷してどうする、なんて考えなしの行動なんだ?

 困惑が止まらないまま、震える手で痛みを堪えながら描く。考える余裕はないが――たいてい紋唱術師は、身体の感覚だけで行える手持ちの術というものを持っている。


「け……堅楼けんろうの、紋」


 紋章は薄い黄色に輝き、縦横無尽に土砂が噴き上がる。

 それらは一瞬で棒状に固まると、ユキヒョウの周囲をぐるりと覆って簡素な檻となり、さらにあらゆる角度から獣の身体を穿った。


 ユキヒョウは甲高い悲鳴を上げてナマズを解放したが、死んではいない。

 痛みで集中できないせいだ。思うように威力が出せなかった。

 もう一度だ、早くとどめを刺さないと。手負いの獣はいっそう凶暴になる……。


 焦っても腕が震えて紋章が描けない。描き損じた図形が歪に光っても、奇跡は起こらない。


 ……だから無理だと言ったのに。

 ユーリィが止めるのも聞かずに、友人がユキヒョウに挑んだ。これまで野生の獣となど戦ったことがないうえに、まだ多くの術を自在に操れるとは言い難い学生の身で。

 当然、最初はユキヒョウもこちらを相手にせず逃げようとした。それをしつこく追い回して怒らせたのだ。


 その結果がこれか。

 仲間をまとめられなかったユーリィの非でもある。とはいえ、この歳でこんな場所で死ぬことになろうとは、父がどれほど呆れるだろう――。


「……ッほ……泡籃ほうらんの紋!」


 死を覚悟して瞑目していたユーリィは、その声につい眼を開けた。

 視界に広がるのは、ただ一色。やたらと鮮やかな淡い真赤。


 泡籃は主に防御に用いられる。泡の膜を作り、対象物を包んで保護するというものだったはず。

 そこそこ強固な防護壁だが、別の水系の術と併用せねば上手く作用しない。だいたい水属性の術なんてこの場で誰も使わなかった。

 この赤い壁は、血か。


 しかもよくよく見れば彼女が包んでいるのは自分たちではなくユキヒョウだった。敵を守ってどうする。

 ……いや、人間ふたりより獣一匹のほうが小さく、効率がいい。泡壁は内側からも破壊できないから、たしかに檻として使うこともできる。

 この状況でよくそんな機転が回ったものだ。


「はぁ、はぁ……えと、これで……ひとまず大丈夫……かな……。あなたは、今のうちに逃げ……、……立てそう?」

「この瓦礫を退けられたらな……。ジェニンカたちは……さっきから声すらしないが、まさか落石に巻き込まれたか」

「えっ!? ……ど、どどどうしよう」


 真っ青になって慌てふためくナマズは、噛まれた傷から今も止め処なく血を流し続けている。ろくに止血していないどころか、術に吸い上げられているせいで余計に出血が激しくなっているのだろう。

 彼女の気力が尽きれば泡の檻も崩壊する。そうなったら二人とも死ぬ。


 ――この状況で生き残る手段は、ひとつ。


「ナマズ……ユキヒョウと、契約しろ」



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