雪を解いて春を招(よ)べ

空烏 有架(カラクロアリカ)

00_ほとりの夢

 鳥の歌声が寂しげなのは、北国の短い夏を惜しむからだという。


 ふるさとはオオカミの神に護られた深い森。背の高い樹々に抱かれて、首飾りのように連なった湖群は、大小合わせて二十を超える。

 穏やかなには色とりどりの花と、子どもたちの屈託のない笑い声が咲き乱れていた。


 二番目の兄は、街に出て魔法使いになった。

 たまに帰ってくると、彼は手袋をした指を宙に躍らせる。たちまち空中に描かれた記号が燐光を放ち、続けて歌うように詩を口ずさめば、輝く紋様から毛長の黒猫が飛び出した。

 リェーチカはすぐさまを抱き上げる。ぬいぐるみとは違うずっしりとした重さと温かさ、かすかな獣の匂い。柔らかな毛並みに頬ずりすると、猫は身をよじって不満の声を上げた。


『ちょっとぉ』

「えへへ~、ふわふわ」

『……もうっ』


 文句を言っても爪は立てない、なんだかんだ面倒見のいい猫だ。小さな身体に、勝手に野花を飾りつけても、大人しくされるがままになってくれた。

 急ごしらえの猫のお姫様にリェーチカが満足していると、背後でばしゃんと水飛沫があがる。


 湖から三番目の兄が顔を出して、岸に置かれたかごへ、手に持っていた貝を放り投げた。

 かごはすでに満杯で、いくつかこぼれて地面に落ちている。それを見て、もう充分だよと次兄が言い、三兄も頷いて水から上がった。

 リェーチカは岸辺に放られていた彼の上衣ブラウスを拾って手渡す。


 長いみつあみの水気を絞りながら、三兄は言った。


兄貴ジーニャ、手袋貸して」

「え、短刀ナイフじゃなくて?」

「練習したいんだよ」


 熱心だなぁと小声で笑いながら、次兄ジーニャは手袋を脱いだ。

 三兄は彼から少しだけ魔法――紋唱術もんしょうじゅつを習っている。まだ自由自在とはいかないヒヨッコが、難しい顔をしながら宙に記号を描いていくのを、兄妹と黒猫はじっと見守った。


「――眩影げんえいの紋」


 空に描いた紋章から、ぴしりと微かな電撃が放たれる。貝が開くには弱かったようで、結局そのあとジーニャがやり直した。

 中にはみっしりと詰まった身。その下から覗く殻の内側は、薄曇りの真珠光沢が、鈍い虹色の輝きを放っていた。


 でも、きれいな貝よりも、リェーチカはその手袋のほうが羨ましかった。


「いいなぁ、私もやりたい! 便利だし、きれいだし、猫さんともお話できるしっ」

「おまえはダメだよ」

「なんで?」

「まだガキだから」

「もう十一だもん、子どもじゃないもん! う〜……お兄ちゃんミルシュコのいじわるぅぅ」

「よしよし。……そんな言い方は良くないよ、ミルシュコ」


 怒って泣き出した妹を宥めつつ、弟の暴言を嗜める。

 忙しい両親や長兄の代わりに、いつも次兄が弟妹の面倒を見ていた。時には獣の手も借りて。

 そのジーニャも勉強のために家を離れてしまって、たまにしか帰ってこないから、すごく寂しかった。口には出さないけれど、きっとミルシュコもそうだろう。


 魔法を教えてもらっているのが羨ましかった。

 そのまま二人揃って、どこか遠くに行ってしまう気がしたから。リェーチカだけを置き去りにして。


「……たしかに、もう少し大人になってからのほうがいいかもね」


 ジーニャの腕の中で聞いたその言葉は、鳥の歌と同じくらい寂しげで、たぶん兄の独り言だったのだろう。

 どういう意味なのかは、リェーチカにはわからなかった。



 三人と一匹はかご一杯の貝を抱えて、両親と長兄の待つ家に帰る。

 身と貝柱はその日の夕飯に。これは母とリェーチカの仕事。

 残った殻も兄たちがきれいに洗って磨き、主に装飾品として加工する。ごくまれに真珠が見つかることもあるらしい。何にせよ、田舎の貧しい地域では貴重な財源だ。


 まだ拗ねていた妹のために、三兄は貝殻で襟飾りブローチを作ってくれた。感性センスが悪いとさんざん文句をつけて何度も手直しさせたので、結局もう一回喧嘩した。

 そのくせ一度も着けたことはない。だって、……壊したりしたら嫌だから。



 ――あれから何年経ったんだろう。

 これは夢。もう二度と帰れない、懐かしい場所。





 今リェーチカが目を醒ますのは懐かしい故郷ではない。窓を開けてもひなびた田舎は見えないし、小川のせせらぎが聞こえる小道も、その先に待つ美しい湖もない。

 外には石畳が敷き詰められた味気ない住宅街が続き、彼方に市庁舎の時計台が佇んでいる。

 ここは首都カルティワの別宅だ。上京してもう数ヶ月経ち、都会の暮らしにもだいぶ慣れたし、少女は十六歳になっていた。


 三人の兄のうち故郷に残っているのは一番上だけ。夢に出てきた次兄と三兄はすでに家を出て、どちらも今は外国にいる。

 手紙のやりとりくらいはしているが、もうしばらく会っていない。


 だからだろうか、昔の夢なんて見てしまって、起きぬけに泣きそうになってしまった。


「……大丈夫、大丈夫だよ」


 鏡越しに自分に言い聞かせながら、学校の制服に着替える。暗い銀色の髪はいつもどおり頭頂部で団子シニョンにして、残りは三つ編みにして垂らす。

 四人兄妹みんなでお揃いの、ぱちっとつり上がった紫紺色の瞳を見つめ返して、リェーチカはもう一度繰り返した。


「私は大丈夫だからねっ」



 故郷にいたころ、朝はもっと早かった。長男の朝食の支度をやっていたからだ。しかも便利な紋唱術も使えないので、仕事はまず竈の火を手熾しするところから。

 今はリェーチカが学業に専念できるように、母がすべて引き受けてくれている。

 お陰で毎日ゆっくり身支度を整えられて、すでに用意された朝食をいただくだけ。まるで貴族のような優雅さだ。たまに申し訳なくなるが、今だけだから甘えさせてもらう。


「気を付けていってらっしゃいね」

「勉強も大切だが、友だちとの時間も楽しんでおいで」

「うん! お母さん、お父さん、いってきます」


 完璧な笑顔で挨拶をして、少女は意気揚々と自宅を出た。



 けれども軽やかな足取りは、一歩進むごとに重くなる。

 校門が見えるころには視線も落ちて、地面の上をみみずのように彷徨い始める。きれいな落ち葉があるわけでもない、青々と雑草が茂るだけの夏の道を、鉛のように重い脚を引きずりながら――それでもなるべく歩調は落とさずに。

 逆にほとんど早歩きになりながら門をくぐり、校舎に入り、廊下を突き進んで教室へ向かった。


 心臓がばくばく鳴るのをぐっと堪えて扉に手をかける。息を大きく吸って、――それから奥歯を音が鳴りそうなほど強く噛み締めて。


「……おはようございます」


 精一杯、明るい声と笑顔を張り付けながら教室に入ったリェーチカを、満面の笑みたちが迎え入れる。


「おっはよ~、



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