本は紙に限る

西丘サキ

本は紙に限る

 午後2時半。少し遅れてしまった。野暮用と役所の用事をまとめて済ませてしまおうと考えたのが間違いだった。待ち時間と煩雑な手続きのうんざりする取り合わせ。世間には些事があまりにも多すぎる。しかし、遅れたことを私は前向きに考えていた。通い慣れたあの書店の品出しは、すでに終わっているだろう。本当は朝一にも飛び込みたかったが、何度か通ううち、最新の書籍が朝一には並んでいないことに気がついた。書店の店員も人であり、労働者だ。サービス業はアルバイトで成り立っているというし、この書店もおそらく時間給のアルバイトが主だろう。朝一では品出しが終わっていない可能性がある。そして実際にそうだった。いくつかの時間帯での入店を試し、そうして行き着いたのが午後2時だった。本心で言えばもう少し早まらないかと思うが、致し方ない。私一人ではできないほど、代わりに膨大な知を集めているのだから。その点は妥協することにしていた。

 ゆっくりと店内に入る。世間で言えば平日の昼下がり。ぱっと見た様子では人影はまばらだった。書店側には申し訳ないが、人が多いと気が散るので好都合だ。早速私は近くのエスカレーターに乗り、上階を目指す。入店したら、まずは全体を見て回ることにしていた。木を見て森を見ず、という格言のとおり、小事にのみとらわれてはならない。全体の様相を知ることも私の勤めだった。

 それにしても、この広い店内に所狭しと多種多様な本が集められ、自分の身長よりも高い書棚にぎっしりと陳列されていると思うと目眩がする。この叡智こそ、愚かしいものも含めて人類が成しえてきた試行錯誤の結晶だ。そのすべてに触れるにはどれほどの時間と労力を費やせばいいのか。

 そんなことを考えながら教育書のコーナーを通りかかった時、棚の前に一組の男女がいた。位置関係が奇妙だ。男の方は奥の床に座り込んでにやにやとスマホを掲げている。女は棚から本を取り出すふりをしながら体をよじり、短いスカートを穿いた尻を男の方に向けていた。

 ああ、そういうことか、私は合点した。いわば彼らはディオゲネスだ。ディオゲネスは人々が活動し始めている時間に見せつけるように自涜をしていたことを、世の中を壊すことを理想にしていたどこかの大学教授がまじめ腐った顔で語っていたのを思い出した。こんな楽しくて気持ちいいことがあるのに、どうしてみんなやらずに働きに出るのかと嘯きながら。忘れていた記憶。私もそうするべきだろうか。いや、餅は餅屋だ。自涜の快楽を見せつけることを世界の転覆のてこにするのは彼らの仕事だ。ひとしきり写真を撮って満足そうに去っていく彼らを、私は頼もしく見送った。私は私のなすべきことをしよう。

 そうしてひととおり店内を見て回った後、私は今日の仕事に取り掛かることにした。今日は文庫本の続きだ。SFから雑学、実録の棚を進む予定となっている。いずれも私の好きな分類で気分は良かった。SFはありえた世界、ありえる世界を探求するという意味で人類の叡智を延伸させる。その拡がりの一端を触れることがとても悦ばしく、快い。雑学、実録に分類されている本の内容は私にとっては既知のことが多いが、いわゆるお勉強では得られない知識、ストリートワイズと言ったか、それが網羅されていることが大変好ましい。いずれもいわゆる本という言葉でイメージされる知の体系と関わりがないようでいて、その実他と同じように知の体系を支えている素晴らしいものたちだ。早速私は仕事に取りかかる。

 SFの書棚の一番最初「あ 1-1」が始まりだった。本に右手をかける。小口の天は不揃いなページを束ねられていて、ざらざらした感じ。引き出す。コート紙のつるつるした感触。ああそうだ。私は今、本に触れている。人類の知が生み出した結晶に触れている。背表紙のタイトルを見た。知との触れ合い。そして知の取り込みを完全なものにするために、私は左手で引き出した本に触れる。目で見て、両の手で触れて、本の存在そのものとその本が内包しているものを、私の中で確かなものへと築いていく。そして本を書棚へ押し込み、次の本へ。私はひとつひとつ、丹念に触れていく。普通に暮らしていたのでは決して行きつくことのない、知と想像力の体系。ひとつの到達点。

 触れることは知ることであり、融和することである。まさしく私は独りでは知りえなかったものを取り込んだのだ。時間が惜しい。早く次を、早く次を。しかし私はそれでも、書棚に並んだ本をひとつひとつ、丹念に触れていく。それが既定の方法であり、真摯に向き合うということだ。速読などというものがあるが、あれは駄目だ。字面だけ追ったところで何も身につかない。実際に時間をかけて触れるのでないと、本当の知とは出会えないのだ。

