09_大混乱②

 ひどく崩れた崖の中腹、狭い岩棚にしがみついている少年の姿。

 彼を追い詰めているのは何か白っぽい動物で、遠目からでもかなり怒っているらしいのがわかる。なんというか……獣の周囲の空気が、歪んで見えるのだ。

 そしてもうひとつわかった。ユーリィの袖は赤く染まっていて、つまり彼もすでに負傷している。


「ッてぇ……クソ、どうなった……」

「あっギュークが起きたぞこんにゃろー、あんたが戦犯だかんなぁ?」

「呑気なこと言ってる場合!? でもポランカの言うとおりよ、あんたがバカなことするからあのユキヒョウを怒らせたんだわこのバカギューク!!

 ああもう、とにかくユーリィを助けないと……あぁっ!」


 マーニャは焦って立ち上がろうとしたが、脚をくじいていたらしく悲鳴を上げてしゃがみこんだ。

 悪ガキくん――ギュークは今しがた眼を醒ましたばかりだし、頭を打ったかもしれないからあまり動かさないほうがいいだろう。不気味くん、もといセーチャは脇腹を押えながらずっと無言で、顔色が悪いのが気にかかる。

 比較的元気そうなポランカも、腕を怪我しているから紋唱術が使えない。


 まともに動けるのはリェーチカたちだけ。仕方ない、と歩き出そうとした腕をジェニンカに掴んで止められる。

 親友はいつになく真剣な顔で言った。


「……なんか流れで手当てはしちゃったけど、考えてみたら、こいつらなんか放っておいてもいいのよ。普段ほんと迷惑させられてるわけだし」

「ジェニンカ……それは、そうかも……しれないけど」

「――何が言いたいのよ」


 じろりと睨んでくるマーニャに、ジェニンカは負けじと睨み返す。


「交換条件でどう? わたしたちでユーリィ含めてあんたたちを助けてあげる代わりに、今後一切くっだらない嫌がらせをしないこと」


 リェーチカとオーヨははっと息を呑んだ。

 その条件を呑んでもらえたら、残り約半年の学園生活がどんなに楽になるだろう。ユーリィは全生徒の頂点と言っても過言ではないほどの影響力を持っているから、彼の一派が手出しをしなくなれば、それに倣って他の生徒からの嫌がらせも減る。


 ただ、そんな都合のいい話がそう簡単に進むはずもない。白ハーシたちはそれぞれ顔を見合わせながら、バカバカしいと言わんばかりの笑みさえ浮かべていた。

 ここでリェーチカたちが彼らを見捨てたとしても、遣獣が一匹いれば町に助けを求めることができるのだから。


「は、そんなんお断――」


 ポランカがそう吐き捨てようとした、そのときだ。


 またあの眩暈がした。やはりそれは地鳴りのようで、びぃぃぃぃん、という低い音と、きーん、という高い音が同時に耳の中で鳴り響いた。

 まるで見えない手に身体を地面に押し付けられているみたいだ。頭がくらっとして目の前が一瞬真っ赤に染まる。


 ……がらがらがら。また嫌な音がした。

 ふり返ると岩壁がさらに崩れていて、ユーリィが落下しかけていた。途中に生えている細い枯れ木をなんとか掴んで留まっているが、幹がしなって今にも折れそうだし、怪我をした腕ではそう長くぶら下がってもいられないだろう。

 落ちるのは時間の問題。しかも――獣が追い打ちをかけるように彼の傍まで下りてくる。


 もしかしなくても、地鳴りを起こしているのはあのユキヒョウだ。


「あ……やだ……ユーリィ……!」

「……あれ、本気で殺そうとしてるんじゃ……」

「そんな! ……ッ」

「おいマーニャ、無理すんな、その脚じゃ無理――」

「でもユーリィが……!」


 もう――見ていられない。


 いつの間にか白ハーシたちの慌てた声は遠くに去っていた。いや、離れていたのはリェーチカのほうで、気づけばユーリィと獣に向かって駆け出していた。

 自分でもわけがわからないけれど、あのまま彼らの悲嘆を聞いていたらどうにかなってしまう。


 しかし……飛び出したはいいが、何をどうしたらいいか考えていなかった。


 とにかく、どうにかしてユキヒョウを足止めして、その間にユーリィには安全なところまで退避してもらおう。手当てはそのあとジェニンカにお願いする。

 何にしても、まず彼らに近づかなくてはならないから、こちらも怪我をしないように紋唱術で防御しなくては。

 問題はそこだ。……座学が危ういのに、実技はますます自信がない。


「え、えっと」


 意を決して描き出したものの、紋章はもはやうろ覚えだ。これで合ってるのかなと不安になってくる。

 急がないと、と思うほど自信がなくなってきて、招言詩を口に出せない。


「リェーチカ!」


 まごついているうちに、ジェニンカとオーヨが追いかけてきた。


「もう急に飛び出さないでよ、びっくりしたじゃない」

「ご、ごめん……ああねえオーヨ、これ、遮鑑しゃかんの紋ってこれで合ってるかなぁ? 間違ってない?」

「え? あ……あ、うん、大丈夫だよ」

「ありがと。――遮鑑の紋!」


 空中に描いた文様が、招言詩を受けてきらりと輝く。そして銀色の火花を散らしながら丸い鉄の盾が出てくる……はずなのだが、やっぱり不慣れなせいか、思ったよりちょっと小さくて歪んだものが形成された。

 ま、まあ、何もないよりはマシだろう。そういうことにしよう。


 ふわふわ浮かぶ鉄板の陰に隠れて進む。直線距離はそれほどでもないが、あたりは崩れた崖の土砂や落石で足場が悪く、思ったように進めない。

 それに近づいてみると、ユーリィがけっこうな高さにぶら下がっているのがわかった。まず素手で受け止めるのは無理だろう。


 そして当然ながら、ユーリィよりも先にユキヒョウのほうが、自分に近づく人間の気配を早く察する。

 ――獣が、ぐうう、と低く唸ったのを聞いた。


 ユキヒョウの周囲に淡い紫色の光がぽつぽつと灯った。

 この世では獣も紋唱術を使う。人間とは少し手順が異なるけれど。

 何の属性のどんな力かはわからないが、さっきから地鳴りと眩暈を引き起こしているのはあれに違いない。


「オーヨ、たくさん柔らかい草を生やして彼を受け止めるって、できる?」

「あ、うん、でもおれひとりじゃ間に合わないかも……」

「じゃあジェニンカもそっちを手伝って」

「いいけど……って、リェーチカ、まさか」


 こちらの意図を察したらしいジェニンカに、リェーチカは頷く。


「私はあのユキヒョウの気を引くね」



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