1時限目 始まりは短い夏
01_いじめられっ子の救世主
「ぎりぎり合格」
教師の声に、リェーチカ――本名アレクトリア・スロヴィリカは、ぱぁっと表情を明るくした。
もうすぐ短い夏季休暇。誰もが楽しげに予定を語り合い、学校全体がそわそわしている。
そんな中こうして職員室を訪ねたのは、恥ずかしながら試験で赤点をとってしまったからだ。
追試の結果次第では、長くもない休みを返上して補習漬け……の悲劇を回避できたので、そりゃあ嬉しい。なんたって、これで友人たちとの約束を反故にしなくて済む。
喜びを隠さない少女に、先生はちょっと苦笑いしながら続けた。
「水を差すようだが、本ッ当にぎりぎりだからな? 休み中はくれぐれも……」
「あっ……えへへ、わかってます! がんばります!」
「……うん、まあ釘を刺さんでも大丈夫か。もう帰っていいぞ」
「はーい、先生さようならっ」
笑顔で職員室をあとにしたリェーチカは、廊下に出るなりまず深呼吸した。逸る気持ちをぐっと堪えて歩くために。
校則はきちんと守る。愛想よし、もちろん授業態度も真面目、予習復習も欠かさない――だからこそ教師からの覚えもよい。
ふつうなら優等生と言われてもおかしくはないリェーチカだが、どうも成績だけは今ひとつ。
その原因はいくつかあって、
「っびゃあ!?」
角を曲がったところで、何かに足を取られて転んでしまった。
膝をぶつけた。痛い。しかも嫌な音もしたような。
そっと視線を向けると、返却されたばかりの答案が、ぐしゃぐしゃに潰れて端っこが破れた哀れな姿と化していた――それを、すぐ近くにいた誰かがひょいと拾い上げる。
「あっれぇ、ギリ及第点じゃん。つまんなーい」
「とはいえ落第寸前には変わりないわね。補習、受けたほうがいいんじゃない?」
くすくすくす、と冷たい笑い声が粉雪のように降り注ぐ。
その主はリェーチカを見下ろすふたりの女子生徒。小柄なミディアムボブの娘が答案を指先でひらひら弄び、隣のロングヘアの美人はさりげなく脚を退いていた。
ああまたか、とリェーチカは思う。
そう「また」だ。これが初めてではないし、すでに一度や二度でもない。
学校に通い始めたのは去年の秋の終わり。中途編入としても遅すぎる。
すでに各教育科目が応用に入っている状況で、基礎すらままならないリェーチカが遅れをとっているのは至極当然だ。だから誰より真面目に必死に勉強している。
けれどなかなか成績が上がらない理由のひとつが、これである。
端的に言えば嫌がらせ。編入してからの半年間、ずっと続いている。
今みたいに足をひっかけて転ばされるほかに、持ち物を隠されたり、遠巻きに眺めて笑われたり。
ひとつひとつは大したダメージではないけれど、毎日続けば生来前向きなリェーチカでもさすがに気が滅入る。それが勉学へのやる気にも影響しているのは間違いない。
「……あの、……返してもらっていい……?」
「これ教室に貼ってみんなで投票しよーよ。補習受けるべきかどーかさぁ」
「ッふふ、あなたそういうの考えるのホント得意ね。いいんじゃない? 面白そう」
決してリェーチカは目立つほうではないと自負している。成績は文武ともにぱっとしないし、容姿も平凡、だから彼女らの気分を損ねるような要素は個人としては持っていないはず。
だが、そこが最大の問題なのだ。
絡まれる理由はわかっている。それが自分ではどうしようもないことだ、ということも。
答案を取り返したくても、震える声で訴えるのが精一杯。
相手は自分より少し小柄なくらいで、手を伸ばせば充分に届くのに。下手を打てば、今度はどんなひどい仕返しがあるだろうと考えてしまって、足がすくむ。
――諦めたほうがいいよね。
リェーチカは自嘲気味に思った。戦ったって仕方がないし、それ以前に、そうするだけの強さが自分にはない。
我慢して嵐が過ぎ去るのを待つしか、ないんだ――。
「――ちょっと、あんたたち何してるの!?」