 ふと視線を感じる。それ自体はよくあるが関係のないことで、私は自分の仕事を続けていた。しかし断続的に、繰り返し視線がやって来る。鬱陶しくて私は仕事を中断し、首を向けた。

 そこにいたのは若い男の店員だった。流行にも個性にも距離を置いた、いたって十人並みの顔立ちと、黒地のズボンに白地のシャツ、そして店舗のユニフォームとして統一されているらしい、青地のエプロン。何を言うわけでもなさそうだが、邪魔くさそうに私の様子を窺っている。私自身、人間関係の機微には残念ながら疎い方だが、そんな私でもはっきりとわかるくらいには露骨な態度として現れていた。いや、実は彼にとっては隠しおおせている態度なのかもしれない。彼の知性をもってしては上首尾に軽蔑を隠蔽しているのかもしれないが、その実ある程度知の体系に親しんでいる私のような者からしたら、その隠蔽が乱雑に被せられた日よけのごとく見分けがつく。きっと本などロクに読んだこともないのだ。書店で働くくらいだから本好きを名乗ることもあるのだろうか。そうだとしてもマンガやライトノベル、せいぜいベストセラーのビジネス書くらいなのだろう。昨今は意識の持ちようも含めていろいろな働き方があると聞くので、そのような人間が書店で働いていても何の問題もないが、嘆かわしいのは事実だ。自己研鑽を怠らずに自らの知を高め、世の中の流れに付き添い、時には先んじる。書店員であればなおのこと、本に触れることの多い自らの機会を存分に活かしてしかるべきだろう。自分自身の豊かさに気づけないのは全く悲劇的だ。私が彼に何をできるわけでもあるまいが、せめて知の領域に手を伸ばし続け未知を知ることにもがいているこの姿を見て、何かを感じ取ってくれたらと願う。

 SFのコーナーを終え、雑学、実録、そしてまたビジネス寄りのタイトルが含まれている雑学のコーナーへと進んでいく。間に官能小説が入っていることには閉口したが、それでも、特に私自身がよく知らない分野の知に触れ学ぶことのできるこのコーナーは貴重だった。時折同じ棚の前に長々と居座っている中年男性がいるが、運良く今日はいなかった。さっきまで様子を窺っていた、あの愚かな店員もいない。安心して私は、自分自身の仕事に集中する。

 雑学の書棚に収まっていた最後の書籍を右手で引き出し、背表紙を確認した後左手で触れ、棚へと戻す。完了だ。少し雑念が入ってしまったために時間がいつもよりかかってしまったが、作業自体は首尾よく終えることができた。今日も多くの知に触れることができた。心地よい疲労感が私の中に積み上がっている。この大きな書棚に収まる量に一息に触れていくのはやはり一苦労だが、小さな書店の書棚では味わえない充実感があった。ましてや電子書籍など、紙を束ねた書籍という実体を持たないものなど、そんなものでは味わえないし、到達することのできない感覚と領域である。やはり、本は紙に限る。

 今日の仕事の進捗を反芻し、私は各フロアをもう一度巡った。ジャンルを分けていても圧倒的な物量の書籍と、忙しく書棚の間を立ち回っている店員たちを見ていると、自分自身が今近くにたどり着いた場所からであっても計り知れない知の体系の広大さと、その維持・管理にかかる労力がありありと感じとれた。やはりまだ、自分は道半ばなのだ。疲労感の中でだらけそうになっていた自分の心を、今一度引き締めた。

 気持ちも整ったことだし、もう帰ることにしよう。そう決めた私はフロアを下っていく。エスカレーター横の窓から差し込む西陽が強く、目が少しチカチカした。時刻は夕方に差し掛かっている。目は痛むがそれでもじきに、1階の集約レジと雑誌や新刊台の書棚が見えてきた。出口も近い。ふとレジを見やると、あの若い男の店員が今度はレジに入っていた。時間帯のせいか、学校や会社終わりの人々が続々と列を作り始めている。支払っては次、支払っては次の会計へ。右から左へ流れていく貨幣を間近に見ながら、彼は何を思うのだろうか? 流れ作業の終わることのない徒労感だろうか。より早く正確に誰よりも仕事を進められるようにする飽くなき向上心だろうか。それとも、案外何も考えていないのだろうか。さながら何十年も前に描かれた工場労働者のように。私は即座に判断を下せなかった。どれでもあり、どれでもないように考えられる。まだまだ私には知らないこと、思いもよらないことが数多くある。この世界を把握し、働きかけることなど夢のまた夢だ。もっと知へ触れていかなければならない。書店を出るたびに、私はいつもそう思う。

 思いを新たにし、またすぐ訪れることを誓いながら、私は帰路についた。

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