あたりに響き渡った一喝に、びりっと廊下全体の空気が震えた。
よく通るその声の主は、すたすたと速足で歩み寄ってきて、ボブ女子から答案を奪い返す。およそ五秒、まったく躊躇いのない機敏な動きだった。
しかもその女生徒はリェーチカを背にかばうように、いじめっ子たちの前に立ち塞がった。
とくに大柄というわけでもなく平均的な体格で、白金色のおさげ髪を左右にふわりと垂らし、むしろ風貌は大人しそうに見える。けれどその気迫に圧された女子たちは目に見えて怯んでいる。
その決して広くない背中が、今はどんな
そう――彼女こそ、リェーチカが真っ先に補習回避の朗報を伝えたかった親友であり、つらい学校生活の救世主。
「……あーあ、もう出た。あんたも暇だねぇ」
「あんたたちほどじゃないわ。リェーチカを待ち伏せしてくっだらない嫌がらせしてないで、レポートの準備でもしなさいよ」
「……。行きましょ」
「あー」
ロングヘアがくるりと背を向けると、ボブも彼女に従って去っていった。
てっきり舌戦になるかと思っていたので拍子抜けだが、それはもちろんいい意味で、だ。緊張感なんて長く続かないに越したことはない。
リェーチカは胸を撫で下ろしながら、親友の名前を呼ぶ。
「ジェニンカ……ありがとっ」
「遅いから心配になって来てみれば案の定ね。大丈夫? 怪我はない?」
「えと……ちょっと転んだから擦りむいたかも」
「うわ最悪じゃない。とりあえず歩けそう? 教室についたら手当てするから」
いじめっ子たちに毅然と立ち向かった姿から一転、リェーチカには優しいこの少女の名前は、ヨザンナ・ピトヤシュカ。ジェニンカというのは愛称だ。
最初に知り合ったときも今日とほぼ同じ状況で、絡まれていたところを庇ってくれた。以来べったりだ。
隣でジェニンカが眼を光らせていてくれるだけで、リェーチカへの嫌がらせは目に見えて少なくなる。
それはこの上なくありがたいが、同時にちょっと情けない。いつかは自分でなんとかできるようにならないと、卒業したら一緒にはいられなくなるのだし、ずっと守られてばかりではダメだ。
――私も強くなりたい。ジェニンカみたいに。
そう思いながら歩いていると、膝がじりじり痛むのだった。
「あ、ところで結果、どうだった……?」
ふとジェニンカが恐るおそるといったようすで聞いてきた。ついさっきまであなたの手の中にあったんだけど……と思ったが、たぶん勝手に見ないようにしてくれたのだろう。
「ぎりぎりだけど合格したよ」
「……やった! おめでと~! そしてわたしも助かった~ッ!」
「え、助かったってどうして?」
「だってほら、レポート用の小旅行。リェーチカが行けなくなったら困るじゃない。……さすがに男の子と二人っていうのはちょっと、親にも言いづらいし……」
「あ、そっか、そだね」
リェーチカは頷いた。夏休みに計画していた『レポート用の小旅行』は、リェーチカと彼女に加えて男子生徒一名、三人で行くつもりだったのだ。
いくら課題のためでも、若い男女が二人で遠出をするのはさすがに親も心配するだろう。下手したら反対されるかも。
そして、それこそリェーチカがなんとしても補習を避けたかった最大の理由だ。
傍から見れば大したことではないかもしれない。仲良し三人でちょっと出かけるだけ、日程はたったの一泊二日。
しかも遊びはなし、二日間みっちり勉強に関することのみという、とても学生の個人旅行とは思えないくらい真面目な旅程だ。
けれどリェーチカにとってはこれが最初で最後の夏季休暇で、たった一つの大事な
学校では他の生徒の視線が気になる。誰にも気兼ねせず、二日間も友人たちとのびのび過ごせるなんて、もう二度とないかもしれない。
こんな機会を逃すわけにはいかないのだ。
「楽しみだね」
「ね。早く彼にも教えてあげましょ!」
――いい思い出、作れるといいな。
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